後編
「最近ノリ悪いじゃん」
アサが開口一番言った。
手には缶ビールが握られている。まだ真っ昼間なんだけど。
お供は柿ピーだ。時々女子大生の皮を破っておっさんが飛び出してくるのではないかと疑う時がある。相変わらず一人暮らしを謳歌してるなこの子。
缶酎ハイを勧めてくるのを断って、クッションを抱え込んだ。アサの目が返答を促す。
海以来、飲み会もカラオケもことごとく断っている。
メンバーには雨宮君の名前が挙がっていて、とても行く気にはなれなかった。
だって。
「私が行ったら雨降るもん」
「何言ってんのあんた」
一蹴ですよ。乗ってくる気配もない。
いじけてクッションに顔を埋める。拒絶の姿勢をとったものの、バリバリと小気味良い音が聞こえてきたので、天の岩戸はあっさりと開かれた。
スナック菓子をバリバリしながら話題を変える。選び取ったのはゼミ合宿で発表に使う資料についてだ。
「レジュメ出来た?」
「三分の一は出来た」
「ダメじゃん。来週だよ」
「私は追い込まれた方が力を発揮するから」
夏休みの宿題を溜め込む子供の言い訳ですよ。
バリバリボリボリ。
スナック菓子を食べる音だけがしばし続いた。
特に会話はない。アサはテレビを見ていたし、私は自分の考え事に引きずりこまれていた。
あまりに周囲に意識がいかなさすぎて、ゆるゆるの口は気付けばバカな事を口走っていた。
「合宿に雨宮君、来るよね」
当たり前だ。同じゼミなのだから。
曇天を前に今日は雨が降るのかと聞くようなものだ。
それにそんな事聞いたら知られないわけがない。アサは怪訝そうにして食べる手を止めた。
「あんた雨宮の事避けてんの?」
「ちっ、違うよ、避けてないよ」
しかし信じてもらえるはずもなく、訳知り顔で相槌を打たれる。
「雨宮と何かあったわけね。そういえばこの前の海からじゃん?あんたがノリ悪くなったの。今考えたら、あんたと雨宮、不自然に会話避けてたかな~」
アサは確信なんて持っていないと思う。証拠に今の今まで気付く気配すらなかったんだから。
カマをかけられているのは分かっていたけれど、私は自分が思っている以上に大変バカ正直だった。
押し黙ってしまったから、アサに確信を与えてしまったのだ。
「へえ、雨宮と」
「違うよ、雨宮君とは何もないよ。ただ……」
ぐっと言葉を飲み込む。
形にならなかったそれらを一度溜息と共に吐き出した。
そうして改めて形にする。
「だって私が行ったら雨降るもん」
やはりアサには、意味が分からないと切り捨てられた。
*****
ほら、雨だ。
ゼミ合宿当日。集合場所である大学の三号館の窓から空を見上げる。
雨はしとしとと静かに降り注ぐ。
強くはなく、控え目で、それでも触れたら濡れそぼつだろう雨足は、雨宮君に会える喜びと、拒絶される不安が反映されているように思えた。
「坂口さん、おはよう」
「あ、おはよう」
ぼんやりと雨の線を眺める横から、雨宮君が声をかけてくる。三週間振りくらいだろうか。
何となくぎくしゃくとした空気を感じ取りながらも、表面上は普段通りになるよう努めた。
「…………」
「…………」
努めようとしても実行出来ない事ってあるよね。
話題がないと天気の事に触れたくなるけれど、雨を口にする事は何よりも避けたい。
雨宮君が話題を出してくれたら全力で乗りに行くのに。雨について以外は。
視線は自然と空へと逃げる。
二人でしばし沈黙のまま雨を眺めていた。何なんだろうこの時間は。
離れないという事は私に用があるのかもしれない。それも多分言いにくい話題だ。
しとやかに続く現実の雨足とは違い、私の中は大荒れだ。
「あのさ」
だから雨宮君が切った口火は、台風の目に一瞬だけ入った心地だった。凪いだというよりも止まったに近いかもしれない。
「坂口さんは――」
「バス来たから移動して~」
ゼミ長の呼び掛けが被さる。
私達の間にあった奇妙な緊張感が途端に霧散した。
ぞろぞろと動き出した面々に置いて行かれるわけにもいかず、互いに目を合わせぬまま移動に加わる。
眠たそうに大あくびをするアサの横に逃げながら、私は同じ事ばかりを繰り返し考えていた。
雨宮君は何を言い掛けたのだろう。
まさか雨女である事がバレたのか。そうなのか。
某サスペンスドラマの頭の切れる閑職警部に確信を撫でられるようにネチネチと攻められる犯人の心境とは、こんな感じかもしれない。あの攻撃は小心者にはつらい。
この二泊三日の合宿、どうにかやり過ごせるだろうか。
合宿は大学が所有するセミナーハウスで行われる。
敷地にはサッカーのミニゲームが出来る程度の庭があった。夜はここで花火をするようだ。
日中は三年生の発表を終える。後は自由行動だ。
雨は未だ降り続く。強くもならず、しかし弱まりもしない。
「肝試しやろうって話してたのに~」
すいません。楽しみを奪っている犯人は私です。
肩身の狭い思いは行動に表れ、部屋の隅からは離れられなかった。
部屋が一緒のメンバーはみんな外に出払った。卓球で遊ぶらしい。アサなんてマイラケットの持ち込みだ。
一人になった。テーブルに置かれたティッシュを見やり、何気なくてるてるぼうずを作り出す。
明日は晴れてくれればいい。
夕飯のバーベキューもその後の花火も、みんな楽しみにしてるから。
無心で作りすぎて何の宗教だとアサに笑われた。
夕食を終えて風呂にも入り、リラックスムードの部屋を抜け出して一人になった。軒下には据付のベンチがあり、座り込みながらぼんやりと雨を見つめる。
日中暑かったとはいえ、流石に夜は冷えた。
「寒い……」
「パーカー借りる?」
肩が軽快に跳ねた。
背後に立つのは私の頭髪寿命を進めさせる張本人、雨宮君である。いつの間にそこにいたんだ。
髪も整えずラフな格好をした雨宮君は、普段と印象が違っていた。隙だらけで可愛い。
早速心臓の運動量が増えた。最早彼が何をしても可愛く思えてしまう。厄介な病気である。
「……みんなは?」
「男子の部屋で怪談やってる」
おぅ。怪談と聞くだけで辺りの暗さが気になりだした。部屋に戻ろうかな。待っているのが大量の顔なしてるてる坊主かと思うと、ぞっとしないでもない。せめて愛らしい顔を描いてあげるべきだった。勿論水性ペンはなしだ。
顔をキョロキョロさせてあまりにも落ち着かないから察っしたのだろう。雨宮君は小さく吹き出した。
「本当に苦手なんだ。浅田が盛り上がるから引っ張って来いって」
どうやら私は今、友人と呼ぶ者から裏切りを受けているようだ。
「行く?」
「行かない」
奴の思い通りになってなるものか。断固として拒否の構えを取る。雨宮君はまた小さく笑った。
「隣いい?」
「え、あ、うん」
留まるのか。
雨宮君が隣に座る。意識的か無意識か、彼は私が逃げ出さないギリギリの距離にいた。
一方でひたりと見据えられた眼差しはずっと近くに感じる。
瞳はどこか真剣味を帯びていて、私を落ち着かなくさせるには充分すぎる強さを秘めていた。
つい俯く私に、彼は静かに告げた。
「俺と付き合わない?」
呼吸が一瞬止まった。
雨宮君を凝視する。彼の表情にからかいの色は窺えない。
目を瞠ったまま硬直していると、彼はもう一度告げた。
「坂口さんが嫌じゃなきゃ、俺と付き合ってみない?」
聞き間違いじゃなかった。
本当に?雨宮君が?付き合ってってあのお付き合いでいいの?どうしよう、顔が熱い。
せっかく合わせた視線も逃げ出して、足元に留まった。口元を隠しながら、手の甲で頬の熱を確認する。
熱い。
「返事、今は無理?俺、期待するから。振るならさっさと振ってほしい。明日のためにも」
返したい。でも返せない。何を言う事も出来ない。
気持ちは嬉しい。本当ならバカみたいに首を振って答えたい。
だけど雨宮君は好きなタイプは晴れ女。私とは真逆だ。その事実が言葉を奪う。
隠して付き合って、もっともっと好きになった後に振られたらどうする。デートの日はきっと雨だ。団体の中ではごまかせても、二人きりではそうはいかない。
だったら、キズは浅い方がいい。
口を開こうとするたびに、心臓の音が強くなる。
清水の舞台から飛び降りるって、こんな感じなのかもしれない。
息を吸い、意を決して飛び降りる。
「遊びに行ったら雨が降るの。雨宮君は気付いたかな。私が来た日はいつも雨が降ってた」
自らキズつきにいくなんてとんだどMだ。だけど付き合った後でがっかりされるのも怖い。好意を持ってもらえたからこそ、手のひらを返される日を考えるだけで心が萎縮する。そうされる理由を自覚しているが故に。
「私、雨女だから」
雨音は静かだ。しかし沈黙を作ってしまえば嫌でも耳につく。
この雨を降らせているのはお前だと、囁かれている気分になる。
感傷に浸る私を切り裂くようにして、雨宮君は断言する。
「逆だよ。坂口さんがいるから雨が降るんだ」
だからそう言ってるじゃん。
改めて雨宮君の口から突きつけられると、自覚する以上に心を抉る。
反論も出来ずに唇を噤む。自然と顎が深く下がってしまった。
泣くな。泣くな。必死に言い聞かせる。
「あっ、違う。ごめん、言い方悪かった。雨降らせてるのは俺の方」
焦った声が慰めを紡ぐ。
「俺、雨男だから」
それはおかしい。
「海行った時も最初は降ってなかったよ。私が来たから」
私が来たから、途端に降り出した。雨宮君が雨男ならそれはおかしい。
答えを待ってじっとする私から、雨宮君はあからさまに目を逸らす。
微妙に生まれた沈黙は、何かしら葛藤しているように見える。数分前までの自分はこんな顔をしていたかもしれない。
至極言いづらそうに、ついに口が開かれた。
「浮かれた分だけ雨が降るんだよ。あの日も、坂口さん来ないって聞いてたのに来たから天気崩れるし」
口元を隠し、決して私と目を合わそうとしないまま、彼はぼそりと呟く。
「……坂口さんの水着、楽しみすぎて」
ど直球だな!
顔が一気に熱を孕む。言葉を探して無意味な声ばかりがこぼれた。
ただでさえ予想外の方向から来た砲弾でわけが分からなくなっているのに、雨宮君は更なる追い討ちをかけてきた。
「火曜だって。坂口さんが火曜ばっか雨降るって言ってても知らん振りしてたけど、本当は知ってたんだよ。だってあの講義は坂口さんと二人で話すチャンスだったから」
それはつまりだからお浮かれになっていたという事でよろしいのか。
完全に言葉を失った。
彼が指の隙間からこぼした台詞が、頭の中でしつこく舐めるように繰り返される。飽和しきったと思われた脳みそにじわじわと染み込んでいくそれが、羞恥を引き出して体中を塗りたくった。
顔を覆ってもやり過ごす事は困難で、少しでも逃れるべく膝を抱えて顔を埋める。
「恥ずかしい……!」
「俺だって恥ずかしいんだけど!」
視界を塞いでも、傍らからそわそわと落ち着きのない空気が伝わってくる。だからこっちも落ち着きという言葉が辞書から抜け落ちた。むしろ最初からなかったのではないかと疑う程、私の心情は大変な事になっている。
だって、まさか、こんな事ってある!?
「こんなんだから、彼女が出来ても遊ぶ日はいつも雨が降る。最初はいいけど、遊びに行けないでいるうちに、いつの間にか距離が開いて自然消滅」
口調は苦笑混じり。そっと窺ってみると、案の定苦笑を浮かべていた。
雨宮君が晴れ女を好きな理由に納得した。雨に何度も楽しみを奪われては、晴れ女を望みたくもなるだろう。
彼は未だ膝を抱えてまともに顔も上げられない私に向き直る。ちょっと待ってください。こっちはまだ会話をする余裕はありません。
「雨男だけど、嘘がつけないって事でここはひとつ」
頭を下げながら、手を差し出してきた。まるでテレビの見合いパーティーの告白タイムである。
一体何がひとつなんだか。
思わず吹き出してしまった。
だけどそこから感情が膨れる事はなかった。あれだけ昂ぶっていた気持ちが一気に冷めてしまったのである。
雨宮君は雨が嫌いだと言った。
そして彼が雨男ならば、なおさら私は失格だ。
「私は晴れ女じゃないよ。雨宮君に晴れはあげられない」
否が応でも証明してしまった。私と雨宮君が揃って、雨が降らない日なんてなかった。
その事実は彼の性質を思えば面映ゆく思う反面、やはり残念に思う。
「俺こそ坂口さんに晴れはあげられない。だけど嫌われてないなら、あっさり諦めるのは癪なんだよね。だっていいって思っちゃったし。だからさ」
雨宮君は笑みを浮かべる。
茶目っ気を含む少年めいたそれに、おそらく私は自覚するよりもずっと多くの心を奪われているのだろう。
彼は私を魅了してやまない笑顔のまま、楽しげに誘う。
「一緒に雨を楽しまない?」
思いがけない提案だった。
きっと彼とのデートは雨ばかり。靴はぐしゃぐしゃに濡れて、傘は手放せないから片手は確実に塞がる。とっても不自由な思いをするだろう。
だけど初めて彼と相合い傘をした日。あの時私は確かに、ふざけ合う時間に楽しさを見出したのだ。そして多分それは、雨宮君も同じだったのかもしれない。
どうしたって弛んでしまう口元を隠して俯く。
視界に捉えた、差し出されたままのそれに、そっと手を重ねた。
いつまでも消えない沈黙を不安に思い、今度ははっきりと分かるように大きく首を縦に振る。
恥ずかしさにまみれた熱の籠った声で「よろしくお願いします」といったところで、ようやく顔を上げた。
どうやら雨宮君も恥ずかしさに堪えているところのようだ。口を覆って目を合わせようとしなかった。
代わりに熱の高まる大きな手が、私の手を弱くはない力で握り込んだ。
その日の夜は土砂降りで、みんなが文句言う中私と雨宮君だけが上機嫌だった。
end