素敵な国王様
それは、ここヴァリアントがいつもと変わらぬ長閑な朝を迎えた、とある日のことだった。朝の鐘が鳴ってから、すでにしばらくが経つ。
国王付き侍従のエドガーは、一人、城の奥にある主の私室へと向かっていた。足を動かしながらも、頭の中では今日一日の予定を順にさらっていく。
午前中は大臣たちとの会議。昼食を挟んで、午後からは各地から届いた陳情書の確認に、山積みになった決裁書類への署名。その後も、主が聞けば「またか」と顔をしかめそうな、代わり映えのしない公務がいくつか続く。
とはいえ、どれもれっきとした国王の仕事である。いくら寝ても寝足りない年頃とはいえ、いつまでも寝かせておくわけにはいかない。エドガーは見慣れた扉の前で足を止め、いつものように声を掛ける。
「陛下。朝でございます。失礼いたしますぞ」
返事を待たずに扉を開けるようになったのは、いつのことだったか。
エドガーの主である若き王は、朝にめっぽう弱い。部屋の外からいくら声を掛けたところで、その声が寝入った本人の耳まで届かないことなど、長年仕えてきたエドガーは嫌というほど承知している。ゆえに、返事を待つだけ無駄である。
そうして今日も当然のように部屋へ足を踏み入れたエドガーは、目の前に広がる光景を、しばし無言で眺めた。
重厚な調度品に、上質な絨毯。大きな窓には緻密な刺繍の施された分厚いカーテンが掛けられ、天井の中央には、朝の光を受けてきらきらと輝く立派なシャンデリア。誰の目から見ても、一国の王の私室にふさわしい佇まいであることは間違いない。
問題は、その格調高い部屋が、どこもかしこも歌姫ソフィア嬢だらけなことである。壁を見れば、ソフィア嬢。棚を見ても、ソフィア嬢。
丁寧に箔押しの施されたクリーム色の壁には、公演用のポスターが所狭しと飾られ、棚にはパンフレットや記念品、ソフィア嬢を模した小さな人形などがずらりと並んでいる。その中央には、以前エドガーが与えたソフィア嬢直筆のサイン色紙が、国宝でも飾るかのような立派な額に収められて鎮座していた。
エドガーは小さく息を吐くと、ようやく寝台へと目を向けた。
三人はゆうに寝られそうなほど大きな寝台は、重厚な木枠に細やかな彫刻が施された、豪奢な代物だ。その中央では、こんもりと盛り上がった布団が頭まですっぽりと主を覆い隠している。
「陛下。そろそろお目覚めください。もうとっくに朝でございますぞ」
聞こえていないのか、はたまた、聞こえていないふりをしているのか。返事はない。
「まったく。これだけの情熱をお持ちなのですから、そのほんの一割でもご自身の縁談に向けてくだされば、わたくしも苦労せずに済むのですがな」
そう言いながら何気なく机へ目をやれば、そこには作りかけの「うちわ」とやらが広がっていた。なんでも遠い東のとある島国では、贔屓の歌手の公演へ行く際、こうしたものを自ら作って持参する文化があるらしい。その話を異国の商人から聞いた主が、「俺も作る!」と、目を輝かせていたのは、つい最近のことだ。
「ソフィア嬢がお好きなのは重々承知しております。ええ、それはもう、この部屋を見れば嫌というほど」
エドガーは壁一面のポスターをちらりと見やった。
「ですが陛下。残念ながら、いくら部屋をソフィア嬢で埋め尽くしたところで、王妃が向こうから生えてくるわけではございませんぞ」
そこまで言って、ふと眉をひそめる。
妙に静かである。
「陛下! 聞いておられますか!」
エドガーはつかつかと寝台へ歩み寄ると、こんもりと盛り上がった布団を勢いよく引っぺがした。
「……な……な……」
わなわなと全身を震わせるエドガー。その目が見下ろしているのは、すやすやと寝息を立てているはずの若き国王――ではなく。
「ま、枕ですとぉぉぉぉぉぉ!?」
ひとつ、ふたつ、みっつ!
これでもかというほど綿の詰め込まれた大きな枕が三つ。ご丁寧にも縦一列に並べられ、見事に人ひとり分の膨らみを作り上げていた。
「陛下が……いない……?」
だが、さすがは城一番の切れ者である。エドガーの脳裏に、ある記憶が電光石火のごとく蘇った。
「まさか――!」
勢いよく振り返り、主の机へ猛然と駆け寄る。狙うは上から二段目。主が大事なものをしまっている引き出しである。取っ手を掴み、力任せに引き開ける。そして中から一枚の紙を引っ掴むと、目にも留まらぬ速さで広げた。
『歌姫ソフィア 待望の自叙伝、いよいよ発売! 刊行記念サイン会開催!』
そこに躍る文字を目にした瞬間、エドガーの顔からさっと血の気が引いた。
「きょ……」
紙を持つ手が、ぶるぶると震える。
「今日でしたかぁぁぁぁぁぁぁ――――――っ!!」
若き国王の寝室に、エドガーの絶叫が轟いた。
* * *
一方、その頃。王都の一角にある書店の前には、早朝だというのに長蛇の列ができていた。
その中に、一人。帽子を目深にかぶり、地味な色の上着に身を包んだ青年がいた。先ほど買ったばかりの新刊を大事そうに胸に抱え、なるべく目立たぬよう俯きがちに列に並んでいる。一見すれば、どこにでもいるただの若者だ。が、よくよく見れば、ただの若者にしては少々おかしい。
帽子の隙間から覗く髪には妙に艶があり、肌もやたらと美しい。毎日、それなりの手間と金をかけて手入れされていることは一目瞭然。地味な上着を着て猫背を装ってみたところで、長年染みついた立ち姿まではそう簡単に誤魔化せない。おまけに本人は必死に消しているつもりなのだろうが、そこはかとなく漂う妙な品まである。平民に化けるには、いささか育ちが良すぎた。
言うまでもない。国王ルーカス、その人である。夜明け前、枕を三つ身代わりに残し、誰にも気づかれぬよう城を抜け出してきた張本人だ。
とはいえ、幸いなことに、その不自然さを気に留める者は一人もいなかった。なにしろここにいる者たちは皆、筋金入りのソフィア嬢ファンである。列の先に待つ歌姫を前にして、見知らぬ青年の髪が艶々だろうが、肌がつるつるだろうが、どうでもいい。
かくして、一国の王による渾身の変装は、その出来とはまったく関係のないところで完璧に成功していた。
しかも、本人としては相当早く来たつもりだった。何しろ、空が白み始めるよりも前から行動を開始していたのだから。にもかかわらず、先ほどからルーカスは、そわそわと落ち着かない心を持て余していた。
(くそっ……もっと早く出ればよかった)
どうやら、ルーカスにとってはまだ遅かったらしい。目深にかぶった帽子のつばをわずかに持ち上げ、前方へ延々と続く列を見やる。すでに数十人。さっとサインをもらって帰るつもりだったが、そう簡単にはいきそうにない。今頃、エドガーが自分の布団をめくって雄叫びを上げていることだろう。
が、問題はそこではなかった。それよりも、前に並ぶ者たちが全員、自分より早く来ていたという事実が、そこはかとなく悔しい。別に、早く並んだ者ほどソフィア嬢への愛が深いと決まっているわけではない。そんなことはルーカスにだってわかっている。わかっているのだが。
(……負けた気がする)
夜明け前に城を脱走しておいて、である。
そして順番が近づくにつれ、今度は別の意味で落ち着かなくなってきた。
普段のルーカスは、一国の王として大臣たちを束ね、他国の使者を前にしても堂々と振る舞う男である。多少のことでは顔色ひとつ変えない。そんな男が今や、順番がひとつ近づくたびにそわそわと手汗を拭い、抱えた本を持ち直しては、また持ち直しているのだ。
まるで、想いを寄せる娘に初めて手紙を渡そうとしている青年のようである。もっとも、手にしているのは恋文ではなく、先ほど自分で買ったソフィア嬢の自叙伝なのだが。
そしてついに。
「次の方、どうぞ」
ソフィア嬢本人の声に、ルーカスの緊張は一気に頂点へ達した。ぎくしゃくと前へ進み、両手で抱えていた本を差し出す。
「いつも応援しています」も、「大好きです」も、それどころか昨夜あれほど念入りに考えていた気の利いた一言の数々も、本人を目の前にした途端、きれいさっぱり頭から消え失せていた。
「お買い上げありがとう。嬉しいわ。お名前は何と書きます?」
にこりと微笑みながら尋ねられ、ルーカスの心臓が跳ね上がった。
毎朝、部屋を出る前に一度。夜、眠りにつく前にも一度。壁を埋め尽くすソフィア嬢のポスターを眺めることは、もはやルーカスの日課である。どのソフィア嬢も可愛くてたまらない。しかし、今、目の前にいる本物は――そんなものとは比較にならなかった。
「ルっ……ルーカスで!」
見事に声が裏返った。だが、ソフィア嬢はそんなことなど気にも留めず、慣れた手つきでさらさらと本にペンを走らせていく。そして最後の一文字を書き終えると、本を両手でルーカスへ差し出し、またにこりと微笑んだ。
「この国の王様と同じお名前なのね。素敵な名前だわ」
「……!」
「国王様は、いつも私たち国民のことを思いやってくださる、とても素晴らしい方でしょう? あなたもきっと、同じように優しい方なんでしょうね」
まさか、その国王本人が目の前で帽子を目深にかぶり、夜明け前から城を抜け出してサイン会に並んでいるとは、夢にも思っていない顔だ。
そこから先の記憶は、ルーカス自身にもほとんど残っていない。どうにか礼だけは伝えたらしい。気がつけば本を胸に抱きしめ、ふらふらと書店を後にしていた。
「ソフィア嬢が……素敵な名前だって……素晴らしい国王様だって……優しくて、かっこいいって……」
すれ違う人々が怪訝そうに振り返っていく。ちなみに、「かっこいい」とは一言も言われていない。どうやら、すでに記憶の改ざんが始まっているらしい。
しかし、このやり取りが若き国王の何かに火をつけたことだけは間違いなかった。しばらく夢見心地で歩いていたルーカスが、ふいに足を止める。そして、何か重大な使命に目覚めたかのように顔を上げた。
「俺は!! ソフィア嬢が生涯歌い続けられるような、平和な国を作る!!」
往来の真ん中で、若き国王は高らかに宣言した。動機はともかく、志だけは立派である。周囲から向けられる奇異の視線など、もはや彼の目には入っていない。ルーカスはもう一度、崇拝する歌姫直筆のサインへ視線を落とすと、にんまりと頬を緩ませた。
「よし。帰ったらまず、この本専用のガラス箱を特注しよう。確か隣国で、槍で突いても割れない新素材が開発されたとか言ってたな……」
国防にでも使えそうな技術を、真っ先に推しのサイン本へ投入するつもりらしい。
人生とは、なんと素晴らしいのだろう。
ソフィア嬢は今日も美しかった。直筆のサインも手に入った。名前まで褒めてもらった。おまけに国王としての自分まで褒めてもらった。
まさに、最高の一日である。
そうしてルーカスは、今にもくるくると回りだしそうな、軽い足取りで城への道を歩いていった。
このあと城へ戻るなり、般若もかくやという形相のエドガーに、部屋中のソフィア嬢の品々をあわや捨てられそうになることなど、夢見心地の若き国王はまだ知らない。
長々とこの作品にお付き合いくださり、ありがとうございました。
番外編二本をもちまして、今度こそ本当に完結です。
ここまでロイたちの物語を最後まで見届けてくださったこと、心より感謝いたします。
少しでも「面白かった」「読んでよかった」と思っていただけましたら、評価や感想など残していただけると、とても嬉しいです。
最後までお読みくださり、本当にありがとうございました!




