171.月輪に成り得るには
ソシレの昼食を持って来た時、既に先客が居ることを遅れて僕は認識した。
隠れていたわけではなく、ただ周囲を、景色とあまりにも同化していて、ソシレが群がる猫とコミュニケーションを取っている中、膝を抱え一匹の猫を寂しそうな表情で撫で回す新人。
「あ、アメさんっ。ソシレのご飯時だったんですね、すみません、すぐに退きますから……」
「いいですよ、すぐに終わるので。
良かったらソシレの食事が終わる程度でいいから話でもどうですか?」
ココロの部下として後輩にやってきたフェルノは、僕がそう提案を投げつけると浮かした腰を再び地に下ろして唇を結う。
ソシレにいつもより短い待ての命令を解いて、がつがつと美味しそうに食べ始めるその姿を見ながら僕もフェルノの隣に腰を下ろす……下ろして、距離が異性にしては近かったなぁともぞもぞと動く。
僕のほうに猫は未だ寄って来ない。初日にソシレのご飯を摘む姿に怒鳴ったせいもあるだろうが、そもそも動物にあまり好かれる体質ではないようだ。
「それで、何かしてしまったんですか?」
「……」
閉ざされた口が開かれるまで僕は根気良く待つ。
見るからに消沈していて、誰かの支えが、雑談でも何でもいいからしたほうがいいような状態にも関わらず、動物を愛でるに済ませて。いざ僕が来てみれば去ろうとし、食い止められれば大人しく立ち止まる。回りくどいが人恋しいという状態なんて大概こんなものだ、もしかすると僕がここに来る時間帯というのも知っていて、きっと引き止められることも無意識下程度で想定していたかもしれない。
……何かしてしまった? なんて声の掛け方は酷いではないのか。相手が失敗した前提じゃないか。何かあったんですか? これが良かった。もしかしてこの沈黙は絶句? やっちまった?
「ハウンドの、いえ獣のとどめを行うことが、できませんでした」
「戦うことはできたんですか?」
「はい」
ようやく出てきた言葉を、ウェストハウンドであるソシレの耳に入っていることを気にしてか言葉を選び直す。
「ココロはなんて言ってましたか?」
「今はまだ構わない。でも何時までも命を奪うことができないのなら、早々に別の人生を歩んだ方がいい……って」
這い出てくる言葉はいつか上司に見捨てられるかもしれないという恐怖に怯えきり、顔は膝に隠してスカートは股を隠しながらその心情を現してか不安気に揺れるように見える。
「まず、ココロはフェルノさんの事を大切に思っていないわけじゃないです。大切に思っているからこそ、無理ならば他の仕事を探すなり視野を広げろ、そう言っているのだと思います」
「……はい。自分もそう思いたいです」
「次に、僕もココロに同意見です。獣一匹殺せないのなら、近いうちに訪れる人と戦う機会までに逃げ出した方がいい」
その言葉の意味をフェルノはよく理解したのだろう。戦って、殺せなかった。また新しい敵と戦う時に、求められるのは殺める力。人を殺さなければ、いけないのだと。
「そしてココロより優しくなどなくて、たまに顔を見せる程度の先輩として僕は残酷な言葉を送ろうと思います」
フェルノの本質を利用し、都合の良い方向へ誘導するための言葉。
「今、僕達が日常で食べている肉を、人々が手を汚さないために血で染めている方々がいるんです。
もし、人と戦うと決まった時、あなたの躊躇いが誰かを味方を殺します。フェルノさん自身かも知れないし、他の人かも知れませんが、僕は八割方ココロになると思っています。
誰かの前に立ち、未熟な後輩を守って、覚悟を抱かせることのできなかった自分だけを責めながら、きっと彼女は大切な者を守ることのできた事実に笑いながら逝くのでしょう」
殺生の本質は結局のところそこに落ち着く。
命を奪うという行為に罪悪感を覚えるのは、人間性のできた、一部の町の中で人生が完結できるような恵まれた人間だけだ。
人や生命が抱く本質ではなく、環境が生み出す本質。それが悪いと非難するつもりはまるで無いし、実際僕にはあるはずだったのに欠けていた人間性の一つだ。ただ。
「そうした事実を踏まえて、ココロの代わりに帰ってきたフェルノさんを見たら僕は憎しみを抑えきれないと思います」
戦うことを決めた人々の本質はそこにある。僕の本質はそこにある。
生きるために殺す、守るために殺す。自分に益があるから、ただそれだけで殺す。
「どうして誰かに庇われなくとも良い程度に成長できなかったのかと、自責に押しつぶされそうになったあなたに憎しみを募らせた視線を向けて、思ってもいないなんて言わない、心の底からあふれ出す恨み言をぶつけるかもしれません」
「すみま、せん……っ。ちゃんと、やるので。誰かを守るなんて言わない、せめて誰かに守られなくともいいように強くなって、覚悟を決めるので……っ」
恐らく搾り出すように吐き出したその言葉に嘘はない、そして実際に成長もできるだろう。
けれどそれは誰かのために、だ。ココロを傷つけないよう、僕から憎まれないよう、人の目を気にして、自分の意思など誰かのためにそれ以外どこにもなく。
望み通りだ。こうなるように誘導する言葉を伝え続けた、責めて逃げ場の無い場所まで追い詰めた――ヨゾラの顔が脳裏にチラつく。
「でも」
自分を持たなかった少女の末路を僕はよく知っている。
「ココロが言いたいことはそんなものでは無いと思うんです」
僕にしては酷く優しい声だったのだろうか。今まで視線を徹底的に避けながら会話を続けていたフェルノの瞳が、僕をしっかりと正面から捉える。
仕方ないと思う。ココロを想ったらそうしてしまうのは当然なことで。たまには底抜けに優しい彼女の毒気に当てられてみるのも悪くはないのだろう。
「僕からこう責め立てられ、行き着いた道程にあなたは居ますか?」
女装していることが人目で判断できるスカートに視線を下ろし、僕が何を見ているか、視界に収めるそれの先、フェルノの本質を見ていることを人の機微に草食動物のように反応する彼は瞬時に気づく。
「どうしろと、仰っているんですか」
まったくもって。
今まで語った話は全て台無しだ。このままではダブルバインドという人の精神を苦しめる中でも相当な外道に落ちる。
「自分の胸に聞くなり、上司に直接聞くなり、幸いこの屋敷には戦うことを決めて自分というものを確立している人が多いのですから、色々な人の話を聞いて、貰ったアドバイスをそのまま活かすのではなく、その中で自分がどう思ったのか確かめる他無いと思います。
何にせよ人を殺めることに誰かを言い訳に使ってはいけないし、誰かを守れなかったことに必要以上自身を責め立てるのもいけない。全て、自分が選んで望んだ道の結果、そう思えるようになったらいいですね」
「その様子だとアメさんもまだそこには至れていないんですか?」
ようやく憑き物が落ちたように、少しだけ肩の力を抜いてフェルノはそう笑う。
「えぇ。そこまで悟っていたら、竜に復讐なんて考えてませんよ」
フェルノは冗談を耳にしたようにクスクスと笑い、僕も自身の無謀さを改めて確認し肩を揺らす。
「ココロの部屋を見ましたか?」
「いえ、流石に……」
「刀が、一杯飾ってあるんですよ」
戦う術を教え始めた頃に、倉庫からアレンと三人で引っ張り出したなまくらから、最近魔道具の"風鳴り"に乗り換える直前まで使っていた質の良いものまで。あとは市場で気に入り買い込んでいる愛玩用の刀達。
ついでに和室だ。どこからか畳を仕入れてきて、本来洋風だった室内を完全に改装していやがった。
「ココロはその刀で切った相手を覚えています」
これは、憶測の話。
ココロが誰にも語らない、心優しい彼女が人を切り僕と同じ道を歩むと決めた日の事。
「初めて殺した獣、初めて殺した人間。切るたび切るたびにココロは覚えられる限りの感触や相手の顔を覚えて、相手が持っていたはずの恨みを自分の恨みとして抱え続けている」
それがココロの強さ。
尋常ならざる精神力に、奪ってきた命の重みを刃に乗せて。
常人がその数多の重りをぶら下げた一刀を阻めるはずがない。自責で自らを傷つけ続けている彼女が生半可な攻撃で揺らぐはずもない。
そうして一見優しい少女に関わらず狂ってしまった僕達と歩める、ヒカリ等の本物や化け物に追いつくための力を手にしている。器が、壊れているのだ。
「まぁそんな極地に行く必要は無いどころか、逆に不本意で連れて行かれないように気をつけたほうがいいんですけどね……とソシレも食べ終わってますし、そろそろ戻りますか」
「あのっ! ありがとうございました! 今はまだその、上手く自分の中で整理できていないんですが、なんとなく自分がやりたいことが見えた気もしますし、何時か今日聞いたことを役立てたいと思っています!」
頭を下げながら礼をするフェルノ。こうして互いに立ってみれば身長差はかなりある。
五歳差程度だっけ、フェルノの身長が平均並みにあり、僕の身長が小さいことも合わさりだいぶ年齢差を感じさせる。多分相手も気付いているだろうに、そんな子供にしっかりと感謝を示すなんて。
「正直で好感が持てます。
まぁそんな気張らずに、命を奪うことが生理的に無理なら使用人にでも戻ってのんびりしてもいいと思いますけどね……あら」
食事を終えたボウルを軽く洗おうと、目の前で座ったままのソシレの前に行くと。
「……? どうかしましたか?」
「食べ残し……というか最初に言った言葉覚えてますか? ソシレが"食べ終わるまで"話でもどうですかって。どうやら会話のキリがよくなるまで我慢するつもりだったみたいですよ。
お前可愛いやつだな、まったく」
フェルノに残った肉片を見えるように掲げ、彼が口を押さえて愛らしそうにソシレを見て笑うのを確かめながら、僕は口元へ向かって肉片を放り投げるとソシレはパクリと綺麗に食いつき、食事を終えたことに舌なめずりした。
「これからはこんな気を遣わなくていいからね」
ワンッと鳴くソシレに、クゥーンじゃない辺り次も似たようなことするんだろうなと僕は苦笑いするほか無かった。
- 月輪に成り得るには 終わり -




