130.あの日々の向こう側
もう十分だと思った。
その時を迎えるのに、十分僕は時を与えられたと思った。
けれどそこに向かうのはケジメみたいなもので、一度明確に自責の根源に向き合う必要があったと思ったのだ。
「久しぶり、スイ、ジェイド」
元レイニス騎士団支部の所在地。
現、慰霊碑。厳密には竜を模った石造も、悲劇を記録した文字も彫られていないただの石の塊のようなものだ。
ただその石塊に日々足を運ぶ人々は居るし、まだ鮮度を保った花や酒瓶が置かれているのは、ここに来る人々が慰霊碑としての役割を求めている証拠だろう。
「……」
もはや言葉は不要だ。
ここにスイ達が眠っているとは思っていない。唯一残った彼女の左腕さえ、共同墓地の隅に埋められているかすら怪しい。
でも僕はここで今はもういない人々を思い出す。兄妹に、故郷の人々。少しだけ顔を知っているガロン=リーンに、少しも顔を知らない僕達が見捨てて逃げた人々や顔を見る暇も無く消し飛んだ人間。
竜に人々が奪われたものは遥かに大きく、それに対し僕達ができる何かは遥かに小さい。
「アメか」
「こんにちは」
どれだけの時間そこで思案していたか、それすら考える必要がある時間が経った時、ユリアンと出会う。
手に持っているのは一つの酒瓶で、何やら高そうな雰囲気を醸し出すのがなんとなく酒に疎い僕にもわかった。
「父が好きだったんだ、この酒は」
そう言ってユリアンはボトルを空け、半分ほど他の供え物に掛からない箇所へと慰霊碑へ浴びせる。
「幼い私は一度せがんでな、父が空いている時間楽しそうに飲むこの酒を分けてもらったんだ」
「どうでしたか?」
ある種の確信を抱きながら尋ねると、ユリアンは当時の光景を思い出してか鼻で楽しそうに笑いながら口を開く。
「不味かったよ。どうしてこんなものを上手そうに飲むのか、度し難いと父を見ながら私は倒れそうな体を支えるので精一杯だった。
そんな私に父は言ったよ。色々なものを食べ、舌が肥えたころにこういったものを楽しめるようになると。また何時か、二人で酒を飲む機会を作ろうじゃないかと」
そしておそらくその機会とやらは二度と来なかったのだろう。
当時酒が楽しめなかったのも毒素を分解できない幼い体に、魔法で誤魔化すこともできず味を楽しんでいる余裕が無かったのではないか。
「……やはり不味いな」
「ぷっ」
残った半分を一人慰霊碑の前で呷り、僅かに口にしただけでそう漏らしたユリアンの言葉に思わず吹き出す。
「そもそも私にこの酒は合わないと何時も思う。アメが飲むか?」
「いえ、お酒は飲まないので」
拒絶された酒瓶を、今度は完全に口を下に向けて吐き出しきるユリアン。
法律も無いし、魔法も扱えるおかげで体調に影響も無いだろう。ただ、大人になるまで機会を待つ。そう思い、体も心も未だに成熟しないだけだ。
「……不思議でならないんです」
「なにがだ」
ただ二人で呆然と立ち尽くす中、僕は堪えきれずそう口火を切った。
「多くの人がこの石造の存在すら忘れ、覚えてこうして訪れる人々も表情に浮かべるのは悲しみの感情ばかり」
今日だけでもたくさんの人々を見てきた。
十年前のあの日から、ここに訪れるような様々な人々、何食わぬ顔であの災禍を忘れ日々を楽しむ人々を見てきた。
「不思議でならない。どうして怒りを見せる人々がほとんど居ないのか」
居たとしても理不尽に対し怒り狂うだけで、実際に存在する問題に自身が動こうという気配など毛頭も無く。
「皆が皆、お前のように強くはないのさ。あるいは既に散った後か」
「僕は弱くて愚かな人間です。それでも、正しく怒ることはできる」
- あの日々の向こう側 始まり -
「アメ」
二つの屋敷を繋ぐ廊下。
カナリアが僕の名前を呼び足を止める。
「……私が訪ねる必要はなかったようね」
僕の表情を見て勝手に何かを察したのか、カナリアはそう微笑み中庭へ視線を向ける。
今日もあそこは踏みならされているというべきか、ヒカリが私兵の中でも隊長と言う肩書きを持ち一番実力を持っているだろうシィル相手に楽しそうに踊っている。
武具を鳴らし、傷を増やし、血を撒き、それでもヒカリは、僕がまるで歯が立たなかった相手に優勢を保ち、色々な戦術を試しているのか余裕な表情で楽しそうに戦う。
対しシィルも笑う。
一歩間違うだけで死ぬかもしれない危機感、年下の少女相手に武力で屈している劣等感。
それらを意に介さず、あるいはそれを背負った上で、強敵と渡り合う喜びを楽しんでいる。
二人共根っからの戦闘狂だ、それに実力も伴うとなれば誰も近寄りたくないほどの台風に化する。
「ヒカリは、とても強いですね」
そんな台風の目を僕達は日陰から小学生が行う運動会のように見守る。
「昔もあの子は普通に泣いていたのよ」
「……」
カナリアの言葉に僕は驚愕を隠す。
わかっていた、わかっていたはずだ、アメ。だから、それは見せるな。この人には、見せちゃいけない。
「けれどヒカリは、コウの記憶が入っていく度に頻度を減らし、気づけばあれほどの気丈な子へと育っていた」
「それは、コウの記憶を取り入れていくことで、人として強くなったということですか……?」
僕の言葉にカナリアは視線を合わせて、その後仕方ない子供達なんだから、と正とも否とも取れる曖昧な笑顔で笑った。
……今、僕はどんな声でその問いかけを送ったのだろうか。擦れた声で、そうであって欲しい、そうでなくてはならないと、ただ嘆願し懇願する声を出していなかったか。
もしそうだとしたらその表情も、泣けはしなくとも最大限に悲痛な表情で、それを見たカナリアはかける言葉すら失ってしまったのではないか。
「アメ」
不甲斐ない、申し訳ない。
ただ自責の念が僕を踏みつけ、自然と頭を垂れ始める矮小な存在の名をカナリアが呼ぶ。
「あなたが、あなた達がどんな生き方を選ぼうとも私達はそれを応援します。だから、その道を歩くと胸に抱いている時だけは、前を向き続けて欲しいの」
最後まで前を向き続けろ。自分達が行ったことは正しかったのだと、導いた結末を、訪れる末路の中でも。
ならば、事の始めも前を向くべきだ。これから行うことは正しいと。たとえ、誤っていたとしても、進むことはやめないのだと。
俯き始めた視界を再び上げる。
自然と瞳に入ったのは、未だ楽しそうに戦い続けるヒカリだった。
僕はヒカリに信頼を置いている。
出会って一月も経っていないにもかかわらず、コウの記憶を持っているというだけで絶対的な信頼を。
それは胸に空いた喪失感を埋めるには、不完全ながらも目の前にある奇跡に縋るしかないという脆弱な心からかもしれない。
目の前に居た少女が、まるで鏡映しのように来るかもしれない絶望に怯えていて、手の届く場所に居る彼女の誰も共感できず、誰も守ることができない、僕以外に誰も守ることにできない悲しみから僕が守れるのなら彼女を守りたい、独善的にもそう思っただけ。
実際に日々を過ごし、あの日が戻ってきたと錯覚できるほど今という時が心地良かったから。気づけばそういった錯覚が、新しい真実に変わっていたのかもしれない。
馴染みの深い家が、友人の娘としてコウの記憶を持った少女を産み出した。その偶然、もしくは作為に美的奇跡を見出し見惚れたのか。
実際のところ細かい要因はなんだっていいのかもしれない。
大切なモノがここにあるのなら、僕がやることは一つなのだから。
- あの日々の向こう側 終わり -




