180.どうしてという弾丸
人に心を吹き込むというのは難しいものだ。
それが産まれたての赤子ならば、周りの人を模倣し自然と感情や価値観を築いていくのだろう。
ただ、今僕が抱えた少女、カレットと名付けた少女は今の今まで、恐らく十歳ほどの年月を何も想うな、人形のように綺麗な存在だけに成れ、そう教え込まれて来たのだと思う。
人が人として活きてはいけない、そんな事態は間違っている。けれど世の中を動かすのは正論ではなく正しいような聞こえの良い言葉で、十年掛けて積み上げられた壁を貫くには、一体どのような弾丸が必要なのだろうか。
- どうしてという弾丸 始まり -
数日、カレットに対して僕だけやヒカリ、シュバルツに軽く手伝ってもらってアプローチをかけたが手応えを得ることはできなかった。
文字通り目を離してしまえば危うい存在なので過ごす部屋も同じ、寝るベッドも同じで深夜にたとえトイレに向かうことになっても僕はすぐに起きて着いて行くようにしている。
この世界の常識、国がどうなっているだとか、リーン家がどういう立場の貴族で、そこに住まう人々はどういった人間が居るのか。数え切れないほど言葉は投げかけたし、その内幾つかは明確な問いとして簡単ながらもカレット本人へと投げつけてみた。けれど反応は零。厳密には聞こえる音が声であり、自身が求められているものだと知れば耳を傾ける様子は見せるのだが、それ以上の表情等の変化、カレット自身の声を聞いた経験は皆無だった。
ここから試してみた事はもはや実験に近い。
僕の財布から買い与える衣類の方向性を変化させても反応は変わらず、意図的に失敗した料理を食事に混ぜて反応を窺うも、ただでさえ遅い食事を進める手が若干遅れた程度で完食は揺るがなかった。
与えられたものが善意の物であるならば全て受け入れる。そう勝手に解釈を行い短剣をおもむろに取り出しても怯えのおの字すら見当たらず、眼前に抜き身で突きつけても物体を目前に持ってこられた事による生理的動作は行うものの、武器を向けられている事に対して何かしら嫌悪感を示すことも無かった。
僕の魔力をカレットに差し込んで様子を見たのだがこちらは一応抵抗があった、だからどうしたというものだが。むしろこの子が傷ついた際に治療を補助することができなくて、万が一を考えた際は不安が胸を多い尽くす。
生きろと言えば生きて、手順さえ教え死ねと言えばまず間違いなく死ぬ少女にこれ以上人道に反した実験じみた行為を取るには気後れし、僕は率先し他者へ助力を請うことを決意した。
と言っても事情を良く知り、何かを把握することに長けたヒカリや、それに付き従うシュバルツは思いついた事を既に試しており、こうなると理解を示し、カレットと接してくれる僕と親しい人に時間が空き次第声をかける他無い。
「ごめんなさい。流石に何も反応が無いのであれば専門家ではない私にはできることがありません」
酷く傷ついたように、申し訳なさで表情を歪めてそう手を上げたのはココロ。
正直一番頼りにしていて、真っ先に声をかけたのだがギブアップの声を上げるのも無理はない。早期にフェルノの信頼を得たり、周りから人格面を評価されているのは相手がコミュニケーションに応じてきたからだ。
そうした悩める少年であるフェルノは苦肉の策として自身の性別を明言もしたが、特に着ている女性服にカレットの興味が注がれた様子は無い。
「長年積み上げてきたものはそれだけで強固になる、ただそれが諦める理由になるかと言えば否だ。私も歪められた少女の人生を正してやりたい、アメは諦めるつもりなど毛頭も無く、これからも皆に声をかけていくのだろう? ならば私は私にできることを中心に模索してみよう」
そう言ってくれたのはアレン。
良くも悪くも子を持った経験がある年長組みの頼もしい言葉に礼を告げ、ユリアン、カナリア、エリーゼやオーリエといった面々からも似たような言葉を貰い、進展が無いまま日々は移ろう。
知識や経験に頼れないのならばと、まぁ声を掛けられる人間が限られてしまうせいもありクローディアやシャルラハローテを筆頭とした若い使用人、あるいは親衛隊の人々に協力を乞うが面と向かって対峙し時間が経つにつれてどうしたら良いのかわからないと表情に溢れんばかりに広がった所で迷惑をかけないためにも早々に立ち去る。
もはや予断は許されず、既に前世の知識は粗方掘り出しておるのだが流石に精神医学まではおさえておらず、たとえ該当する知識を持っていたとしても精神が崩壊してしまった人間の改善は周りの人々や医療機関が長年掛けて行うようなものであり、そうした環境を整えられず崩壊する精神の有無すら怪しいというモデルケースが無い、あるいはあったとしても個々の性質に大きく関わるような治療法がカレットに適用できるかは疑問が止まらない。
無いものねだり、それも別の世界の視点からという究極的な客観的視点で見つめても絶望しか見当たらないためあまり深くは考えずに体を動かす。
アニマルセラピーという単語を頼りにソシレに触れ合わせてみたり、子供が産まれてから鬱が改善したという話があった気もしてエリーゼに頼みエイトと引き合わせたり、屋敷の中で産まれたばかりの赤子を抱える私兵と使用人の面識の薄い夫妻に頼みもしたがこれも空振り。
「あらま、これは重傷だね」
「……シィルさんから見てもそうですか?」
そう言えば普段からふざけているイメージが強く無視していたが、この隊長殿は観察眼に優れる。
屋敷内を刺激を求め歩き回り、僕と体格差があまり変わらないにもかかわらず遥かに劣る体力を持つ船を漕ぐカレットを肩で抑えながら、一抹の望みを抱いてあまり揺れる意識を妨げないようにと声を潜めて尋ねる。
「そうだね、アメがここまで傷心しているなんて珍しいものだ」
……どこまで人をおちょくれば気が済むのだと、普段ならば僅かにのみ見せる憤りを辛うじて抑えきり深呼吸をする。
こうして余裕が無く、視野が狭くなっていることを指摘してくれたのだと思いたい。違う、思うのだ。そうであると。
「ありゃ、まだ余力があったか」
「無いと困りますから。この子を守るために、本当は僕よりもつらいのだと感じる権利があったはずのこの子を」
「その意気……と褒めたいのがあたしだけれど、大人ってのは無慈悲な現実を突きつける義務だってある」
「シィルさんが身分に甘えて自由に振舞っているように?」
「もちろん。今日もコック長のおやつが出るからって出来立てを厨房へ盗みに入ったらバレて怒られたよ」
嫌味を何しているんだお前、子供でもそんな真似しないぞと呆れる出来事で返されて放心する。
そんな僕の前、たははと笑うシィルは少しだけきゅっと表情を引き締めてから顔を寄せて僕の耳元で囁いた。
「……人には抱えられる物の数ってのがある」
「窮地で救える命は両手で収まる二人だけ、というありきたりな話ですか?」
よくある話だ。
思考実験でも船が難破し漂流している最中、結婚相手とその間に出来た子供、どちらか一人しか助けることの出来ない状況というのも聞く。
シュバルツが二度、ヒカリが一度しっかりと忠告してくれた、抱えるものに潰されるなという道理にも沿う物だ。
「いいや、お前さんその子を連れて返ってきてから何日経ったか覚えているかい?」
「二十二、です」
耳元で囁くシィルの顔は見えない、僕の声は何故か震える。
「春が来るまであとどれぐらいの月日が残されている?」
「……」
厳密には計る事ができない。
カレンダーも、正確な時計すらもこの国には存在していない。だから僕達は体感で、肌にて感じる気温や湿気を計算式に含めながら曖昧に四つの季節で計るしかない。
「何時まで、足を止めているんだい? 相手の歩幅はわからない。今にも目すら届かない遠くへ消えるか、あるいはこれまで身を擦り減らしてまで前を進んでいた距離がふいになっているかも知れない」
言わんとしていることが伝わり、黙る。呼吸すら忘れ、今まで目を逸らしていた現実から逃げ出したい。
あの日復讐を決意しなければ、あの日、カレットを見逃せば――今この日、この子を諦めなければ。
「竜か一人の少女、どっちを取る?」
竜には、届かないのだろうか。
「少しばかり脅かし過ぎたかな?」
そっと屈んでいた身を離し、視界に再び納まったシィルは無邪気な悪戯を考えている子供のようないつもの表情で。
「――それでも」
「ん」
難しい話は終わり。そうと言いたげな空気を断ち切るため、頭に入ってきた雑念を振りほどくため、僕は口を開く。
「それでも、やれるだけやります」
「そう言えるのは強いことだ」
「はい」
「でも強くても救えないものはある」
「はい」
「正しくても救えないものもある」
「はい」
「それでも?」
「それでも」
おどけた表情を崩さずにシィルは笑う。僕はおかしいのだと、彼女は笑う。
「今更手を引いて、誰かに任せたり押し付けても事情を知る人間ならば責めはしないだろうさ。少なくとも自分達にはできなかったこと、やろうとしなかったことなのだから。
でもねアメ、その気持ちは、言葉は声音は表情は――人として壊れているんだよ。狂っているんだ」
「それが"アメ"です」
堪らなくシィルは声をあげて笑い始めた。
僕はわからなかった。どうしてこんな気まぐれを、カレットを救うと決めた寄り道を、本筋である竜を諦める感情を抑えてまで優先しようとしているのか。
意固地になっているわけでも、自分に似た境遇の少女を見捨てられなかったわけでも、ルゥに容姿が似たカレットを救いたかったわけでも、どれでもなかったか、全てを足してもここまで竜に比類するほど強い信念に昇華する事象には納得がいかないのだ。
「そうさ、それがアメだ! あたしが、あたし達が隣を歩くと決めた人間さ! 人として狂っていて、事象としてもロジックが成り立たない壊れている存在。
だからこそあたし達は諦めない、お前さんが諦めきらない限り、きっとね」
好き放題言って、自分に酔った様にウインクを残し去る背中に、僕はルゥが初めて文字だらけの自室を見たときに似たような反応を見せていたな、とだけ思った。
ヒカリは言った。
「大切なものに押しつぶされて死ぬなんて幸せな死に方じゃない」
二度目、僕の顔を見てそう言った。
一度目は僕の心配で、今回はシィル同様竜討伐への支障が出かねないと判断しての事だ。
シュバルツも言った。
「ココロと同じ境遇、ルゥと似た容姿、ヨゾラやソシレのように立場や存在が違う人間を抱えたかったのはわかるが、理屈では到底狂っている」
そう指摘した。
当のソシレ同様立場が似通っているヨゾラは。
「私にも無理、そう思う。ごめんなさい。
でも、聞かせて欲しい。自分の意思を持たないようにしていた私に、自分の意見を持てないようにされたこの子。どうしてアメは、そこまで助けよう、そう思ったの?」
僕はその問いにゆっくりと首を振り、何か思いついたら伝えて欲しいとだけ告げて頷くヨゾラの元を立ち去る。
自室に戻り、鍵を掛ける。
ずっと隣に居たカレットが疲れたのか無言でベッドに腰掛け、僕も慣れたように続いて肩を並べる。
「どうして、か」
やるかやらないか、そう問われたのなら。
「それでも」
そう言える。
ただどうして? 何故? そう聞かれても答えは一向に出てこない。
カレットの頬に手を添えて感情を伴わない表情を覗き見たら、その瞳の中に似たような顔が一つ見えた。
ある日、ココロは言った。
一大決心を行ったような、誰かを初めて殺すと決めた日のような、僕とこのまま斬り合っても構わないような、これから自分が死んでしまっても構わないような。
悲痛そうに追い詰められ覚悟し、道理が引くことを許さない表情で僕に言った。
「アメさん、あの施設に居た子供達は覚えて居ますか? 名前は、顔は性格は? 三人でレイニスまで逃げ出して、あれから一度でも見捨ててきたあの子達の身を憂いたことはありましたか?
覚えていませんよね、私にこう言われてもあまり実感が無いですよね。今ならまだ間に合います、カレットを……その子を諦めることは間に合います。あなたが人生を賭してでも成し遂げたいと願った行いを、諦めずに他を諦めることならば間に合います。
奴隷として売り払っても、郊外の道端に見捨ててきても誰もあなたを責めはしないでしょう。今までその子のために頑張ってきたことはあなたを知る人は痛いほどに知っています、もし身勝手にも拾ってきたのに、そう責めるようならば皆で代わりに世話をしろと石を投げる事だって出来ます。
もしあなたに良心が存在していて、この子の行く末を本気で心配するのであれば、このココロ、あなたの代わりにカレットに人生を捧げましょう……だから! ヒカリ様の隣を歩くことの出来る唯一のっ、竜を倒すなんてふざけた目標を本気で掲げられる人が! ここで立ち止まらないでくださいっ!!」
「それでも」
堪えようとした感情は瞳から一筋だけ溢れ出し、心にも無い言葉を口にして傷ついたココロは僕の短い返歌に喉から声を漏らす。
どうしてそんなにつらそうな顔をしているの?
そのどうしてには答えることができた。きっとココロは僕の分まで悲しい気持ちを抱えてくれたのだろう。だから今僕にできることは、呻く彼女からカレットの手を引いて屋敷の中を一分でも多く歩き回りきっかけを得ることだった。
- どうしてという弾丸 終わり -




