第4話【見えてきた文恵の姿】
中学生になった壮一。そんな壮一には前述したように兄がいた。
彼らはそろって長身で、兄は中学3年にして身長178センチ、壮一は中学1年にして172センチと、ふたりとも学年を代表する長身として君臨した。
一方、壮一の父は170センチあるかないか、文恵にいたっては150センチあるかないかという体格だった。
「壮一くんのご両親は小柄なのに、なんで壮一くんはこんな大きく育ったんだろうね?」
壮一は人生の中で学校の担任、知り合いの大人たちから腐るほどこの言葉を浴びせられることとなった。
それにしても両親は小柄なのに、壮一の背が高いのはなぜなのか?周囲の大人たちは改善された食生活などを理由にあげたが、明確な理由はしばらくわからないままだった……。
しかし、この中学時代から、壮一の文恵に対する態度と言動は完全に激変することになる。
ある日のことだった。文恵が近所のスーパーに買い物に行くというので、壮一はついでに買ってほしいものを紙に書いて渡した。
そして文恵が買い物から帰ってきたときのことである。壮一が『頼んだやつ買ってきた?』と訊くと文恵は『ああ、紙忘れちゃった』といって自嘲したのだ。
紙忘れちゃった━━つまり、壮一がついでに買ってきてもらいたいものが書かれた紙を持っていくのを忘れてしまったため、頼まれたものも買い忘れてしまった、というわけである。
壮一は呆気にとられて文恵の顔を呆然と見つめるしかなかった。これはもはやコントの世界である。
それも、こうしたとんでもないミスを1回や2回ではなく、文恵はそれからも何度も何度もくり返し犯し続けた。やがて壮一は文恵に買い物を頼むのをやめるようになっていった……。
買い物といえばこのような大ボケもある。文恵は買い物に行くたびにかなり高い確率でこういい出すのだ。
「財布どこやったっけ?財布どこやったっけ?」
財布を置いた場所を忘れてしまったのである。
壮一はものを置く場所をしっかりきめている人間なので、まず【ものを探す】ということ自体、人生の中でほとんど経験がないことだった。そんな壮一にとって買い物に行くたびに財布を探し回る文恵の姿は滑稽であり、極めて不愉快なものだった。
また、ある日のこと。外に出かけようとしたとき、文恵にこういわれたのだ。
「今は晴れてるけど、夕方頃雨降るらしいから傘持っていったほうがいいわよ」
傘持っていったほうがいいわよ━━それはつまり【自分は傘を持たずに出かけるときもありますよ】ということである。
壮一は雨が降っていようと晴れていようと、天気予報がなんといっていようと、365日ぜったいに欠かさず傘を持って外出する人間である。そんな壮一にとって文恵の『傘持っていったほうがいいわよ』という発言は耳を疑いたくなる愚劣なものだった。
また、ある日のことである。文恵が壮一に『部屋の掃除しなさいよ!』といったのだ。その瞬間、ムッとした壮一はこういい返した。
「あんたにいわれたくないよ!」
狭い幸田家。3畳間が壮一の部屋で、キッチンがあるおかってが文恵の部屋のようなものだった。そのおかってというのがなにもかもが汚く、夏の夜中にはどこからか異形の化物でも出てきそうな雰囲気だった。
また、冷蔵庫の中も常に乱雑としており、どこになにが置かれているのか一目ではわからないほどだった。無論、主婦である文恵が冷蔵庫にものを入れており、きれい好きの壮一にいわせれば【ただものをつっこんだだけ】という状態だった。
そんながさつな性格の文恵に【部屋の掃除をしろ】などと偉そうにいわれてムカッとこないはずがない。壮一は部屋の掃除をしろといわれるたびにいらつきに襲われた。
そんなある日、事件は起きた。学校から帰宅した壮一は、自分の部屋の中に異変が起きていることに気づく。机の上のライトスタンドの位置、本の位置、ゲーム機の位置などが微妙にずれていたのだ。
ひょっとして━━不信感に襲われた壮一は文恵にたずねた。
「……ねえ、かあさん、ひょっとしてオレの部屋を掃除かなにかした?」
すると文恵は困ったような表情でいった。
「したわよ!埃とかすんごい溜まってたし……」
その瞬間、壮一の中のわだかまりが爆発した。
「なんで人の部屋に勝手に入って、そんな勝手なことをするんだ!オレはそんなこと頼んだ覚えはないぜ!」
「いや、だって、埃が溜まってたから……」
そういう文恵から目をそむけ、壮一はかりかりした様子で部屋に戻っていった。
人の部屋のことをいう前に自分の部屋からきれいにすべきがさつ人間に、部屋に勝手に入られて掃除などというものをされてしまったのだ。このときの壮一の屈辱感は容易にはいいあらわせられないものだった。
そんな壮一は中学に入ってから成績がぐんぐん高まり、学年屈指の秀才として有名になった。
頭脳明晰な壮一にとって【ビデオの予約録画のやり方】を覚えることなど朝飯前以前の問題で、説明書を軽く読んだだけで1分ほどでできるようになった。
一方、文恵は━━40歳を過ぎてもビデオの予約録画がまるでできなかった。
聞くところによるとビデオの予約録画というものは、できない人は一生できないものらしい。1分でできるようになった壮一にとっては信じがたい、まさに【バカ】としかいいようがないことだった。
自分は1分でできるようになったというのに、母親は一生かかってもできない。この人は本当にオレの実の親なのだろうか?━━中学生になった壮一の胸に、しだいにこのような疑惑が渦巻くようになっていった。
きわめつけがカラオケ。器用な壮一は学業だけでなく、その長身をいかしてバスケットボール部でも活躍。また、歌や絵画などの芸術の才能にも秀で、学校では女子生徒たちの視線を独占していた。
そんなある日、壮一は家族でカラオケに行った。壮一の歌に感動を爆発させる父と兄。が━━。
そんな中、ただひとりだけ、壮一のすばらしい美声に感動していない人物がいたのだ。文恵である。彼女はカラオケ終了後、『え?なにかあったの?』という感じで、非凡な歌の才能を持つ壮一に感激する父と兄を不思議がっていた。
この頃から壮一は文恵のことを【かあさん】とは呼ばなくなっていった……。