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幻夜の影―シリンディンの白鷲・3―  作者: 一枝 唯
第1話 灰色の影 第4章

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05 いいのかい?

 それから数十分(カイ)が経ち、半刻が経った。

 中年戦士は王の前から下がり、風呂を使い、身ぎれいにした。

 だが、それだけ経っても、ルー=フィンがやってくる様子はなかった。

 「ルー=フィンが戻ったらタイオスのところへくるように言え」というのはハルディールの命令なのだから、アンエスカが従わなかったとは思えない。ルー=フィンはおそらく、彼の前から何も言わずに去ったことが決まり悪いのだろう。タイオスはそう思い、少し時間をやろうと寛容に考えた。

 招きを受けて、ハルディールと食事を共にした。

 いまではすっかり平和な日常を取り戻したシリンドルだが、それでも食卓は、とても王家のものとは思えない質素で素朴なものだった。アル・フェイル王との豪華な朝食を思い出したタイオスは、こっちの方が気楽でいいなと思った。

 ハルディールは、タイオスが去ってから起きたことをみんな何もかも洩らさず伝えるのが使命だとでも言うように、彼自身のこと、姉のこと、騎士団のこと、町のことも作物の出来から家畜の病、タイオスの知らない町びとの婚礼や出産についてまで語った。

 相手や状況によっては「うるさい」「いい加減にしろ」「俺は興味ない」と容赦なく一蹴するところだが、タイオスはまるで、仕事のために滅多に会えない息子の報告を聞く気持ちで――彼に子供はないから想像だが――うんうんと聞いていた。

「出産と言や」

 ふと思い出してタイオスは、指でとんと卓を叩いた。

「ほら、あの奥方、どうした。ちゃんと産まれたか」

 妻の名前が思い出せない、と彼はうなった。

「ニーヴィスの奥方と子供のことなんだが」

 騎士の名の方は覚えていた。ほんの半日にも満たなかったとは言え、戦友の名を忘れるようではまずい。

「ええ、元気な男の子が」

 ハルディールはにこにことしたが、何かを思い出したように、ふっと表情を曇らせた。

「メリエーレ……ニーヴィスの奥方は、ルー=フィンを恨んでいないといいます。彼らは互いに信じるもののために戦い、そしてニーヴィスが敗れただけだと言ってくれました。それはとても冷静な言葉で、僕の立場としてはとても有難いものなんですが」

「何か問題があるのか?」

 そうだ、メリエーレだったな、と思い出しながらタイオスは尋ねた。

「ですが、本当に、そうした恨みは捨てられるのでしょうか」

 少年は呟いた。

「僕は、両親に手を下した男を前に、そんなふうに言えるだろうか。幸か不幸か、その男はもうシリンドルにいませんが」

 前国王夫妻を殺害したのは、ヨアフォードに雇われた流れ戦士だった。当時は僧兵団のひとりと思われていたが、ハルディールに忠誠を誓い直した僧兵たちが王にそう告げたのだ。

 ヨアフォードは、いざというときに躊躇わない人物を雇い入れ、ことが済めば金を払ってすぐに放り出したと言う。

 知っていたのは僧兵団のなかでも一部の人間だけだった。僧兵団にも雇われ兵が多数占めていたものの生粋のシリンドル人もおり、仲間の誰かが大きな任務を果たしたと信じていた彼らは「もう引き返せない」と感じていたようだった。

 ハルディールやアンエスカは、その雇われ戦士を探すことはしなかった。首謀者たるヨアフォードが神の罰を受けたあとであっては、あまり意味のあることに思えなかったからだ。

「僕はその人物を許すことができたか、判りません」

 どこの誰かもさっぱり判らない戦士について、ハルディールはそっと呟いた。

「許す必要があるとは思えんな」

 タイオスは客観的に言った。少年は困った。

「ですが、それではメリエーレがルー=フィンを許さずともよいということになります」

「メリエーレが許すのは、それはそれで、いいだろ。そんなのは」

 彼は肩をすくめた。

「個人同士の問題だ」

「……個人」

 ハルディールは目をしばたたく。

そうだ(アレイス)。ルー=フィンとメリエーレの問題。もしかしたらメリエーレは、心を抑えて、事を荒立てないようにしてくれたのかもしれん。場合によっちゃそのフォローは必要だな。だがどうあれ、お前が自分に置き換えることはない」

「そう、でしょうか」

 ハルディールは納得したとは言えなかった。

「恨み、か」

 タイオスは呟いた。

「親兄弟、恋人……そういった存在を殺されたってな経験は、幸いにして、ないな。友人ならあるが、戦士稼業じゃ死とは隣り合わせ、殺った奴を憎むのどうのってのはない」

 彼は気軽に言った。

「恋人」

 ハルディールも呟いた。

「ルー=フィンは、どんなふうに思っていたんでしょうか」

 次には彼は、恋人を殺された剣士のことを口にした。

「さあな。俺はルー=フィンじゃないからな」

 彼はもっともなことを言った。

「すみません」

「そんなことで謝るなよ」

「いえ、そうではなく」

 王は手を振った。

「タイオスは、ルー=フィンと話をしたかったのでしたね。僕ばかりがあなたに話をしていて申し訳なかったと、ようやく気づいたんです」

「あいつの方で気まずいんだろう。元気にやってると判れば、そんなに大急ぎで何か話す必要もない。明日でもかまわないさ」

「気まずい?」

 ハルディールは首をかしげた。

「どういう意味ですか」

「どうも何も」

 タイオスが言おうとしたときだった。

 まるで、悪戯な妖精がタイオスとハルディールの間にある齟齬を彼らに気づかせまいとするかのようだった。

 使用人が失礼しますと言って姿を現した。

「お食事中、たいへん申し訳ありません。陛下」

「何だい?」

 ハルディールは叱責などせず、ただ尋ねた。

「フィレリア様がいらっしゃっています」

「何だって」

「誰だ、そりゃ」

「先ほどお話ししましたご兄妹の、妹君です」

「先ほど……ああ、あれね」

 ユーソアに唇を奪われたお嬢さんという訳だ、とタイオスは苦笑いを浮かべた。

「何だ? 改めて抗議だとか、責任(・・)を取れだとか」

 戦士は言った。もちろん後者は冗談だ。だがハルディールは真剣な顔つきをした。

「ユーソアを呼んだ方がいいでしょうか……」

「話を聞いてからにしろよ」

 接吻ひとつで何を騒ぐ、と思うのはタイオスやユーソアで、ハルディールや「騎士」、そしてお姫様にはそうではないのだということは判っている。

(いや、待てよ)

(騎士たちは、あれだ。倫理道徳、不埒なこたあいかんとの意識で、矜持を保つんだろう)

 何が不埒かはさておき、彼らは理解した上で禁欲を義務としている。

(だが……ハルは?)

(こいつ、姉貴や両親以外と接吻なんかしたかことあんのか?)

 ないのではないか、と思った。

(そうなら、ほかの奴らとハルは「同じ」じゃない)

 意識の高い連中に囲まれて育った少年は、曇りなくまっすぐに成長したが、たとえば男女の仲を必要以上に秘めごと、隠しごとだと思うようになっていないか。

(大っぴらで開けっぴろげである必要も、もちろんないんだが)

(箱入りのお嬢様なんかにありがちな、秘められたこと、即ち汚れごとだと思っちまうような)

 ハルディールのその手の教育はどうなっているのかと、タイオスは益体もないと言えば実にないことを考えた。

(アンエスカに尋ねたりしたら剣を抜かれそうだな)

(「ロウィルの暁」の関係についちゃ、神官が教えることもあると聞くが)

 〈峠〉の神の神官は、王子にそんな話をしただろうか。

(……ヨアフォードがハルに何か教えてたって話は聞かんな)

(いやいや、俺が口出しをする問題じゃないこと、これまで以上だ)

 彼はそっと首を振った。

(それとも、もし誰も気づいてないようなら、俺が口出すべきなのか?)

 今回の使命は王陛下への性教育――などというのは、愚痴の聞き役より酷い。

 そんな馬鹿げた、或いはもしかしたら重要なことをタイオスが考えている間に、ハルディールは入室の許可を出していた。

「フィレリア殿」

 その声音にタイオスは、おやと思った。

「どうなさいました、フィレリア殿。こんな時間に」

(へえ、こいつはずいぶん、可愛らしいお嬢ちゃんだ)

 彼もまず、そう評価した。

(可憐ってやつだな。ハルくらいの年齢なら、こぞってぽうっとなりそうな)

 さすがにタイオスが十五になるならずの子供に見とれることはないが、もしこの雰囲気を保ったまま二十代三十代になったフィレリアが目の前にいたら、彼だってにやにやしそうだ。

(ハルの声が、明らかに弾んだ。……成程ね)

 ユーソアの件で少年王が案じたのは、騎士の有り様と言うより、フィレリアの感情だ。

(さっきの考えは取り越し苦労か)

 肉体的にどうこう、というのは別として、少なくとも「女は汚らわしい」などとは思っていないようだ。

 それはそれで、王という立場にあっての自由恋愛について気にかかることも生じるが、それはどう考えてもタイオスの役割ではなくアンエスカやほかの誰か、とにかくシリンドル王家の血筋やら家柄の適切さやら、そうしたことを考えるべき人間の仕事だ。

 しかしいまこのとき、ハルディールはただの少年のように、フィレリアの訪問に胸を弾ませていた。それはタイオスの目には明らかすぎた。

(両親を殺された気の毒な娘、だったか)

 タイオスはハルディールから聞いた話を思い出した。

(あの口振りだとずいぶん肩入れしているようだったが)

 彼はそっと思った。

(案の定だな。王陛下自ら、扉までお出迎えとは)

 ハルディールはタイオスにもそうしているが、もちろん、誰にでもやる訳ではあるまい。「ご婦人」だからというのでもないだろう。礼儀作法ではない。そこにあるのは、ひとりの少女の近くにいたいという、ひとりの少年の。

(……俺が口出すことじゃない、ないんだが)

(いいのかい? 王陛下よ)

(アンエスカが放ってるんなら、おそらくはかまわないんだろうが)

 眼鏡男が(あるじ)の様子に気づいていないとは思えなかった。アンエスカもまだ「様子を見ている」という段階なのだろうか。

「不躾と思いましたけれど、陛下」

 可憐な外見によく似合う可憐な声が、フィレリアの口から発せられた。

「あの……ユーソア様のことで」

「何か、処罰をお望みでしょうか」

 ハルディールは真剣な顔をした。

「判りません」

「判らない?」

「ええ」

 フィレリアはうなずいた。

「そのことで陛下にお話ししたく思っていますのは」

 言いづらそうにフィレリアはうつむいた。

「――私ではなく、兄ですの」


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