3.(前) 夏休み突入
そんなこんなで、俺は楽しく充実した、高校生らしい生活を楽しんでいた。
毎週水曜は古川さんとの定例掃除。掃除後は自販機の飲み物を飲みながら一休みするんだけど、彼女からはときおり、怪しげな郷土史や地元ネタが披露される。小学校と中学校で習ったものを教えてくれてるだけにしては数が多いし、ネタが濃すぎる。
曰く「芭蕉のころは文知摺橋なんかなかったから、あの辺で岡部の渡しっていう渡し舟に乗って阿武隈川を渡ったんだって」
曰く「江戸時代、瀬上宿っていう奥州街道の宿場があって、遊郭とかもあったんだって。ほら、国道4号線と阿武隈急行が交差するあたりからの旧国道らへん」
曰く「伊達政宗と上杉景勝の手勢が戦った松川の戦いだけど、あのころの松川はいまと違って信夫山の南側、いまの祓川あたりを流れてたらしいよ」
曰く「信夫山は柚子の産地としては、北限なんだって」
曰く「阿武隈急行って昔は丸森線っていう名前で、線路だけできてる状態で長いこと放置されてたんだって」
曰く「このまえ大ヒットしたアニメ映画の美術監督、うちの高校出身らしいよ」
……一体どこから仕入れているのやら、ネタの出処が非常に疑わしい。
そして七月上旬に行われた期末テストは、順調に学年中位で安定。
ズルズルと順位が下がってきている気もしないでもないけど、大丈夫、まだ大丈夫と自分に言い聞かせる。いまから本気を出しても、まだまだ余裕なはずだ。
とはいえ、日々の楽しい記憶が積み重ねられるのも今日で一段落だ。
明日からは、八月下旬までの夏休みになる。首都圏のように八月いっぱいじゃない代わりに、冬休みが若干長いのが東北地方ならでは、というところだ。
「じゃあな、宏樹。古川さんもオケの練習、頑張って」
「休み中どこかに遊びに行こうぜ」
無責任に宏樹が言い出す。どこかって、どこへだよ。
「新人戦に向けての新体制、お前がキャプテンになったんだろ? 部活はいいのかよ」
「まあ、休み中に連絡するわ」
ほら見ろ、やっぱり忙しいんじゃねえか、と俺は視線で文句を言う。そんな視線でのやり取りに気づかなかったのか、古川さんが明るい声で混ざってきた。
「岩崎くんも宏樹くんも、ちゃんと定演来てよね。渡したチケット失くしてないよね?」
「おう、楽しみにしてるわ。ハンドの練習サボってでもちゃんと行くから」
「ありがと。あと岩崎くんは掃除、忘れないでよね」
「わかってるって。なにかあったら連絡入れるから」
ホームルームが終わって、いつものメンツと、いつもよりちょっとだけ長めの挨拶を交わす。
この高校で過ごすであろう日々は、おそらく残り二カ月強といったところ。しかもそのうち一カ月は夏休みだ。後悔や心残りがないように、そろそろ自分の心の中のあれこれに整理をつけなければと考えると、気が重くなってくる。
──というはずだったんだけど、そんな課題は夏休みが始めると同時に放り投げてしまった。重めの課題からはどうしても逃げ腰になってしまう、俺の悪い癖だ。
そして夏休みが始まって数日後、俺は午前中から市立図書館に来ている。
部屋に居ても別にすることがないし、なによりもここは涼しい。この辺だと県立美術館と併置されている県立図書館が設備的にも広さ的にも立地的にも最高で、本来なら夏休み中の勉強はそこに行くのがこの辺の学生のセオリーだ。
とはいえ、あそこはうちの高校から近すぎるという、様々なメリットが全部チャラになりかねない大問題を抱えている。
去年試しに顔を出してみたんだけど、館内を少し歩いただけで、どこかで見たような顔がいるわいるわ。
一年のときであの有様なんだから、二年になると事態はもっと悪化してるに違いない。三年になったらどうなるかなんて、想像したくもない(三年の夏をここで体験できそうにないのは残念だ)。
それに公式には「公共の図書館で勉強するんじゃねえよ、一般のお客様の邪魔になるようなことはやめろ(大意)」って、学校からのお達しが出てるし。
そんな事情もあって、俺はあくまで自分の知的好奇心を満たすためと、そしてもちろん避暑も兼ねて、市立図書館に来ている。純粋に蔵書数だけ見れば県立図書館に見劣りするとはいえ、特に調べ物をする目的ではないのでこれで十分。
それに図書館や大規模書店では、書棚にびっしりと並べられている本の背表紙を見ているだけで、結構楽しめるものだ。これを全部これまで生きていた、そしていま生きている人が悩みながら手を動かして書き上げたのかと思うと、それだけで想像の翼が広がる気がする。
タイトルが気になった何冊かを書棚から引き抜き、俺は閲覧コーナーに移動した。
幸いにも良さげな空席を確保できたことに安堵して、どっかりと腰を落ち着けようとした瞬間、
「あれ? 岩崎くん?」
どこからか俺を呼ぶような声がする。幻聴か? いや、声だけでなく足音までこちらに近づいてくる。
知り合い回避のためにわざわざ市立図書館に来てるのに、こっちでも知り合いに会うのか。誰だよ、俺の邪魔をしやがるのはって、
「古川さんじゃん。なにやってんの?」
「いや、なにって……」
この暑いのに制服姿の古川さんが、抱えていた本を背中に回して隠そうとする。あからさまに怪しい挙動を見て、まさかいかがわしい書籍? と一瞬考えたけれども、公立の図書館にそんなものがあるはずもなく。
「それ、なんの本?」
口の中だけでモゴモゴ弁解していた彼女も最終的には諦めたみたいで、差し出された本は郷土史系の専門書だった。
あっ、ひょっとして掃除のときに開陳してた妙に詳しいネタの出処は、この辺の書籍か! 市立図書館だから地元を題材にした書籍も豊富だろうし、知り合いにも会いにくい。なんという知能犯!
古川さんは完全にネタ元が割れたことを認識してか、小柄な体をさらに小さくしていたけれども、俺が追求してこないのをいいことに開き直ったらしい。
「隣、いい?」
「いいよ。ところでオケの練習は?」
「午後二時開始。岩崎くんは?」
「腹が減ったら帰る、つもり」
「アバウトだなあ。岩崎くんらしいけど」
お互いの予定を確認したところで、双方の利益が合致した。
「じゃあさ、本探してる間は、お互い荷物番するようにしようよ。その方が安心だし」
「了解」
特に言葉を交わすでもなく、古川さんと静かに場を共有していた一時間ちょっと。女子と二人きりになってしまったときに感じる居心地の悪さはなく、安心感というか不思議な心地良さだけがあった。
「あのね」
手元に置いていた本をすべて書棚に返した古川さんが、閲覧コーナーに戻ってきた。
「なに?」
「お昼ごはん、どうするの? お腹すいたら帰るって言ってたけど」
「ああ、うん、そのつもり。そろそろ俺は撤収かな」
時刻を確認すると、そろそろ十二時を過ぎようか、というタイミングだ。もうこんな時間かよ、と机の上に広げた荷物の整理をしようと立ち上がった俺を引き止めたのは、自信なさげな古川さんの声だった。
「岩崎くん、その……」
「なんだよ」
「よかったら、だけど。一緒にお昼食べない?」
この展開は、まったく想定外だ。
休日にクラスメイトと外食するなんて、一年の時に宏樹と駅前でなんか食って以来か。財布にいくら入ってたっけ? 昼飯一回くらいなら大丈夫なはずだけど……と、念のため財布を取り出して、中身を確認して一安心。
「いいけど、心当たりある?」
「オケの先輩に聞いたことがあるお店が、ここから近いと思って」
ということで、俺と古川さんは連れ立って昼食に向かうことになった。ここから歩いてすぐらしいから、自転車を図書館の駐輪場に止めたまま、歩いて向かったんだけど……。
目的地に到着した俺たちは、お互いの顔を見合わせてヒソヒソ話を始めざるを得なかった。
「オシャレすぎねえ? なんか男子高校生は入っちゃいけない店のような気がする」
「だ、大丈夫だと思うよ?」
「入口からちょっと覗いてみて、ヤバそうだったらそのまま出よう」
「わかった」