06 知られていないと思うのか
少女の発言は、戦士に何の驚きも呼び起こさなかった。彼はただ、兄妹ということだったな、と思い出していただけだ。
もしその兄貴とやらが無茶を言い出すようなら――たとえばユーソアを処刑にしろとか――口を挟んでやろうとは思ったものの、おそらく必要ないだろうと楽観的に考えていた。
だから彼は、長い食卓のいちばん奥に座ったまま、許可を得た「兄」が姿を見せたとき、何を見たものか、瞬時には理解できなかった。
有り得ないもの。
たとえよく知る何かや誰かであっても、思いもよらない状況でそれを目にすると、とっさに「それである」とは理解しがたいものだ。
そう、タイオスもそのとき、一瞬、何が何だか判らなかった。
「て――てめえ!」
だがそれは一瞬だけだ。がたん、と椅子を蹴倒して立ち上がったタイオスに、ハルディールがびっくりして振り返る。
「どうしたんです、タイオ」
「生きてたのか! どのツラ下げて、ここにいやがる! 何か企んでるのか? ええい、何であろうと今度こそ俺が」
少年王の驚きの声を遮って、彼はひと息に部屋の端まで駆け戻った。生憎なことに、愛用の剣は与えられた客間に置いてきている。
だがまさか、思うはずもないではないか。
ルー=フィンの目の前で死んだはずだった、この国の地を踏むべきではない男。
仮面を被った――ヨアティア・シリンドレン。
「タイオス! どうしたんですか!」
ハルディールの手が、タイオスの太い腕を掴んだ。中年戦士はそれを乱暴に振り払うことができず、足を止めた。
燭台の火が揺れる。
炎はタイオス、ハルディール、フィレリア、そして仮面の男を照らし、その足元に影を踊らせた。
「どうしたんです? 彼を知っているんですか?」
困惑した声音で、少年は尋ねる。
「知ってるも、何も」
気づいていないのか。
この仮面の裏に、ある顔に。
(俺は判らなかったが、ハルたちは俺より奴を知っていたはず)
タイオスの内に、疑念がかすめた。
(まさか、違う、のか?)
(偶然、同じ仮面を身につけているだけで……)
そんなことのあろうか、と否定しかけ、また気づいた。
(いや、待て)
(ルー=フィンは知ってるんだぞ)
あの若者はひと目でヨアティアだと見破った。討伐する気で追い、だが成せず、死ぬところだけを見たと言う。
そのルー=フィンが、生きていたヨアティアを前に、何もしないなどということがあろうか。
(偶然、なのか?)
(それとも……魔術?)
心楽しくない再会を果たしたとき、ヨアティアは仮面のほかに奇妙な術を身につけていた。本物の魔術とは違うと魔術師は言ったが、そんなもの、非魔術師には区別なんてつかない。
タイオスが迷う間、一秒。
「くくく……」
その迷いを打ち消したのは、仮面の奥から発せられた、かすかな笑い声だった。
「生きていたのかと? 驚いたろう、タイオス」
「お前」
やはりか。
タイオスは、偶然同じ仮面、などと疑った自分を呪った。
「放せ、ハル。こいつは……」
静かにタイオスは、ハルディールを引き離そうとした。
「お前は、僕を殺してしまったつもりでいたのだろうからな!」
仮面の男は吐き捨てるように言った。
「なに……」
タイオスの手が止まった。
ヨアティアではない。癇癪を起こしたような、これはまだ子供の。
「お前……まさか」
この口調には、覚えがある。
「僕を幽霊だと言うか? また殺すつもりか?」
助けたいと思った。無理だろうとも思っていた。だが本当に助けたいと思ったのだ。結果、それは叶わぬどころか、タイオスはひとりの少年を救うことを選んで、既に死んでいた少年を見捨てた。
「フェルナー、なのか……?」
「どういうことだ?」
ハルディールは口をぽかんと開けた。
「タイオスのことをご存知なのか、フェルナー殿。タイオスもいま、名を呼んだようだが……」
「この男は」
「フェルナー」はその視線――仮面をハルディールに向けた。
「僕の両親を殺したんだ、ハルディール陛下」
「な……」
少年王は目を見開いた。
「な、何を馬鹿なことを言ってる! お前の親は生きてるだろうが! 母親は知らんが、親父はカル・ディアで」
謂われもない糾弾に、タイオスは大声を出した。
「カル・ディア? 何のことだか判らないな」
フェルナーは首を振った。
「僕らオーディス兄妹の両親は、街道で、山賊を装った男たちに殺された。それを率いていたのがお前だ、ヴォース・タイオス」
「ああああ、阿呆っ、何つー出鱈目を」
「そうだろう? フィレリア」
フェルナーは「妹」に尋ねた。
「怖ろしい記憶を封じてしまっているのか? だが、思い出せ。この男が、僕たちの両親の、仇だな?」
「兄」が言った、その次の瞬間だった。
「――いやああああああ!」
フィレリアは、ユーソアに向かって上げた悲鳴よりもずっと大きく、悲痛な声で叫んだ。
「いやっ、怖いっ、父様、母様ああああっ」
「フィ、フィレリア殿っ」
少女は庇護の手を求めるように少年にすがりつき、とっさにという風情でハルディールは彼女を抱きとめた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て! 誤解、間違い、大嘘だ」
「いやっ、近寄らないでっ」
「――タイオス」
ハルディールは、どうしていいか判らないという顔をしていた。
「いったい……どういう」
「どうもこうもない!」
戦士は叫んだ。
「おいこらフェルナー! この、クソガキが! 何つう無茶苦茶な脚本を書きやがる! 俺が憎いのは判るが、そんな根も葉もない」
「根も葉もない?」
フェルナーはふんと笑った。
「僕は知っている。フィレリアも。充分だ」
「充分だ、ってんなら」
タイオスは低くうなった。
「その! 仮面を剥げば、充分だっ」
彼は言い放つなり、床を蹴った。
否、蹴ろうとした。
だがその彼の目の前に、風が飛び込んできた。
「う……」
タイオスは全力でとまらざるを得なかった。
尋常ならざる早さで喉元に突きつけられた、細剣の切っ先。
目にもとまらぬ速度でこんなことができる人物をタイオスはひとりしか知らない。
「じょ……冗談はよせ」
彼はようよう、言った。
「ルー、フィン」
銀髪の若い剣士は、ほんのかけらたりとも親しみのない目つきで、剣を突きつけた相手を睨んでいた。
「な、何をしている、ルー=フィン。剣を引け!」
驚いてハルディールは命じた。だが騎士は聞かなかった。
「いいえ、陛下」
彼は淡々と拒否した。
「この男さえ顔を見せなければ、私は、口をつぐんでいるつもりだった。だが、恥知らずにもやってきた、それを見逃すことはできない」
「な、何を言ってるんだ。お前、俺が何をしたと……」
「知られていないと思うのか!」
ルー=フィンは声を荒げた。
「どういうことなんだ」
ハルディールはすっかり困惑した体で彼らを見回した。
「ルー=フィン」
王は、諭すようにルー=フィンに尋ねた。
「何も申し上げずにおりましたこと、どのように責められても致し方なく思います。ですが、その場にいない人間を糾弾したところで何にもなりますまい」
「どういう意味で言っているんだ」
「この男、ヴォース・タイオスは確かに一度、〈峠〉の神の騎士たる役割を果たしたかもしれない。だがその栄誉はすぐ、地に落ちていた」
「説明を」
「私はそのときのことを伝聞で知るのみです。ミキーナに看護を受けていたヨアティア・シリンドレンが」
若者はきゅっと唇を結んだ。
「彼女を殺害したと」
「そのことが、どう……」
「だがそれは嘘だ。ヨアティアは彼女を殺していない。やったのは」
緑色の両眼が、暗く燃えた。
「タイオス、お前だ」
「な、何をどうしたらそうなる!」
タイオスは声を裏返した。
「どうしてそんな、馬鹿げた話を口にする? 誰に吹き込まれ……」
はたとタイオスは、気づいた。
(誰かに聞かされたって、簡単に信じるはずがない。妄想にしたって酷い)
(だが信じてる。有り得もしない話を)
(信じてるんだ)
疑いを抱くというような段階ではない。ルー=フィンはほかでもないタイオスをミキーナの仇と考え、このまま彼ののどを貫いてやりたい気持ちでいる。
「お前がどうあがこうと、それが真実」
ルー=フィンは感情の見えない声音で言い切った。
「もう一度言う、剣を引け、ルー=フィン。命令だ」
ハルディールは顔を青くしながらも命じた。騎士は数秒ののちに――タイオスには二十秒くらいに感じた――、王の命令に従った。
「無警戒で丸腰のお前を殺しても仕方がない」
「は、そりゃどうも」
タイオスは息を吐いた。
(どういうことになってるにせよ)
(警戒して武装してたって、俺ぁお前さんにゃ敵わんがなあ)
あまりに突然の出来事に、鼓動が激しくなっている。タイオスはそっと深呼吸をして、それを鎮めようとした。




