105.赤黒い足跡
夢を見ていた。
何故今居る場所が夢だとすぐにわかったのかは、別に慣れ親しんだ灰が降り積もり続ける薄暗い世界だったわけでもなく、この異常な空間を異常だと把握できたからではない。
ただ人々が暗闇の中を歩いていて、僕の後ろから流れるように前へと歩き去って行くその顔に見知った、そして今はもう見ることが叶わない存在が居たからだ。
初めは無数の人々。
これだけだと夢を夢と気づけないような変哲もない顔達。
おそらくこの夢を保つために必要なモブ的な役割を持つだけの名も無い様な人々――あるいは僕がもう顔すらも思い出せないような、大切だった人達。
次に故郷の人々。
一人、二人と見たことのあるような顔が過ぎ去り背中を見せてどこか遠くへ歩くその姿をぼんやりと見ていると、断片的だった人の流れがどっと勢いを付けて迫ってくる。
その中に、未だ忘れられない、そう十年以上経ってもなお忘れることのできない四名の男女を見つけたとき、あぁ、これは夢なんだと理解した。
メイルにアネモネ。
ウォルフにコロネ。
僕とのコウの……いや、僕達の両親。
確かに僕の姿が視界に入っているはずなのに四人は、おそらく竜に丸ごと焼き払われた村人達と共に歩き続けている。
姿が変わり僕が誰かもわからない、そういう段階ではない。隣を歩く人々すら認識せず、一人一人が前に進むため足を踏み出し続けている機械的なもの。
その人々の群れが過ぎ去る時、思わず手を伸ばしかけた。
触れてどうにかなるとは思ってはいないけれど、子が親に手を差し伸べるのはおかしいことではないはずだ。
けれど伸ばしかけた手を、どうにか僅かにピクリと動かしただけで腰の方で握り締めて動かすことをやめることができた。
隣を横切る時、顔を見たくなくて僕は俯いたままで、けれど過ぎ去った後、その背中を見ないわけにはいかず。
何事も無かったかのように、永遠に続くと思われる闇へと両親は故郷の人々と共に過ぎ去っていった。
既に先へと歩いていた人々の背中を見つけることはできなかった。
呆然とその背中を眺めていると、再びポツリポツリと人が過ぎ去っていき、しばらくすると再び人の群れが僕を追い越していく。
その最後尾に、この暗闇の中でも映える翡翠色の瞳が見えた気がしてそちらを向くが、既にその姿は背中を見せていた。
忘れることなんてできない。
その背格好に、ピンク色の髪。
先ほどは堪えることのできた手を今度こそ前へと伸ばしてしまう、そして硬直。
仲良く手を繋ぎ歩いている兄妹の、少女の左手が兄の右手を握っていることに気づき、僕は、僕には彼女達へと手を伸ばすことは許されないと知った。
まとまった人々の塊が過ぎ去ったのを確認した頃、再び少しずつ僕を追い越していく背中。
予感にも似た何かを感じ、いやどういった順序で人々が流れているかを予測し、次に来るだろう人間を見るために僕は後ろへ向く。
白い少女が居た。
マントのフードは脱いでおり、何度直しても癖の取れない髪の毛の束を僅かに上下させながら、少女は仇であるはずの男性と肩を並べこちらへ近寄ってくる。
男の表情に殺気は見えない。僕がほとんど見たことの無いような表情を男性は浮かべ、少女はまるで男性と親子のように友人のように、どうとでも取れる距離と表情で僕へと近寄ってくる。
その二人に対し、僕は頭を垂れた。
何も尊敬などの高尚な感情がそうさせたわけじゃない。純粋に己の無力さや、自身の罪を見せ付けられているようで直視できなかっただけだ。
手を伸ばす気力も無く、もうさっさと全て過ぎ去り、この悪い夢が終わって欲しいことだけを願った。
その俯いた僕の視界の端を、一人の少年の足が横切る。
慌てて顔を上げ振り向くが、またもや既に見えるのは背中だけで。
ついさっきまで頭を埋め尽くしていた後悔だとかそういったものは全て吹き飛び、伸ばした手が届かないことを知り僕は立ち上がり少年の背中を追う。
もうなんだっていい。
この夢が僕の罰だというのならそれは甘んじて受けよう。
ただの自己嫌悪や自責の念が見せる幻想というのならその泡沫の痛みに苦しもう。
でも、その一人歩く少年の手を一度でいいから掴ませて欲しい。
触れさせて欲しいなんて傲慢を捨てて、ただ顔だけでも見させて欲しい。
そう願い歩みを速めれば速めた分だけ少年の足取りは速くなる。
このままじゃ追いつけず、あるかもわからない果てに届いてしまう。そんな焦りが込み上げてきて、僕は歩くのをやめて走り始める。
でも少年は歩いているにもかかわらず、僕がどれだけ全力を出して走り続けてもその背中を一定の距離を保ち続ける。
ふざけるな。
――ふざけるな!
幸福にも満たない些細な願い、その程度すら今の僕には許されていないのか!?
そうかもしれない、そうだろう。僕だって僕自身を許してなんかいない。今ここを通り過ぎた人々は全て僕が守れたかもしれない存在。
たとえ愚かで非力な僕が人々を救えたかもしれない可能性なんて、それこそ無数に続く零の果てに有数が一つでもあるかも怪しい。
でも、それでもそれらは僕の過ちだ。傲慢にも己の責務だと全てを抱え、潰れた結果が現状だとしても僕は何度でもその後悔を繰り返す。
けれどそんな後悔の中、些細な夢の中で、僅かな望み。記憶の中じゃなく眼球を通してその存在を見つめたい、それすら許されないのはおかしい。
走って、離れて。
走って走って、離れて離れて。
まるで僕を嗤うかのように、もしくは僕が追うからその分だけ離れるように少年の背中は僕と一定の距離を保ち続ける。
このままじゃ埒が明かない。
僕は何時まで経っても彼の背中を追い続けることになる。
でき得ぬことを成さなければならない。
その些細な望みを叶える為だけに。
《僕は》
体を僅かに浮かせる。
何度も何度も練習した、その結果を目指すための第一歩。
《君が》
言葉が風になり、風は僕の背中を押す。
《とっても》
足首に力を入れる。
普段ならそこで止まってしまうような思い切りの無さを、魔力が脚力と共に吹き飛ばす。
《――とってもっ!!》
青白い粒子が、彼の背中までのレールを築く。
僕はそれに乗り、手を伸ばしたまま横へ跳ぶ。
背中が近づく。
今まで詰めることのできなかった距離が、一つの魔法で接近を許す。
手を伸ばした。
今はもう届かない背中に、届かせるため。
《……》
そして、宙を切る。
宙を、切ったのだ。己の意思で。
無様に受身も取れずにゴロゴロと地面を転がる。
流転する視界の中、転がった分だけ無感情に離れる背中を、僕は呆然と眺めていた。
僕は、今何を考えた。
不可能、そう思わなかったか?
もう絶対に、あの背中に届くことはないと認めてしまったんだろう?
それは手を伸ばさなくても同じ。
不可能を可能にする。それを成し遂げられずとも、成し遂げようと思った時点で僕は認めたんだ。
もう、彼に触れることは叶わないと。もう、不可能なんだって。
全身の痛みを無視し、僕はいつものように体を両脚で支え立ち上がる。
今もうほとんど見えない彼の背中。
その彼がなぞった道を辿るよう、僕も過ぎ去った人々と同じように歩き出す。
僕も、行かなきゃ。
彼の次は僕の番。
もしくは例外にも生まれ変わったからこそ、この場所から去るために。
- 赤黒い足跡 始まり -
「……さん?」
何か声が聞こえる。
夢から覚めたのは明瞭な五感が教えてくれている。
ただ声がどんな意味を持っているのかを覚醒しきっていない五感が把握しきれず、固いベッドの感触はわかるのに今どこにいるかは眼が映し出すことはない。
まだ目が開ききっていないのか、それとも瞼じゃない何かが目を塞いでいてよく見えないのか。
どちらにせよ朦朧とした頭じゃそれを把握することなんてできるわけが無く、僕はただ誰かがこの手を掴んでくれることを願い手を振り回すだけ。
あの暗闇から救い出してくれる誰か、あるいは暗闇で唯一見える人々の誰でもいいからこの手を取って欲しいと。
「大丈夫ですか、アメさん?」
だから、その声の主がココロであると認識し、いま早朝の自室で伸ばしていた手を彼女がベッドから抜け出し掴む前になんとか意識を覚醒しきることに成功することができた。
「……うん、大丈夫だよ」
僕は彼女が手を取る前に、どうにか既に体を起こし支えていた膝に押し付ける。
この手をココロには取ってほしくない。
彼女はきっと僕を救ってくれるだろう。
ココロらしい形で、いろいろな人々の形で空いた心の穴を埋めてくれるはずだ。
あるいはこの苦しみを共に抱えるために、僕の手を取りここまで引きずり落とされ彼女に似つかわしくない場所に留まることになる。
少女はそれを赦すだろう。けれど僕はそんな自分を決して許すことはできない。許さない、のだ。
「全然大丈夫じゃなさそうですよ。いつも以上に酷い様子で、顔色だって悪い……」
いつも、か。
こうして寝ているときにうなされていることは僕が気づいていないだけでそう珍しいことではないのかもしれない。
「大丈夫、なの。僕はそう決めた、そう望んでいるんだ」
少しでも安心させようと不敵に笑ったつもりだが、ココロは何かとても悲しいものでも見たような様子でこれ以上何かを口にすることは避けた。
その相手の気持ちを尊重する残酷な優しさが、僕にはとても染みたんだ。
「ふむ、上出来じゃないか。急にできるようになったようだが、何かきっかけでもあったのか?」
「いえ、特には。ただ少し理屈を勘違いしていて、上手く噛み合っていなかっただけのようです」
僕の言葉にアレンさんはそういうものかと納得したように頷いただけだった。
あの夢を見た日の午後。現実でも縮地を試してみたが、予想通りすんなりと成功した。
特に難しい理論があるわけじゃない。
何が可能で、何が不可能か。
それを正しく理解し、不可能だと思い込まずに成せると思うのであれば、魔力は魔法として現実的に可能な段階までならば実現してくれる。
横に助走もつけずに十メートル近く跳ぶということは不可能には入らないのだ。
まぁ物理学的にはかなり無理をしていて、肉体への負担は非常に大きいと今身を持って知ったが。
「わぁ……アメさん凄いですね! そんな動きができるだなんて」
輝いた表情で僕を見つめるココロに、思わず文句の一つでも言いたくなるのを辛うじて堪える。
今朝の夢はどう考えても昨晩、ココロが確率の、可能性の話をしたせいだ。
ただまぁそれを批判するのは理不尽だし、そもそも僕が悪戯心で話題を振らなければこんな目には合わなかったのだが、結果として縮地の修得に繋がったと考えたらそう悪いものではないのか。
……胸にはぽっかりと大きな穴が空いて……いや、空いていることを改めて認識させられたが。
「ココロなら練習したらすぐにできるようになるよ。ただもう少し基本を学んでからだけどね」
ココロの成長は著しい。
まだ一ヶ月も経っていないにもかかわらず、彼女は十分に武器を振るうことができ走り続けることができるようになった。
おそらく僕が知る誰よりも才能ってやつを持っているのだと思う。幼い頃から優秀だと言われていた僕や、それに追いつこうと頑張った結果天才に分類されてしまったコウよりも。
いや、あるいはコウは、僕という程度の知れた枷が無ければ、別の誰かの素晴らしい背中を追っていたのなら、何もかも違っていたのかもしれないけれど。
ただどれだけ箍の外れた人間、一年同じ事を学んできた人間に二倍の学習速度を備え半年で追いつける前例が存在していても、一ヶ月で追いつけるほどの存在は現実にはあり得ない。
常人の十倍近い潜在能力、学習能力を備えていて寝る間を惜しんだとしても時間はどうしても足りないし、先にその道を進んでいた人間も歩みを止める事はない――僕が何もせずに、追いつかれることをのうのうと待っている道理はない。
「ココロも最低限動けるようになったわけだし実戦をしてみるか」
アレンさんの言葉にココロは握っている刀を揺らす。
彼はお見通しだ。彼女が十分戦える能力を既に備えていることを。そして、精神面ではその最低限に追いつけていないことを。
ココロは誰よりも優しすぎる。
誰も傷ついて欲しくない、誰かの代わりになれるのなら自分を犠牲にする、たとえ暴力が世界に不可欠だとしても、どこかにそれを必要としない一つの答えがあるのではないかと甘い理想に溺れ続けている。
別に名前も知らない他人がそんな夢を見ていることを糾弾するつもりはない。綺麗なそれを蔑ろにするつもりはないし、本当に平和な答えがどこかに落ちているかもしれない。
けれど、ココロは別だ。
僕達と共に生きていて、アレンさんが負担をして彼女の身柄を確保して、共に戦うのだとしたら背中を預ける必要がある。
敵を傷つけることを躊躇い、味方である僕達が命を落とすような真似は事前に防がなくてはいけない。
そのためには必要なのだ。血が、彼女の手を濡らす事を。
生きるとはどういうことなのかを実際味あわなければならない。敵から味方を守るということはどういうことなのか。僕達と一時的にでも歩むしかない生き方はそういうことなんだって。
「丁度害獣駆除の依頼が出ていたのを確認してある。ここら一帯の畑が、最近ハウンドに荒らされているそうだ。
これでは汗水垂らし育てた作物が無駄になるし、農民が鉢合わせしてしまったら最悪命を落としかねない。わかるか?」
アレンさんは問うた。わかるか、と。
この暴力は街の人々の生活を守るために必要な必要悪で、国が罪人を罰するような正義であると。
自分達は無力な人間の代わりにそれを行い、言葉の通じる人々は誰も不幸にならない行為だと。
アレンさんは問うた。わかるか、と。
問うているのだ。ココロに躊躇う必要はないと、やれるか、と。
ココロも知っている。彼女も、知っているのだ。
言葉にされぬ問いかけを、自身の優しく弱い心を、これから生きていく上で必要な一歩、そしてなし崩しに相手を斬る大義が無くなっていくだろう事を。
一匹殺せば、二匹目。三匹殺せばもはや数える必要は無く、一人殺して二人目。三人、四人、殺せば殺すほど人の命を軽んじるようになる……大切な人を喪っても傷つかなくなるかもしれない。
鞘に収まった刀の震えは止まらない。抑えようとしてそれでも震えるそれを彼女は受け止め、その上で確かに頷いた。
その初々しくも手順を踏んで前に進むココロの様子に、僕はどうして自分がこのような人生を歩まなかったのかぼんやりと首を傾げる。
戦うことは怖かった。でも実際に戦ってみたらそれどころじゃなくて、生き物を殺めたことに何か特に思うことは無くて。
そうして今この手は人間の血で汚れている。
平和な世界からやってきて、直前まで確かに人間らしい道徳をぶら下げて居たはずなのに、気づけばそんなもの無かったかのように生きていて。
いくつもの要因が重なった奇跡の結果……いや、あるいは僕は元々こういう人間だったのかもしれない。
生まれた国が、生まれた環境が違えば何も厭わない人間性の欠如した人格が、あの安穏とした世界で何重にも薄い膜で覆い隠されていただけで。
ふとした拍子。例えば焼け死ぬだとか、生まれ変わるだとか、暴力が必要な生活だとか、そういったもので吹き飛んでしまって。
ビシリと脳に電流が走るような感覚。
付き合っていた女の子が、男だった僕に見出した何かはそれだったのではないか。
その異常さを、特別で素晴らしいものだと勘違いして、それが芽吹くのをしばらくだが待っていたのだろうか。
諦められたきっかけも、見出された出来事も思い出せないけれど、まぁ今となってはどうでもいいこと。
- 赤黒い足跡 終わり -




