リッチエンジェの宿
リッチエンジェの街は割と栄えていて、市場が何箇所かあるし、もちろん宿も数軒ある。王都フェニカリデ・グランデジアに入る前に身支度を整える街と言われ、衣装を扱う店も多かった。
騎乗したまま大通りを抜ける。まずは今夜の宿を決めておきたい。
大通りには立派な宿が立ち並んでいる。貴族や豪商が王都に行く前にでも使うのだろう。
リオネンデが今日、王都を出てベルグへ向かったことを知る者は多い。暗殺を企てる者がいたとしたら、貴族が使う宿を張れと命じそうだ。そうでなくともそんな宿なら、地方から出てきた、または帰ってきた上級貴族にバッタリ出くわさないとも限らない。
かと言って安宿もダメだ。簡単に忍び込めるうえ、そんな宿にどう見ても貴族の若者が入って行けば、盗賊に襲ってくださいと言っているようなものだ。
「こんなところでしょうか」
サシーニャが馬を停めると、目の前の宿を見てリオネンデが尋ねた。
「馬はどうする? 宿の前の馬止めにつなぐのか?」
それでは簡単に盗まれるぞ、と言外に言っている。
「裏に厩があるものかと」
サシーニャの声に、護衛の一人が馬を降り、宿の中へと入っていった。厩の所在と部屋の空き状況を尋ねに行ったのだろう。
程なく戻りサシーニャに頷く。
「では、ここにいたしましょう――」
サシーニャが馬を降り、リオネンデもそれに倣う。ペリオデラも馬を降り、残りの四人が馬を牽いて裏手に消えた。
「いらせられませ」
どこの宿も似たようなもんだが、入り口の正面奥に受付が設えられ、右にある階段で二階の客室に行けるようになっている。そして左は、宿泊客でなくても利用できる飯屋だ。
昼の時間帯の割には飯屋の客は多い。旅の者なのか、地元の者か、酔客もいる。
「七人だが、部屋は三部屋欲しい? そうなると三人部屋が三部屋、都合九人分の代金を払って貰うがいいのかね?」
ふくよかな宿の主人が疑わしげな眼を向ける。貴族がこんな宿になんの用だとでも言いたそうだ。そうでなければ、貴族に相応しい宿に泊まらないのは金がないからだと考え、代金を踏み倒されやしないか危ぶんでいる、そんなところだ。
サシーニャが半ば顔を隠していた襟巻を外して宿の主人に答える。そうしなければ声がくぐもってしまうし、喋りずらい。が、俯き加減で、なるべく顔を見られるのを避けている。
「それで構わない。宿賃は前払いしようか?」
襟巻は馬が起こす砂ぼこりを吸い込まないよう、鼻と口を塞ぐためのもの、さらにフードを使うのが馬を使用するときの一般的な旅装束だ。
サシーニャの顔を見て、宿の主人の態度が変わる。
「これは、失礼いたしました……こちらがお部屋の鍵でございます。付け札に部屋番号が書かれておりますので、そちらの階段をお使いください。すぐにお茶でもお持ちいたしましょう」
カウンターに置かれた鍵をサシーニャが黙って受け取り、階段に向かう。
部屋は横並びで、廊下の対面は都合よくただの壁だ。ペリオデラに部屋の中を検めさせてから、リオネンデを真ん中の部屋に入らせてから、ペリオデラは馬を繋ぎに行った四人を迎えに階下へ、サシーニャはリオネンデを護るべく部屋の外、ドアの前に立った。
四人の護衛を連れてペリオデラが戻ると、入り口に近いほうに三人、遠いほうの部屋に二人と振り分け、サシーニャはリオネンデと同じ部屋に入った。
「窓辺に立たれるのは不用心かと……」
部屋に入るなり、サシーニャがボヤく。
チラリとサシーニャを見たものの、リオネンデに動く気配はない。サシーニャがリオネンデを押しやって、窓を閉めると御簾を降ろした。
「なぜ、宿の主人はサシーニャの顔を見て、態度を急変させたんだ?」
椅子に腰かけながらリオネンデが訊いた。
「さあね――おおかた、わたしを貴族の秘密の愛人とでも思ったのでしょうよ。秘密だから貴族用の宿には一緒に泊まれない……で、愛人だけ護衛を付けてこっちの宿に泊まらせた。あとでその貴族がお忍びで来ると、宿の主は期待しているかもしれませんね。口止め料が貰えると見込んで」
なるほど、とリオネンデが笑う。
「美しい顔が役に立ったな」
サシーニャが露骨に嫌な顔をする。
「見た目で判断するヤツは、必ず痛い目を見る。と、わたしは思いますがね」
そんなサシーニャの不機嫌を気にする様子もなくリオネンデが問う。
「夕食はどうするつもりだ?」
「入り口の左に食堂がありました。ご覧になったでしょう? あそこで済ませようと思っています」
「せっかくリッチエンジェに来たのだから、少しは街を歩いてみたいものだ」
「物見遊山に来たのではありません」
「ならば、一人でこっそり抜け出し――」
「あぁ、もう! そんな面倒なことはしないでください! 判りました、適当な飯屋を探させましょう」
サシーニャが部屋を出て行き、すぐ戻る。それと同時に誰かが廊下を通り、階下へ降りる足音がした。ペリオデラの部下の誰かに、街に偵察に行かせたのだろう。
「明日の朝は、この宿の食堂で我慢していただきます。宿の主に用意しろと伝えるよう言っておきましたからね」
「毒を仕込まれる危険はないか?」
「宿の主人は我らが王の一行とは気が付いておりません。我らの後、宿に入った者もおりません――念のため、誰かに先に食べさせましょう」
「サシーニャ、それではその誰かは、俺のために命を落としかねない」
サシーニャが横目でリオネンデを見る。
「そんな事もあると王位を継承する際、お覚悟召されたのでは?――片割れさまをあなたの代わりに王座に就かせるわけにはいきません。グランデジアにあなたは必要なのです。お忘れなきよう願います」
反論できずにリオネンデが、そっぽを向く。
「なに、わたしが毒など入れさせません。あとで一細工しておきましょう」
と、階段を昇ってくる気配にサシーニャが緊張する。ペリオデラの部下ではないのか、と言うリオネンデに『違います』とサシーニャが声を潜める。
近づく者は、隣の部屋のドアを叩いた。
「お茶でございます」
女の声だ。隣の部屋のドアが開く。カチャカチャと食器がぶつかる音がして、ドアが閉まる。
足音が、今度はリオネンデたちの部屋の前で止まる。
「お茶でございます」
「こちらの分は奥の部屋にまとめて渡しておいて欲しい。今、この部屋は野暮用の最中だ」
サシーニャの返答に、『かしこまりました』と足音が奥へと進む。
同じやり取りがあり、奥の部屋に二揃えの茶器が運び込まれたようだ――
いいから同じテーブルにつけと、リオネンデが我儘を言う。ペリオデラ以下、護衛は王との臨席がまだ許されていない者ばかりだ。
ペリオデラの部下が探してきた飯屋は、宿の飯屋より少しはマシだったが、とても貴族向けとは言い難い。庶民の中に紛れ込んだ、貴族の若者たちはただでさえ目立ってしまう。そこへリオネンデが同じテーブルがいいと言い出した。できないと言えばリオネンデが騒ぐだろう。
サシーニャが渋々了承し、テーブルをくっ付けて席を作るぞ、と飯屋に声を掛ける。勝手にしな、と奥から声がした。
「なににする?」
七人が椅子に座ると、飯屋の男がすぐにやってきて注文を取り始めた。
「なにができる?」
「なんでも! 肉を焼いたもの、煮たもの、茹でたもの、蒸したもの、揚げたもの」
「ふむ……では適当に六人分」
「あんたたちは七人だ。もう一人前注文してもらおう」
「果物はないか? 野菜でもいい」
「果物? あまり美味くもないブドウくらいしかこの街にはないよ……誰か、ウサギなのか?」
飯屋の男がガハハと笑う。自分では面白い冗談だと思ったのだろう。
「では、ブドウと野菜類を盛ったものを」
「酒はどうする? ブドウの酒しかないが。あとはヤシの果汁かレモン水だ。レモン水は高いぞ」
「ではレモン水を人数分」
「ほいさ、すぐに用意する――待ってな」
男は奥に消えた。
飯屋を見渡すと、四・五人連れの客が多い。ざっと数えて全部で四十人程度か。中には一人で静かに飲んでいる者もいるが、たいてい声高に話していて騒がしい。酔っぱらっているのだろう。
レモン水の杯が配られ、大皿に盛られた料理がテーブルに置かれる。取り皿も配られ、いくつかの手洗い水も用意された。
大皿の料理は、飯屋が気を利かせたのだろう、数種類の料理があちこちに分散されて盛りつけられ、どの席からも同じように取り分ける事ができるようになっていた。ブドウや瓜などの野菜も同じように配置してある。
「さぁ、食べよう」
リオネンデがまずは瓜に手を伸ばす。切って串に刺してある。ふんだんに食材がある王宮と違い、ここでは瓜も切って供される。肉も一切れがグッと小さい。
「どうした、俺に遠慮はいらぬ、さっさと食え」
畏まって、料理に手を伸ばさない護衛たちをリオネンデが笑う。
「いただきなさい。ネオが食べているのに、あなたたちが食べなければ周囲が不審に思いますよ」
サシーニャの言葉に慌てて護衛たちも料理に手を伸ばし始めた。
王宮の外でリオネンデを呼ぶときは『ネオ』と呼ぶよう、出る前に打ち合わせている。顔を知らなくても、さすがにリオネンデの名を知らぬ者はいないはずだ。身分が知られるのを避けるための配慮だ。
やっと食事を始めた護衛たちの顔を眺めてリオネンデが、
「ペリオデラ以外は、名を知らない者たちだな」
と呟く。
「ペリオデラが自分の部下の中から選りすぐってきたのです」
瓜を頬張りながらサシーニャが答える。埃避けの襟巻は外しているが、フードはしたままだ。
「ペリオデラを選んだのはジャッシフか?」
「さようで」
「そうか……」
「何か不都合でも?」
サシーニャの問いに蒼褪めるのはペリオデラだ。持っていた揚げ肉を取り落としてしまった――




