水色のワンピース②
* * *
片腕にずっしりと重いシチューの大鍋を抱え、もう片方の手には大きな紙袋を下げて、俺はのろのろと歩いていた。袋の中にはカイルのジャケットやユナのワンピース、ついでに買わされたバッグまで、俺が適当に押し込んできた。持ち手が今にも千切れそうだ。
西に傾き始めた陽が石畳を長く照らしている。昼の暑さはまだ残っているが、さすがにさっきみたいに汗だくになるほどではない。
(なんで俺がこんな荷物持ちになってるんだよ)
俺の家からカイルの家までは、大人が歩いて五分ほどで、走れば三分もかからない。まさに「スープが冷めない距離」ってやつだ。もっとも、今日は両腕がふさがっているせいで走る気にもなれないが。
まだカイルの両親が健在だった頃は、どちらかの家でしょっちゅう夕食会が開かれていた。といっても、あれは大人が酒を飲みながら騒ぎたいだけの集まりだな。そこに、こっそり城を抜け出してきた前国王やルーカスまで混ざっていることもあったのだから、今思えばなかなかの無法地帯だ。
やがてカイルの両親が亡くなり、前国王もあっさり王座をルーカスに譲って田舎で隠居生活を始めた。今となっては、あの騒がしかった夜が妙に懐かしい。
両親を失ってからしばらくのあいだ、カイルとユナは毎晩のように俺の家で夕飯を食べていた。ユナが料理を覚えるまでの話だ。とはいえ、今でも母さんは何かと理由をつけてあの二人に差し入れをしているし、時々ユナを連れ出しては、服や髪飾りを嬉々として買ってやっている。うちは男ばかりの家系だ。そりゃあ母さんがユナに甘いわけだ。
(はぁ……腕いってぇ。非番なのにこれじゃ筋トレじゃねーか)
ほどなくして、見慣れた赤い屋根の家が視界に入った。途端に胸の奥がざわつく。
(やばい。ユナの顔、まともに見られる気がしないんだが)
って、あれは仮定だろ? そうと決まったわけじゃない。
呼び鈴に手を伸ばしかけては引っ込め、うだうだと踏ん切りもつかないまま立ち尽くしていると、突然勢いよく扉が開いた。
「うおっ! なんだ、ロイかよ。気配がしたから来てみたら……。おまえ、なんでこんな所で突っ立ってんだよ」
出てきたのがカイルで助かった。この勢いでユナだったら、鍋ごと落っことしていたかもしれん。
「いや。腕が限界だっただけだ」
咄嗟にそう答えると、カイルはようやく俺の大荷物に気づいたらしい。
「うわ、なんだその量。貸せって」
慌てて俺から鍋と服を受け取る。
「すまん。これ昼間の服だよな? 悪かったな、ユナのやつ。急に帰ったりしてさ」
「まあな」
「結局さ、あいつ何で怒ったのか、俺もよくわかんねぇんだよな」
カイルがしきりに首を傾げている。たぶん、それを今いちばん知りたいのは俺だ。だが、こいつにだけは絶対に言えない。“ユナが俺を好きかもしれない”なんて。もし当たっていても地獄だし、勘違いでも地獄だ。どっちに転んでも、こいつの反応は間違いなく面倒くさい。
「あ? なんかお前、顔赤くねーか?」
「別に……暑かっただけだ」
「そっか、悪りぃ。服、あとでお前んちに取りに行くつもりだったんだ。手間かけさせたな」
カイルは申し訳なさそうに、紙袋を軽く持ち上げてみせる。
「ちょうど母さんに差し入れ持ってけって言われたついでだ。気にするな」
そう言った途端、カイルが鍋に顔を近づけ、鼻をひくつかせた。
「お、この匂い! もしかして、おばさんのシチューか?」
さすがだな、こいつ。これに関しては犬並みに鼻が利く。カイルが待ちきれない様子で蓋を少し持ち上げ、立ちのぼる湯気を思いきり吸い込んだ。
「やっぱり! これ、うまいんだよなぁ。もちろんお前も食べてくんだろ?」
にやりと笑って、玄関を大きく開ける。
「ユナ、ちょうど夕飯のパン買いに行ってるんだ。タイミングばっちりじゃねぇか。ほら、入れよ」
(ユナ、いないのか)
そのことにほっとしている自分に気づいて、なんとも言えない気分になる。いや、ほっとしている場合じゃない。
「邪魔するぞ」
小さくそう言って、俺は家の中へ足を踏み入れた。
カイルの家は、俺にとっては第二の実家みたいなものだ。今さら客扱いなんてされないし、俺もいちいち遠慮はしない。さっさとリビングに上がり込むと、いつもの場所に腰を下ろす。
カイルが、抱えていた鍋と紙袋をテーブルにどさりと置いた。
「なぁ。なんか服、増えてないか?」
袋をのぞき込みながら、ぼそりと呟く。さっきまでシチューに浮かれていた顔が、すっと引いた。
「ああ。金は王城に請求してくれって言ったら、あの行商男が勝手に勧めてきたんだよ。どうせ俺たちが払うわけじゃないしな。全部買ってやった」
「……そうか」
そう返事をしながらも、服を一つずつテーブルに並べていく手つきは妙に慎重だ。シャツを広げ、すぐに畳み直したかと思えば、ロイヤルブルーのジャケットを持ち上げたところでぴたりと手が止まった。しばらく黙ってジャケットを見つめていたが、やがてゆっくりとこちらを振り返る。
「なぁロイ……」
「なんだ」
そのあまりにも不安げな声に顔を上げると、握りしめた拳を太ももに押しつけたまま、カイルがガチガチに強張っていた。顔は真っ赤。眉尻も口角もこれでもかと下がり、今にも泣き出しそうな情けない顔だ。
「み、見合いって……なに喋ればいいのかな?」
「は?」
こいつ、これでさり気なさを装ってるつもりか? わざとらしく視線だけやけに斜め上をさまよわせ、いかにも「世間話ですけど?」みたいな顔を作っているが、残念ながら全身がそれを裏切っている。
俺は口元を腕で押さえ、込み上げる笑いを必死に堪えた。
「お前……案外乗り気じゃねーか」
「なっ……! そ、そんなこと……あ、あるわけ……いや……ある……かも……」
「ぶはっ」
「わ、笑うなよっ」
「だってお前、ユナには『俺は別に恋人なんて!』とかなんとか言ってただろ」
「言ったけどよぉ……」
いかつい大男が真っ赤な顔を両手で覆って照れる姿は、なかなか見ものだ。つい俺の中の意地悪心がむくむくと顔を出す。
「いや、お前が本当は見合いが嫌じゃないって知ったら、エドガーもルーカスも大喜びだな」
「よっ……余計なこと言わなくていいからなっ……!」
「そうかよ」
ニヤニヤが止まらない。結局こいつが無理だの何だのゴネてたのは、女慣れしてなさすぎてテンパっていただけらしい。
「だってよぉ……お前も見ただろ? エドガーの持ってた写真。め……めちゃくちゃ綺麗な人ばっかりだったぞ……っ」
俺はまた吹き出しかけた。
「おい。思考停止してる顔して、しっかり見てたんじゃねぇか」
「ち、違う! 目に入っただけだ! 勝手に視界に入ってきたんだ!」
必死に首を振っているが、目は泳ぎまくっている。
「ほーう。で、どの人が良かったんだ?」
わざと身を乗り出して問い詰めると、カイルはぐっと言葉に詰まった。
やがて、沈黙に耐えられなくなったらしい。頭から湯気が出そうな顔で、もごもごと口を開く。
「……お、俺は……その……ユナが……あの時言ってた……」
「イケナイ本の人か?」
「お前、それ言うな! ちょっとだけ似てるだけだ!」
俺はとうとう腹を抱えて笑った。
しばらくのあいだ、カイルはじとりと俺を睨みつけていたが、俺の笑いが収まる気配がないと見るや悔しそうに唇を噛みしめる。
「おっ、お前こそ誰がよかったんだよ。写真、お前も見ただろ」
今度は俺が黙る。こいつ、強気で反撃してきやがった。
たしかに、何枚かは目に入った。エドガーが「選りすぐりの」と言っていただけあって、美人だったとは思う。だが、誰の顔もろくに覚えちゃいないし、むしろそう聞かれて頭に浮かんだのは――昼間、ぷりぷりと怒って人混みへ消えていったユナの顔だった。
眉を寄せて文句を言う顔。瞬きするたびに揺れるまつ毛とか、妙に艶のある唇とか……。いや、なんでそんなとこまで思い出してんだ俺。
(あれ、待て)
意識したことなかったけど、ユナって、普通にめちゃくちゃ可愛くないか? いや、可愛いのは知ってたけど。……知ってたけど。
「おい?」
「あ? ああ、聞いてる」
痺れを切らしたカイルが顔を覗き込んできて、思わず目を逸らす。
(その顔やめろ。ユナと似てる)
ひとつ咳払いをして、俺はわざとらしく肩をすくめた。
「あのな。俺はお前と違って、マジで見合いには興味ないんだよ」
「は? マジかよ! あんなに綺麗な人ばっかだったのに?」
「綺麗だったとしても、俺には関係ないからな」
「ほんとに?」
「しつこい」
目を丸くしているカイルを、じろりと睨んでやる。
カイルはまだ何か言い足りない顔をしていたが、ふと視線を扉の方に向けた。
(ん?)
扉の向こうで、かすかに紙袋の擦れる音がする。
(帰ってきたか)
別にユナが帰ってきただけだ。普通にしてればいいだろ。そう思いながらも、俺は無意識に椅子に座り直していた。直後、勢いよく扉が開く。
「ただいまっ!」
さらりと揺れる髪が目に入り、ほんの小さく心臓が跳ねた。
(意識しすぎだろ、俺)
「ユナおかえり。ロイがおばさんの差し入れ持って来てくれたぞ。パン、ロイの分もあるか?」
カイルの声に、ユナがこちらを向く。まだ怒ってるのかと思ったが、顔は明るい。むしろ、妙に機嫌良くないか?
(まさか、今の話を聞いてたから……とか?)
いやいやいや。さすがにユナの一挙一動を、「俺のせいか!?」って結びつけるのはどうなんだ。
(悪かったな。こっちは初めての経験に軽くパニックだ)
「あ、ロイ来てたんだね! さっきはごめんね。急に帰っちゃって」
「あ……いや、別に……」
勝手に怒って帰って、しかも大荷物を運ばされたんだぞ。普段の俺なら間違いなく文句のひとつでも言ってやるところだ。だが、その原因が自分かもしれないなんていう自惚れのせいで、情けなく口籠もることしかできなかった。
「おまえ……今帰ってきたのか?」
いや、何を聞いてるんだよ。俺は。
「は? あったり前じゃん。ロイってば何言ってるの?」
そんな俺には構わず、ユナはテーブルの上の大鍋を見るや、パッと目を輝かせる。
「え! おばさんの差し入れってもしかしてシチュー? 嬉しいっ! おばさんのシチュー大好き!」
紙袋を持ち上げ、ユナが得意げにこちらを見た。
「パンいっぱい買ってきたから、ロイの分もあるよ」
袋を掲げたまま、ユナがにこりと笑う。
(…………かわいい)
って、いやちょっと待て!! ユナだぞ!! なんだそれ!!
「よ、よしっ! 食おう。腹減った!」
赤くなりかけた頬を誤魔化すように勢いよく立ち上がると、皿を取りに行くふりをして急いでキッチンへ逃げ込んだ。




