勇者、陥落②
「ですからぁぁぁ、どうか、どうかご再考をぉぉぉ……!」
第三応接室に、聞き覚えのありすぎる嗚咽が響いていた。
エドガーは床に膝をつき、両手でカイルの脚にすがりつかんばかりの姿勢で、顔をくしゃくしゃにして泣いている。肩は小刻みに震え、握りしめたハンカチはすでに原型を留めていない。
「カイル殿ぉぉぉっ! わたくしはっ! わたくしはっ!」
「や、やめてくれ、エドガー! ちょ、ちょっ、離れろっ! そんなこと言っても無理だからなっ!」
カイルは額に汗を滲ませ、後ずさりしながら必死に距離を取ろうとしているが、エドガーが逃がすはずもなく。ずるずると床を這い、なおも追いすがる。
「このままでは、わたくしが今後もあの隣国の侍従に嫌味を言われ続けるのですぞっ!」
ついに限界が来たのか、エドガーは床に額を擦りつけ、嗚咽混じりに叫んだ。
「どうか、どうかこのエドガーを! 恥辱の淵からお救いくださいませぇぇぇっ!」
「い、いや、知らんっ! ち、恥辱の淵ってなんだよ!」
そう口では言いながらも、完全に突き放せないのがカイルの優しさだろう。エドガーを足にくっつけたまま視線は泳ぎ、両手は行き場を失い、情けないほど狼狽えていた。
「結局いつもの泣き落としかよ」
俺は思わずため息混じりの声を漏らす。いや、ここまでなりふり構わずに全力で泣き落としにかかれるなんて、ある意味才能だ。むしろエドガーに感心すらしてしまう。
「予想はしてたが、最悪の形で来たな」
隣のルーカスもソファに肘をつき、こめかみを押さえる。
先日の、ルーカスとの不穏すぎる密談から数日も経たないうちに。俺たちは再びこの第三応接室に集まり、今度はカイルに直接あの件を切り出すことになった。なお、ルーカスは最初から最後まで「これは国際交流だ」と主張していたが、その主張がどこまで通用するかは怪しいところだった。なんせルーカスの隣には、山のような釣書と写真を抱えたエドガーが、満面の笑みで待ち構えていたのだから。
最初のうちは「国際交流」という言葉を一字一句疑いもせず、カイルは背筋を伸ばし、神妙な顔つきで話を聞いていた。時折、うんうんと真面目に頷いているあたり、本気で外交の話だと思っているのが見て取れる。
だが話が進み、「我が国でも聖女と勇者のカップルを――」というくだりに差し掛かったあたりで、カイルの眉がわずかに寄った。
さらに「相性」「心を通わせ」といった単語が続き、決定打のように「口づけ」という言葉が飛び出すやいなや。カイルは目に見えて硬直し、次の瞬間には耳まで真っ赤に染めて、椅子から半分跳ね上がった。
「んなっ! そ、それは……っ!?」
言葉にならない声を上げたかと思うと、こちらが制止する間もなく、反射的に出口の方へ体を向ける。
「む、無理だ無理だ無理だっ!」
そのまま一目散に逃げ出そうとする姿は、勇者の末裔というより、完全に追い詰められた小動物だった。まあ、俺とルーカスにとっては、予想通りすぎて大して驚きもしなかったが。
そしてそれを、エドガーが先日の宣言通り、「全身全霊をもって」引き止めた結果が、現在進行形のこの惨状だ。
「なあ、エドガー。これ説得じゃなくて、脅迫に近くないか?」
さすがに見かねてそう声をかけた。別にカイルの肩を持つつもりはないが、ここまで必死になる理由も見当たらない。ポーションはこれまで通り隣国から買えばいいし、見合いだって、本人にその気がないなら無理強いする話でもないはずだ。エドガーがこれまで通り、隣国侍従の嫌味とやらに耐え続けてくれれば、それで解決だ。
「……ぐぬ……」
エドガーは涙と鼻水にまみれた顔でこちらを見上げ、言葉を詰まらせた。
「エドガー、そろそろ諦めろ」
今度はルーカスが口を開く。どこか主の威厳を滲ませた、はっきりとした声音だった。
「最初から言ってただろ。カイルが拒否するなら、この話は無しだって」
「ですが……しかし……」
エドガーはなおも食い下がろうとしたが、ルーカスの視線に射抜かれ、ついに言葉を失った。場の空気が、ほんのわずかだがカイルの方へと傾く。
「そ、そそそ、そうだっ!」
カイルが恐る恐る顔を上げる。泣き落としの圧から解放された途端、ほっとしすぎて今にも崩れ落ちそうなほど力の抜けた顔だ。
「何度も言うけど、み、見合いなんて無理なものは無理で……」
ここで一気に形成が逆転か、と思われた、そのとき。
「ちょっと、お兄ちゃん!」
場の空気を切り裂くように、よく通る声が割り込んだ。
(そういえば、いたんだったな)
一斉に皆の視線がそちらへ向く。
声の主はもちろんユナだ。カイルを嗜めるその表情は、呆れ半分、苛立ち半分といったところか。
「ねぇ、エドガーが、こんなにお願いしてるんだからさ」
そう言って、ちらりと床に座り込んだままのエドガーを見る。
「いい加減、男らしく腹をくくって、見合いのひとつやふたつ、してあげればいいじゃない」
「ユ、ユナ!?」
カイルの声が情けなく裏返った。
(あ、これは)
俺は内心でそっと顔を覆う。せっかくカイルに傾きかけた流れが、音を立ててひっくり返る予感がしたからだ。
ちなみに言っておくと、ユナがここにいるのは偶然ではない。どうやらエドガーが、最初から助っ人として呼んでいたらしい。
(そりゃユナなら喜んでこの場に来るよな)
ユナにとってカイルの見合い話なんて、突然降って湧いたようなラッキーでしかないだろう。先日パン屋のおばさんの手紙を見つけた時の、あの期待に膨らんだユナの顔が脳裏をよぎる。
(エドガーのやつ、根回し半端ないな)
遠巻きに床のエドガーを盗み見ると、案の定だ。つい先ほどまで泣いていたはずの男が、いつの間にか涙をひっこめ、全身を耳にしてユナの声に意識を集中している。なんたって、ユナはカイルの弱点だからな。味方につくのはでかい。
(おい。今、小さくガッツポーズしなかったか?)
「そうですとも! ユナ殿のおっしゃる通りでございますぞ!」
エドガーが勢いよく顔を上げた。まるで水を得た魚。いや、さっきまで萎れていた分、余計に元気だ。
「いえ、カイル殿にとっては必要のない「見合い」なのかもしれません。しかしですよ!」
どうやらエドガーは泣き落としを切り上げ、今度はカイルの「困っている人を放っておけない性格」に狙いを定めたらしい。ユナの追い風に乗って、もっともらしい話を並べ始めた。
「もし我が国で正式なポーションが生産できるようになれば、これまで隣国に支払っていた多額の購入費用が不要になります! その分、国庫に余裕が生まれ、経済も潤うのです! ね、陛下! そうでございますよね?」
突然振られたルーカスが、ぴくりと眉を動かした。
「え? あ、ああ……まあ……」
言葉を探すように視線を泳がせてから、気まずそうに頷く。
「理屈としてはそうだな。自国生産ができれば、長期的には国庫の負担は減る」
「でしょう!? でしょうとも!」
エドガーが、今度は完全に立ち上がり、したり顔で胸を張る。
「それにです! 価格が下がれば、これまで高価で手が出なかった国民も、ポーションを手に取れるようになるのですぞ!」
「そうそう!」
すかさずユナが声を重ねた。
「角の家のおばあちゃん、いつも言ってるよ。『もっとポーションが安かったら、この手も楽になるのに』って」
そう言って、神妙な顔つきのまま、自分の手首をさすってみせる。
角の家のおばあちゃんとは、俺たちが幼い頃からずっと、まるで本当の孫のように可愛がってくれているご近所さんだ。だからこそ、この名前は効く。きっとユナもそれをわかっていて、あえて口にしたのだろう。
「怪我しても、値段を気にしてポーション使うのを我慢してる人、結構いるんだから。お兄ちゃんだって知ってるでしょ?」
それは間違いなく事実だった。ポーションは便利だが、やはり輸入品だ。値が張る。俺だって、怪我をしても「このくらいなら」と自分に言い聞かせて我慢することもある。
カイルも、はっとしたように言葉を失った。思い当たる節がある顔だ。視線が泳ぎ、困ったように床を見つめる。
「そ、それは……まあ……」
(あー……)
俺は心の中で小さく唸った。
(これはズルいな)
カイルのことだ。自分が見合いをすることで、誰かの助けになるかもしれない。そんな話を突きつけられて、平然としていられるはずがない。今ごろ頭の中では、「無理だ」と「でも」が、ぐちゃぐちゃにぶつかり合っているに違いない。
あと一押し。背中を押されれば、踏み出してしまいそうな顔だ。
ルーカスもそれを感じ取ったのか、顎に手を当て、難しい顔で小さく息を吐いた。
「まあ、国としては悪くない話ではあるな」
その言葉に、エドガーとユナの目が、同時にきらりと光った。




