200.人との関わりを美味しくさせる調味料
「シュバルツさん、これ頼まれていた書類、です」
「助かる。目を通しておくからシャルも適度に休憩を取るといい」
こうしてたまに顔を見せる機会が増えたシャルラハローテは、事実上シュバルツの秘書として別室でヒカリの仕事を押し付けられる事になった。
「はい! あと、アメさん。カナリア様が時間がある時に、顔を出すよう、言っていました」
「わかりました」
そしてドアがしっかりと閉められた段階でヒカリがぼそりと呟く。
「あの様子だと当分休まないつもりね」
「僕もそう思う……冥利に尽きるってやつ? ねぇ?」
「……流石にその問いは不躾ではないだろうか」
所謂躾ける立場に居るヒカリに助力を乞うよう視線を逸らすシュバルツ。
好意を向けられていることは知っているが、どう扱っていいのか困っている、そんな状態なのだろう。当分弄って遊べるぞ。
「いいじゃん、手を出しても。
お互い良い歳なんだしさ、正直アメが提案した時にそういった気を見せないシュレーを焚くにはこうまでもした方がいいのかなって納得したよ」
「……今は主に尽くす身。少なくとも竜を討伐できるまでは、己がそういった事を考えるのは避けたいです」
あまりにも日和った発言に僕とヒカリは深いため息を吐きそうになる。
竜を倒せる可能性はどれほどあるのか、もし倒せても何年後になるのか。
現実から目を背けているわけじゃない、しっかりと認識した上でそう発言しているのだからなお質が悪い。
「ダメ。私達が死んでしまったら、その目標を目指す必要は無くなる」
「いえ、もし主たちがそれを遂行できなかったとしても、遺された人々は、いや少なくとも俺は竜を討伐するために生涯を捧げるつもりです」
「却下、命令。候補でも何でも良いから、相手を考えておきなさい」
シュバルツがまるで今日は散歩に行けないと言われたようなソシレの顔をしている。
「よろしい、シャルじゃ不満と見た。これよりシュレーの好みの女性を聞き出す会議を始める」
「ぱふぱふー」
口で率先し煽っていく。
ちなみにこの場にはずっとカレットもいるが、今読んでいる本の内容の方が気になるようで会話に入ってこようとはしない。何時もの事だが。
「アメがお母上様に呼ばれていたようですが」
「あの様子なら後日でも構わないでしょう、本当に必要ならここに来て連れていくだろうし。
それでどのような子が好みなの?」
本気でふざけたような会議を続ける気がヒカリにあることを確認し、この事態を早急に終わらせるには僕達が求める餌を与えるべきだと思い至ったようでシュバルツは真剣な様子で黙り頭を悩ませる。
「敢えて言うならば、性別を感じさせなような女性が好ましい、でしょうか。
中性的とでも言いますか、距離感が楽だったり、波長が同性のように合ったり……」
「え、フェルノ?」
「あいつは確かに条件には合うがあくまで同性の友人だ」
「叔母様はやめておいた方がいいと思うけどなぁ、色々と複雑になるし」
ルナリアも確かに条件に合う。
他に中性的、中性的……と知り合いを連想し、同様に悩んでいるヒカリと視線が合う。
「あっ、ヒカリもじゃない?」
「アメもだよね」
「まぁそうですが、例として適切というだけで決してそういった感覚を抱かない……という?」
思わず出てしまったような自身への問いかけに、僕達は鬼の首を取ったように笑いあう。
「ヒカリさんや、聞きましたか」
「なんですかい、アメさんや」
「シュバルツのやつ、僕達をそんな目で見ていたそうですよ」
「いや、そういうわけでは……」
「それはそれはシュレーの癖に生意気ですね、どうしましょうか? どうしてくれましょうか?」
「落としちゃう?」
「落とす? 落とす?」
「やっちゃおうか、危ないものは」
「やったほうがいいよね、危ないのなら」
そこまで二人でキャッキャと悪ふざけで盛り上がったら、既に険しかった表情を殺意と呼べるほど昇華させて僕を睨むシュバルツ。
「物事には限度と言うものがある。そこまで言うようならば俺からも尋ねさせてもらう、二人は、いやアメから聞き出そう、アメは一体――!」
「はい、僕はカナリアに呼ばれたので行ってきます。あとは二人で楽しんでね」
虫の知らせのようにこれ以上は今はマズイと察知し、僕は飛ぶようにソファーから抜け出してドアへ駆ける。
「……アメ、どしたの?」
後ろで二人と言われ除外された事が気になったのか、単にシュバルツが珍しく感情を制しきれていないことに興味を持ってか、カレットが二人へそう尋ねる声がした。
「さぁね」
そう呟くヒカリに思わず振り向いたら、誰とも顔を合わせないようにカップを覗き込んでいる彼女に、外を見て深呼吸をするシュバルツが映りさっさと部屋を出た方が無難だと何かが告げた。
「アメ」
僕の名前を呼ぶ声がする。
「なに?」
あまりにも感情を伴っていない返答が口から彼女へ届いた気がする。
「お母様に気をつけてね。冗談でアメのこと娘だと色々な人に吹聴しているみたいだから」
初耳だし冗談じゃない。僕の髪色はカナリアに類似し、瞳はユリアンほどではないが碧眼と呼べるものだ。丁度金髪赤目というヒカリとは逆の遺伝をしているようなもの。
リーン家に受け入れられることが早かった事もあり、何らかの事情で表ざたにできなかった存在と外部から受け止められなくもない。
「気を付ける」
「行ってらっしゃい」
その別れの言葉が、粘着性を持ったかのようにやたら耳へとこびり付いたのが印象的だった。
- 人との関わりを美味しくさせる調味料 始まり -
「いらっしゃいアメ、思ったよりも早かったわね」
「名指しで呼ばれたもので。何時頃来ると予想していました?」
「数日以内で御の字」
「ははは。心外だなぁ」
間違っちゃいないと道化のように仮面を被り笑うと、その向こうを見透かしているのかにっこりと無言で微笑んで席へ座るように促してくる。
「はいこれ、目を通してみて」
席に腰掛けるとカナリアは代わって立ち上がり、しまっていた資料らしき幾つかの紙をこちらへ手渡してくる。
内容は複数人のプロフィール。共通しているのは貴族ということに、性別。
「お茶は少し待ってね、今準備するから」
「――いえ、結構です。失礼ですが急用を思い出したのでそちら片づけさせて頂きます、この話は後日」
返事を告げる間も与えず、僕はヒカリの私室から出てきたように駆け出しドアを閉める。
「あの子ったら何を勘違いしてそう急いているのかしら。まぁ面白いし、少し様子見ね」
マズい、マズい、マズい!
脳内でひっきりなしに警報が鳴り響き、そう激しく動いているわけでも無いに関わらず心臓は早鐘を打ち続ける。
「ソシレ! 早いけど今日のご飯これね!」
くぅん? とこちらを心配そうに見上げるでかい飼い犬視線を無視し、僕は自室へ向かって素早く移動する。
今日は一日空いていて、今ソシレの昼ご飯を与えたことで夜まではほぼ自由に時間を使える。その生み出された時間で最大限動かなければ。
まずは事態の確認。
カナリアが僕を呼んだ、見せた資料は恐らく見合い相手。当然僕の相手ではない、ヒカリの物だろう。
……そう認識すると、初めて人を殺めた時に抱いたような何も思わない自分に対する強烈な違和感と、それに付随する危機感。
そこからは洪水のように情報が頭へと入ってくる。僕がここに来て、ヒカリとの活動が活発化し二年以上経っている事実。それに伴い戦いが激化し消耗する私兵、その気に当てられて疲弊する使用人。ヒカリから押し付けられる仕事が手一杯で、他の仕事との兼業が難しくなってきたシュバルツに、それを補助するため使用人から秘書へと役職を変えたシャルラハローテ。
一人娘であるにも関わらず、前線にその身を置き続けるヒカリ。
今まで許されていると思っていた。リーン家に、ユリアンとカナリアにヒカリと竜討伐の活動を。恐らく事実だったのだろう、けれどヒカリの分だけ満足に資金運用できない状況が年単位で続き、資金難に彼女以外跡取りが居ないことを考えれば家の存続の為ならば相手を見つけることが最善であることは明らかで。
何かをしなければならない、現状を打開、いや硬直だけでも構わないから時間稼ぎできる何かを。直接僕へとあのような資料を見せて来たのは、事態は想像しているよりも速やかに対処しなければならない段階に陥っているはずだから。
でも、何ができる? 何でも、だ。幸い僕には前世の知識が存在する、そして今回は手段を選んでいられないケースに分類される。
長年抱いていた些細な疑問、どうしてそれがこの世界には無いのか。本来ならば誰かにそれを伝えてもあまり効果的ではないだろう、けれど相手はリーンという貴族。如何に見栄え良く僕の案が利益を齎すのかアピールし、伝えることができたのであればもう少しヒカリに対する時間の猶予を掻き集められるかも知れない。
必死に前世の記憶を掘り起こし、材料を揃え思い出の物に近づけるため微調整。後日試作品と、情報を書き記した幾つかの書類を持って僕はユリアンの私室の戸を叩いた。
「入れ」
「失礼します」
胸を張り、一家の長に対峙する。
アポイントメントは取っていないがこの時間帯余裕があることは事前に調べており、現に今予想外ではあるがカナリアと雑談していたようで入って来たのが僕であるとわかるとどこか一段階貴族らしさを散らして近寄りやすい人間に感じた。
二人一緒というのは都合が良い。荒を見つけられる可能性は高まるが手間が省けるし何より同時に丸め込むならば挑戦するに値するリスクだ。
「何の用だ? 珍しく気張っているようだが」
まるで僕が真剣にしている様子が可笑しいようで、少し微笑みながらユリアンは用事を尋ねる。
「リーンという家にとって資産価値がある情報を提供しに参りました」
「ほう」
断言し、有無言わせずにクリームのような物体が入ったコップをテーブルに乗せる。
「これは食材か?」
「はい。厳密には卵を中心に加工したマヨネーズという調味料になります」
初めは故郷である村にマヨネーズという概念が存在しないだけだと思っていた。
それが誤りだったと気付くのはレイニスに来て、それから残り二都市のどこにも、それこそ王城内でもマヨネーズやそれに類する調味料が存在しない事を確かめて確信に至った。
「爽やかながらも主張が強いわね」
先に一つしか無いスプーンでさっさと味見をしたカナリアはそう忌憚無き感想を漏らし、ユリアンに口を開けるよう促すと彼は一瞬硬直してこちらを横目で見た。
「……やめろ、自分でやる」
奪い取るようにスプーンを持ち、軽く味見をして無言ながらも悪くなさそうな表情を浮かべるユリアン。
否定されないという事は可能性が十分にある、ここから畳み掛ける。
「そしてこれがマヨネーズを使用したサンドイッチです、どうぞ」
本来厚切りでこれでもかと塩漬けされた保存用の肉や、揚げ物を挟むサンドイッチにマヨネーズが最大限活きるサラダとハムだけを用意してここに来た。
「若干物足りなかった味付けの良いアクセントになるな」
この際比較対象は要らない。
元から存在する調味料を新しく試すならばそれを加えていない二種類の料理を用意すべきなのだが、今回必要なのは初めて味わうインパクトだけ。
悲しい事に完全に再現できず若干まろやかな味わいになっているがそれでも十分だろう。
「この味わいは確かに資産価値が生まれそうね。ただ食材一つ、消耗品で得られる資産となれば限度がありそうだけれどそれはどうするの」
カナリアは僕を見て尋ねる。囀る様に、嗤うように。
「まずは市場で材料を調達し、マヨネーズそのものを改良していくことが良いでしょう。屋敷の関係者や、それに関連する身内に振る舞い需要を満たすよう突き詰める形で。
次にマヨネーズを使用した、今回はサンドイッチに限定しましょう。サンドイッチを町で売り宣伝します『新しい味をどうぞ』とでも謳い」
大丈夫、ここまではしっかり聞いてもらっており、反応も悪くない。このまま続けよう。
「売れ行きが順調で、十分に噂が広まった段階で新しい組み合わせを広めます。サラダや揚げ物にも合うと思うので、そうしたサンドイッチ以外の料理でも幅広く未知の調味料を知らしめます。
養鶏所を製作するのも良いかもしれません。原材料を自分達で生み出せることに、今後市場の卵が数を減らすのであれば純粋に利益に繋がるでしょう」
「よく考えているな」
この辺りの動きはよくわかっていない。
前世では具体的なアプローチの仕方までは知らなかったし、今ヒカリの隣でシュバルツとの貴族としての資金繰りを近くで見ているからなんとなくこうだろうと当たりを付けているだけだ。
「この時点でマヨネーズ自体を販売することも視野に入れます。当然この段階で模造品を生み出されてしまえばこちらが得る利益は大きく減るので原材料や調合法は伏せ、あまりこの段階で居座らないことにします。
ここまで順調であるのならば民衆の胃袋は掴めているでしょう、最後に掴むのは貴族等の上流階級の胃袋。
巷で話題になっているマヨネーズ、貴族達もその噂を耳にしたり、実際に料理を口に運んでいるはずです。そこで比較的高級品である海鮮類、それもエビ辺りはより相性が良いので貴族向けの食品として売りに出すことは効果的です」
「そしてそのレイニスへ届けるには限られている海鮮類の流通も押さえ、食品だけではなくマヨネーズの原材料やそれを使用する食材から利益を得る、と」
「はい、それならばリーンという家にも少なくない利益を齎すと僕は考えています。これがマヨネーズの材料に、製法です」
既に渡している商業的アプローチを掛けるための手順の資料に、追加で最後の資料である紙を手渡す。
ユリアンはそれを確かに受け取ると、目は通さずに僕へと疑問を投げかけた。
「――して、これらの情報を渡すことで、お前は何の見返りを求めるのだ?」
見抜かれていたか。
ただここで引き下がる道理はない、感触は悪くないのであと必要なのは。
「僕及び、ヒカリに関する竜討伐の活動を、今しばらく黙認して欲しいです。
ヒカリが成人する三年後、それが無理であるのならば最低でも一年は。お願いします……!」
ここに来て僕は一度も下げていなかった頭を深く深く下げた。
この情報だけでヒカリの時間や安全を買えるとは思っていなかった、けれどこれ以上の手段が僕には思いつかなかった。なれば後は理屈を並び立てて、それでも届かないのであれば情に訴える他無い。
「ダメだ」
拒絶の言葉。
それもこれから交渉し合う余地の無い、今渡したばかりの書類が目も通されずに破かれ、下げていた僕の視線の前に無残にも切れ端が踊る。
あまりにも人の感情を無為に扱うその態度に僕は、思わず敵を見据えるための殺気を抱いて顔を上げる。今更抑えきれるものではない、隠そうとも思えない。それだけのことをされたと、僕は断言できる。
「――ユリアン。あの日リーン家を、あなたを救った恩人としての叶えていなかった約束をここで使いたい」
できればこんなセリフ言いたくはなかった。
あのコウとルゥが望みの物を得られた時に、僕だけ保留にした何でも叶えてもらえる権利。あれはあくまでルゥを救う為に生まれた副次的なもので、今ここで僕達を救うのは流儀に反している。
「それでも、ダメだ」
「……理由を伺っても良いでしょうか」
「先にこちらの問いに答えろ、どこでこの情報を得た?」
核心に触れる問いに、僕は思わず狼狽する。
別の世界から、なんて口を裂けても言えない。こんな問いを投げかけられるとは思っておらず、他に言い訳を考えているわけでもない。
「そしてこの情報を手渡す事はお前の信条に反しているのではないか?
……まぁ、聞くまでもないか。扉を潜った段階で既に隠し切れないほどの後悔を表情に浮かべ続けていたのだから」
活発化していた交感神経が収まり、瞳孔は細められぴくぴくと動いていた指先は徐々に動きを鈍くする。
言い訳できない。僕は僕に、言い訳できない。
今回は特例だと言い聞かせながらも、ずっとこうして交渉の材料を集めている間に思うところを抱き続けていたのだから。
「アメは二つ勘違いをしている、本来ならば見失う事も無かっただろうに幾つもの要因が重なり視野が狭くなったのだろうな。
カナリア、説明してやれ」
「えぇ。まずは謝罪を、ごめんなさいアメ。誤解していると知りながら、ここまで追い詰められることは無いだろうと放置してしまった事を」
「どういう、事ですか」
終始感じていた人を見下した態度も、別に上下関係や僕の行動について笑っていたわけじゃない。ただ我が子を見守る様に、僕が何を思い、何をしたいのか見届けていただけなのだ。
今こうして事情を説明し始めるユリアンと、素直に申し訳ないという気持ちを感じるカナリアからそれは証明される。信頼、できる。
「以前見せた書類はね、多分あなたが想像していた通りにヒカリの見合い相手にと打診してきた各方の情報。
ただ私は強制するつもりはないし、本人が望まないのであれば社交辞令として顔を出すようにも言うつもりはなかったの。ただアメとの話題の種にでもと思い、あなたに見せたそれだけ」
……あぁ、やっちまったなぁと久しく後悔の念が押し寄せる。
何もかも手遅れだったわけじゃない。何も始まっていないにも関わらず、僕は見えない敵と戦うために体を鍛え始めたようなものだ。
「それが一つ目の誤解だ。もう一つはリーンという家の家訓」
「好きなように生きろ、ですよね……」
「あぁ。私とカナリアは本人の意向を最も尊重したいし、我々も見合いという形ではなく結ばれた仲だ。特に政略結婚を推す立場にも無い。
アメは血族が絶えるかもしれない、リーンという家の事を考えて今こうして動いてくれたのだろう。何、心配はいらないさ。血が絶えるのであればそこで終い、あるいは養子でも取って好きに名をくれてやるのも悪くない」
「はい、十分にわかりました……こちらの酷く個人的な事情も鑑みてくれて本当にありがとうございます……」
穴があったら入りたい。
「ただまぁこのマヨネーズというのも悪くない。この味に、卵を使用した調味料という事だけは我々が覚えておこう。もしかしたら再現できるかもしれないしな。
残りの資料は全て引き取り処分しておいてくれ」
そう締めくくられ、破かれ床に散らかった物もカナリアに手伝ってもらい僕は両手に荷物を纏める。
多分、この資料を破いたのは演技が半分、もう半分は本気で憤ってくれたのだろう。
僕が僕達の本質を見失っていた事か、あるいはこうまで暴走するほど行動を看過してしまった自らにか。
「ではな。次は明るい話題で互いに顔を合わせよう。
そう言えば前回遺跡を探索してきたらしいな、私はその話が聞きたい」
「近いうちに顔を出します……僕が恥を忘れた頃合いに」
「あぁ。
一生で一度の願いは、もう少し自分のために今度は考えて来るのだな」
できれば今日あったことを忘れるか、叶えないことに願いを消費して欲しい。
トボトボと僕は廊下へ向かって歩き、最後に一度だけ軽く頭を下げてその場から去った。
アメが去る足音が完全に消え、しばらく無言で残った空気を楽しんだ所でカナリアがぽつりと呟く。
「あの子、アメはここへ来た時より随分と顔つきが変わった。
来たばかりの時はそう、アレンと共に心が擦り切れ人とは見えないほど、それこそ他の人より影が随分落ちているココロですらマシに見えるほどの顔だったのに、今では普通に笑えるようになって。それも、あの子のためにあんな表情もできるだなんて」
「カナリア。
その目つきに声音、義姉にそっくりだぞ」
ユリアンが喉で笑うのも仕方ない。
それほどまでに普段質の違う己の嫁という存在が、ルナリアという根源を同じくする者に類似して見えたからだ。
「……あら、そんなつもりは無かったのだけれど、やっぱり血は争えないのでしょうね。
けれどお姉ちゃんも思っていたのかしら。人の心はこんなにもおもしろく、尊いものだと」
「そうなんだろうな。きっと我々より親しい人間の間や、身一つで生きねばならぬ屋敷の外ではあのような表情ばかりしているのだろう」
ユリアンには到底想像できない。
元々レイニスに存在していた家が、自身のみを残して他全てを竜害により吹き飛ばされ、身一つで街道を沿わずに王都へと向かおうとする絶望。あくまでそれが人生で味わった絶望の最大値だからだ。
優劣付けれるものでは無い。当時のアメが自分の立場に存在していたのならきっと彼女は堪えられなかった。けれど今のアメが経験してきた絶望に己が堪え切れる自信も無い。
「なるほど。ルナリアが冒険者を一向にやめないわけだわ」
そして未だ、薄くはなったが絶望の中を彼女は歩き続けている。
「……私も出来るのであればそうした日々を過ごしたい。私兵に交じっての訓練や、秋の召集では限度がある」
「守る家や娘が居るのに悪い人」
目を細めてそう笑うカナリアの指摘に、ユリアンはまともに受け止めようとせず顎を撫でたら思わず口角を上げた。
- 人との関わりを美味しくさせる調味料 終わり -




