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俺が聖女だなんて聞いてない! ~幼馴染を助けたら、なぜか『癒しの光』が発現しました~  作者: エス


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初デート(side エリシア)

 待ち合わせ場所に向かう途中、ふと仕立て屋の前で目が止まった。王都の一流店らしく、隅々まで曇りひとつなく磨かれたガラス。その向こうには、まだ冬のさなかだというのに、春を意識した淡く明るい色の服が並んでいる。


 その中の一着、袖の部分だけふわりと透ける素材で仕立てられた、柔らかな薄桃色のワンピースに目を奪われて、私は思わず足を緩めた。


(やっぱり、こういう可愛らしい色の方がよかったかもしれない……)


 ちらりと視線を足元に落とす。コートの裾から覗いているのは、今日のために選んだ紺色のサテンのワンピースだ。


 別にこの色が気に入っていないわけではない。むしろ、何着も何着も試着して散々迷った末に選んだ一着だ。私にもよく似合っていると思う。


 ただ、今日ばかりはカイル様に少しでも可愛いと思ってもらいたい。そう思うと、急にこれでは少し地味だったような気がしてきて、ついガラスの向こうの服たちと比べてしまう。


(お見合いのときのカイル様、ロイヤルブルーの上着が本当にお似合いだったのよね)


 その姿があまりにも素敵だったから、つい同じ青系統の色に惹かれてしまったのだ。

 

(今日も、あの上着を着てきてくださっていたらいいな)


 カイル様のロイヤルブルーに、私の紺色。二人で並んで歩く姿を想像したら、さっきまで気になっていた薄桃色のワンピースのことなんて、どうでもよくなってしまった。気づけば頬が緩んでいて、私は慌てて口元を引き締めた。


 ようやくこぎつけたカイル様とのデートだもの。一度はどうなることかと思ったけれど、勇気を出してもう一度お誘いして本当によかった。お見合いのときの様子を見る限り、カイル様はきっと少し照れ屋なのだ。だったら今日くらい、私がしっかりしないと。


 最後にもう一度だけ、ガラスに映る自分をさっと確認する。髪は乱れていない。コートの襟も曲がっていない。ついでにスカートの裾も軽く整えて。


(よし!)


 再び足を進めた。角を曲がれば、カイル様と待ち合わせした広場が見えてくるはずだ。


(とはいえ、待ち合わせにはまだずいぶん早いのよね。外で待っているには寒いし、どこか見て回ろうかしら)


 緊張と期待でどうにも落ち着かず、宿屋で一人じっとしていることに耐えきれなくなって、早々に出てきてしまった。せっかくヴァリアントに来ているのだし、土産物屋でも覗いてみようかしら。


 その場できょろきょろと周りを見回していると、買い出しの帰りなのだろうか、小麦粉の袋をいくつも積んだリアカーを引くご夫婦が、ちょうど広場の方からやって来るのが見えた。聞き耳を立てるつもりなんてなかったのだけれど、すれ違いざま、その会話がふと耳に入る。


「ねえ、あんた。さっき広場にいたの、カイルちゃんじゃなかったかい? なんだかえらくめかし込んでたけど」


「ああ? あいつ、まだいたのか? 俺が配達で通ったときにもいたぞ」


「いつ頃だい?」


「一時間くらい前だな。なんか顔引き攣らせて、突っ立ってた」


「まあ! じゃあこの寒い中、一時間もあそこに立ってるのかい? なんだろうねぇ。まさか、デートでもすっぽかされたんじゃ――」


「カイルがデート?」


「…………」


「…………」


「ないねぇ」


「ないだろ」

 

 二人は揃って納得したように頷くと、そのまま何事もなかったかのように私の前を通り過ぎていった。


(え? カイル様、もういらしてるの!?)


 しかも、一時間も前から? 土産物屋に行くことなんて、一瞬で頭から吹き飛んでしまった。


(た、大変! お待たせしてる!)


 待ち合わせの時間にはまだ早いのだから、別に遅刻したわけではない。それでも、カイル様がもう来ていると知ってしまった以上、のんびり寄り道なんてしていられない。私は慌てて広場へと続く角を曲がった。


(いた!)


 すぐに見つけた。広場の入り口近くに、カイル様が立っていた。この寒さだというのにコートも羽織らず、背筋はぴんと伸び、両腕は身体の横にきっちり揃えられている。遠目に見てもわかるくらい微動だにしないその姿は、まるでそこに置かれた人形か何かのようだ。


(あの服だわ)


 思わず顔がほころんだ。カイル様の身体を包んでいるのは、お見合いの日に着ていた、あのロイヤルブルーの上着だ。


(やっぱり素敵! ワンピース、紺色にしてよかった!)


 ついさっき仕立て屋の前で思い描いた通りの姿がそこにあって、急いでいたことも忘れて、ほんの一瞬だけ見惚れてしまった。


「カイル様、す、すみません! お待たせしてしまいました」


 小走りで駆け寄って声をかけたが、カイル様は目を閉じたまま何やらぶつぶつと呟いていて、私の声なんてまるで耳に入っていないみたい。


「……えっと、まず服を褒める……だったな。それから誘ってくれた礼を言って……あとは……なんだ? ああ、エスコート。んで、終わったら、しょ、食事に誘う……。服、礼、エスコート、食事……服、礼、エスコート、食事……。ああ、もう。ユナのやつ、なんかメモにでも書いておいてくれればいいじゃねーか……」


「あの……カイル様?」


 さっきより少しだけ声を大きくして、もう一度呼びかける。


「おわっ!?」


 カイル様の大きな身体が、わかりやすく跳ねた。はっと目を開けると、私の姿を見てさらに大きく目を見開き、そのまま一歩、二歩と後ずさる。


「あぅっ……い、いつからそこに……!?」


「たった今です。カイル様すみません、お待たせしてしまいましたか?」


「い、いいいいや! 待ってない! 全然待ってない! お、俺もついさっき来たばっかりで……ほんと、ほんとについさっき!」


 ぶんぶんと両手を振って必死に否定しているけれど、先ほどのご夫婦の話を聞いていなかったとしても、そんな真っ赤になった鼻で言われたら、とても信じられそうにない。きっと、私に気を遣ってくださっているのね。だったらここは、気づかないふりをしておこう。


「そうなんですね。それならよかったです」


 にこりと微笑むと、カイル様は真っ赤な顔のまま、まるでばね仕掛けの人形みたいに何度もこくこくと頷いた。


「まだ少し時間もありますし、よかったら王都を案内していただけませんか?」


「あ、案内!? あ、ああ。じゃあ……い、行くか」


 そう言って、カイル様は広場の外へ続く道を指差した。私が頷くと、ほっとしたように前を向き、歩き出す。けれど、二、三歩進んだところで足を止め、何かを思い出したように慌てて振り返る。


「あ、あの……その……ふ、服!」


「え?」


「服、に……似合ってる! うん!」


 言い切ったカイル様は、なぜかやり遂げたような顔で大きくひとつ頷いた。


(まあ、カイル様ったら。まだコートも脱いでないのに)


 人によっては怒り出すんじゃないかと思うような褒め方だけれど、その不器用さがなんだか可愛らしい。


「ふふ。ありがとうございます。でもコートの下のワンピースも可愛いんですよ。あとで見てくださいね!」


 褒めてもらえたことが嬉しくて、自然と声が弾んだ。するとカイル様はまた顔を赤くして、くるりと前を向いてしまう。


 そして今度こそ出発するのかと思ったら、ふと自分の腕に目を落とした。そのまま何やら考え込み、おそるおそる片腕を少しだけ持ち上げる。


「…………」


 けれど、すぐにぶるぶると頭を振って腕を下ろすと、何事もなかったかのように歩き出した。


(今のって……)


 よそ見をしていたら気づかなかったであろう、わずかな仕草だったけれど。カイル様が何をしてくれようとしたのかは、ちゃんとわかった。胸の奥がぽっと温かくなって、小さな不安が、すっと消えていく。


 実は今日ここへ来るまで、ほんの少しだけ心配していたのだ。もしかしたらカイル様は、本当はデートなんてしたくなかったんじゃないか。私がもう一度誘ったから、断りきれずに来てくださっただけなんじゃないかって。


 でも、どうやらそんな心配はいらなかったみたい。あれこれ気を遣ってくださるカイル様を見ていたら、なんだかそう思った。


(デート、うまくいくといいな)


 少し先を行く大きな背中を、私は弾む足取りで追いかけた。


 すぐにカイル様の隣に並び、二人で王都の通りを歩いていく。

 

「こっ、ここは……俺がよく行く肉屋で。ここの燻製肉、すげーうまいんだ。あと腸詰めも」


「まあ、そうなんですね」


「あ、でも昼過ぎると売り切れてること多いから、買うなら朝の方がいいぞ」


 どうやらカイル様は常連らしい。店先に立っていた恰幅のいいご店主がこちらに気づいて、「よう、カイル!」と威勢よく声を掛けてきた。カイル様も片手を上げて応えようとしたけれど、店主の視線が私を捉えたことに気づくと、急にあわあわとまごついて「ま、またな!」と足早に通り過ぎてしまった。


 そのまま少し歩くと、今度は通りの向こうにある店を指差す。


「で、あ、あっちが食堂。あそこは安いし、量も多い。大盛りにしてもほとんど値段が変わんねーんだ」


「カイル様はいつも大盛りを?」


「い、いや、俺は特盛り」


「まあ」


「あと、その先の角を曲がったとこに串焼きの屋台があって。肉がでかくて、一本でも結構腹にたまる。あ、でも二本買うとちょっと安くなるから、俺はいつも四本買う」


「四本!?」


「ああ」


 肉屋に食堂、串焼きの屋台。カイル様が教えてくださるのは、どういうわけか食べ物のお店ばかりだ。けれど、お気に入りのお店の話になると、先ほどまでのぎこちなさが嘘のように目を輝かせて話してくださる。あれがおいしい、これは量が多い、こっちは金曜日に行くとお得だ。そんな話を聞いているうちに、私まで楽しくなってきた。


「ふふ。カイル様って、食べることがお好きなんですね。今度、カイル様のお気に入りのお店に一緒に行ってみたいです」


「い、一緒に?」


「はい。ぜひ」


「……あ、ああ」


 言ってからはたと気づいた。これってもしかして、また私から次のデートに誘ったみたいになってる? そう思った途端、急に恥ずかしくなってきた。


(でもカイル様、「ああ」って!)


 ちらりと隣を見れば、カイル様もどこか落ち着かない様子で、ぐしゃぐしゃと髪を掻いている。


「…………」


 なんとなくお互いに黙り込んでしまって、私はこの気まずいような、くすぐったいような空気を誤魔化すように、通りの反対側へ目を向けた。


「あ、本屋さん」


 思わず声が大きくなったのは、この妙な沈黙をどうにかしたかったから――というのもあるけれど、それ以上に、店先に並ぶ本を見て、あることを思い出したからだ。


「そういえば以前ユナちゃんから聞いたのですが……」


 名前を出した途端、カイル様がこちらを向いた。ユナちゃんとはすっかり仲良くなって、カイル様のことも色々と聞いている。ユナちゃんは「過保護すぎる!」なんて言っていたけれど、私から見れば、妹思いの素敵なお兄様だ。


「カイル様の愛読書に出てくる女性が、私に似ているそうですね?」


 何気なくそう尋ねた、その瞬間だった。


「な――――っ!?」


 カイル様が弾かれたように私から距離をとった。一歩……いえ、三歩くらい。一瞬のことだったけれど、誇張でも何でもなく、本当に尻尾を踏まれた猫みたいに飛び退いたのだ。


 そして、その顔がみるみるうちに、それはもう夕焼けみたいに真っ赤に染まっていく。


「な、な、な、なんでっ……あいつ! なに喋ってんだよ!? ち、違う! 愛読してない! あ、あれは借りただけで! 俺のじゃない! 別に何回も読んだとかでも――」


 そこまで一気にまくし立てると、カイル様はこの世の終わりみたいな顔をして、口をつぐんだ。


「……?」


 何がそんなに大変なのかよくわからないまま、私はぱちぱちと瞬きをする。


「違いましたか? 私に似ている女性が出てくるなんて気になってしまって。……小説かなにかですか?」


「そ、それだ!!」


「え?」


 突然、カイル様が息を吹き返した。

 さっきまで三歩も逃げていたのに、今度はその三歩を一気に取り戻す勢いで、ずいっと私に詰め寄ってくる。


「そ、そそ、そうだ! しょ、小説! それだ! その……小説に出てくる主人公の雰囲気が、ちょっと似ててだな!」


「まあ、そうだったんですね!」


「あ、ああ!」


 カイル様がぶんぶんと何度も頷く。どうやら今度こそ話が噛み合ったらしい。


「それなら、私も読んでみたいです。せっかく本屋さんの前にいるんですし、探してみませんか?」


「…………は?」


「カイル様、題名は覚えていらっしゃいます?」


「待て待て待て待て!」


 踵を返しかけた私の前に、カイル様がものすごい勢いで回り込んだ。


「読まなくていい! あれは! 絶対に! 読まなくていい!」


「えっ?」


「面白くない! 全っ然面白くないから! もうびっくりするくらいつまんねーから!」


「でも、何回も読んだんですよね?」


「読んでないっ!!」


 通り中に響きそうな声だった。


「ええと……つまり、あまりおすすめではない、ということでしょうか?」


「そう!!」


 ものすごい勢いで肯定された。


「わかりました。では、やめておきますね」


「はあぁぁぁぁぁ……」


 カイル様は心の底から安堵したように、大きく息を吐いた。


(そんなに?)


 なんだかよくわからないけれど、どうやらこの本については、これ以上触れない方がよさそうだ。そうこうしているうちに、気づけば開演の時間も近づいていた。


「カイル様、そろそろ劇場へ向かいましょうか」


「……ああ……」


 返事に、さっきまでの勢いがまるでない。なぜカイル様がこんな風になってしまったのかは謎だけれど、開演に遅れてしまったら大変だ。私たちは足早に劇場へと向かった。


 劇場は人でごった返していた。公演が始まってからもう随分たつはずなのに、この人の多さ。それだけこの劇が人気なのだろう。今日はユナちゃんとロイさんも観に来ると聞いていたから、会えるかなと少し期待していたのに、この人混みではとても探せそうにない。仕方なく諦めて、カイル様と並んで席に着いた。


 実は私はユナちゃんから届く手紙で、劇の内容である、この一連の出来事をほとんどリアルタイムで聞いていた。ユナちゃんがロイさんへの想いに悩んでいたことも、紆余曲折の末、無事にお二人が想いを通じ合わせることができたことも。


 だから、舞台の上で繰り広げられる物語が、実際の出来事からずいぶん脚色されていることにはすぐに気がついた。それでもこれはこれで面白い。知っているはずの話なのに、役者さんたちの演技に笑ったり、はらはらしたり。結末だって知っているのに、最後にはすっかり物語に引き込まれてしまっていた。


 ただ、隣に座るカイル様は、どうにも居心地が悪そうだ。特に舞台の上のカイル様が、「俺にとっては、妹の幸せが一番なんだ」なんて格好よく身を引く場面では、とうとう片手で顔を覆って俯いてしまった。


「……俺、あんなこと言ってねえし……」


 小さな呟きが聞こえてきて、思わず笑いそうになる。


(知ってる)


 そのあたりのことも、ユナちゃんからちゃっかり聞いてしまった。カイル様がユナちゃんを思うあまり、大泣きしてしまったことまで。


 舞台の上のカイル様は、凛々しくて素敵だと思う。


(だけど……)


 ちらりと隣を見れば、カイル様はまだ恥ずかしそうに顔を覆っている。


(私は本物のカイル様の方が好きだわ)


 そう思った途端、かっと頬が熱くなり、慌てて前を向いた。


 やがて物語は大団円を迎え、大きな拍手の中、幕が下りた。がやがやとした人の波に押されるように劇場を出る頃には、空はほんのり夕暮れの色に染まっていた。


(このあと、どうしようかしら)


 このまま帰るには、まだ少し早い。それにせっかくのデートなのだから、できればもう少しカイル様と一緒にいたい。


(お食事にお誘いしてもいいのかな……)


 さっき王都を案内していただいているときにも、次は一緒にお店へ行きたいなんて言ってしまったばかりだ。今日のお食事まで私から誘ったら、さすがに積極的すぎるだろうか。


 そんなことを考えながら隣を歩いていると、カイル様がさっきから妙に落ち着かないことに気がついた。ちらちらとこちらを見ては前を向き、何か言いたそうに口を開いては閉じる。それを何度か繰り返したあと、とうとう意を決したように私を振り返った。


「あ、あのっ……このあとなんだが……その……」


 カイル様の視線が泳ぐ。


(もしかして……)


 胸がほんの少しだけ高鳴った。今、「このあと」って仰った? カイル様も同じことを考えてくださっていたのかしら。


「よ、よかったら……飯でも――」


(やっぱり!)


 嬉しさがぐんと込み上げた、そのときだ。カイル様の言葉を遮るように、人混みの向こうから大きなどよめきが上がった。何事かとそちらを見ると、少し離れたところに人だかりができていて、その中心から男たちの怒鳴り声が聞こえてくる。こんな場所で喧嘩だろうか。


 カイル様もじっとそちらを見ていた。けれど、はっとしたように私へ視線を戻す。何か言いたげに口を開きかけたものの、今度は先ほどよりもさらに大きな声が聞こえてきた。


「…………」


 やがてカイル様は諦めたように小さく息を吐くと、申し訳なさそうに私を見た。


「……悪い。ちょっとだけ、ここで待っててくれ」


 それだけ言うと、カイル様は人だかりへ向かって駆け出していった。


 そこからはあっという間だった。人だかりをかき分けて中へ入ったかと思えば、殴りかかろうとした男の腕を片手で掴み、軽々と押さえ込んでしまう。あれよあれよという間に、あれほど響いていた怒鳴り声も、ものの数分ですっかり収まってしまった。


(すごいわ! さすがカイル様!)


 どうやら喧嘩の最中に怪我をした人がいたらしい。カイル様は今度はその人の腕を自分の肩に回すと、どこかへ連れていってしまった。しばらくして、ようやく戻ってきたと思ったら。


「あら?」


 なぜか、肩に小さな男の子を乗せていた。泣き腫らした顔の男の子を肩車したまま、道行く人に何かを尋ねている。どうやら迷子らしい。


 あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。やっと母親らしき女性を見つけて男の子を引き渡したかと思えば、今度は大きな荷物を抱えたおばあさんに声をかけている。


「まあ……」


 なんだか、見覚えがある。ヴァリアントで初めてカイル様を見かけた、あの日だ。あの日もカイル様は、困っている人たちを放っておけず、汗だくになって走り回っていた。


(ああ……やっぱり、カイル様だわ!)


 おばあさんの荷物を両腕いっぱいに抱えて歩いていくカイル様を見つめながら、私はついに吹き出してしまった。どうやらもう、私のことなんてすっかり頭から抜けてしまっているらしい。


 それからもカイル様は、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。気づけば空はすっかり暗くなり、あれほど人で溢れていた劇場の前も、いつの間にか閑散としていた。


 さすがに少し冷えてきたな、と思いながら両手に息を吹きかけていると、向こうから見覚えのある大きな人影が歩いてくるのが見えた。


(カイル様だ)


「ふぃー」


 ずいぶん動き回ったからだろう。首を左右に倒し、凝りをほぐすように肩をぐるぐると回している。けれど、その顔はどこかすっきりとしていた。今日もよく働いた――とでも言いたげな、なんとも清々しい顔だ。


(ふふ。お疲れ様でした、カイル様)


 そんなことを思いながら眺めていると、ふいにカイル様と目が合った。なんだか嬉しくなってしまって、私はにこりと微笑みかける。もちろん、労いの意味を込めて、だ。


 その瞬間、カイル様の動きが止まった。それはもう、時が止まってしまったかのように、ぴたりと。それから、じわじわとその目が見開かれていく。


「…………あ」


 どうやら、思い出したらしい。その顔からさーっと血の気が引いていった。


「お疲れ様でした。大変でしたね」


「…………」


 返事はない。よほど疲れてしまったのだろうか。


「もう遅くなってしまいましたし、今日は帰りましょうか」


「…………はい」


 返ってきた声は、びっくりするほど小さかった。さっきまでの清々しい顔はどこへやら。カイル様はがっくりと肩を落とし、まるで叱られた子どものように項垂れている。


「……悪かった」


「え?」


「ほんと……悪かった……」


「いえ、そんな――」


「……帰ろう」


「あ、はい」


 何だか急に元気がなくなってしまった。それから宿屋までの帰り道、カイル様はほとんど口を開かなかった。


 途中、昼間に教えてくださった串焼きの屋台の前を通りかかったときだけ、「ちょっと待っててくれ」と私を残して店へ向かい、戻ってきたカイル様は、両手に大量の串焼きを抱えていた。そして、私の泊まる宿屋の前まで来たところで。


「これ」


「え?」


「……食べてくれ」


「私にですか?」


「ああ」


「こんなに?」


「…………ああ」


 ずいっと押しつけられた串焼きは、どう見ても一人で食べる量ではない。


 けれどカイル様はそれ以上何も言わず、くるりと背を向けると、しょんぼりと歩き出してしまった。



 * * *



 宿屋の部屋へ戻った私は、さっそくいただいた串焼きを一本手に取った。


「おいしい!」


 カイル様があれだけ熱心に教えてくださっただけあって、お肉は柔らかく、香ばしく焼けている。


 今日一日のことを思い返しながら、もう一口。なんだか胸の奥がきゅんとした。


(かっこよかったなぁ)


 初めてカイル様を見かけたあの日も、そうだった。

 目の前に困っている人がいれば、考えるより先に身体が動いてしまう。

 きっと今日だって、私を待たせようなんて少しも思っていなかった。ただ、放っておけなかっただけなのだ。


(やっぱり、素敵な方……)


 もう一本、串焼きに手を伸ばす。


 せっかくの初デートだったのに、最後はほとんど一緒にいられなかった。それなのに。

 今日一日で、前よりもっとカイル様のことを好きになってしまった気がする。


「……ふふ」


 自然とこぼれた笑みをごまかすように、私はもう一口、串焼きを頬張った。

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