第二十話:inフォルジェ王国王立ホール
アレクシスの張り上げる声が、天井の梁に反響した。
「……私は、選ばれなかった。私の愛は、まだここでは真に理解されていないようだ……」
悲しみをかみ殺すような低い調子。
しかし言い終えた瞬間、目の奥に燃えた決意が、聴衆の胸を静かに打った。
「だからこそ、私は旅に出る。私の料理を分かち合える仲間を、世界のどこかで探すために」
言葉は控えめでも重く、会場を包んだ熱気は一拍遅れて凍りつく。
ただの敗北宣言のはずが、なぜか世界行脚宣言にすり替わり、私は舞台袖で固まる。まさか私のせいで放浪を決めるとは。栄光の漫画家人生は、急カーブを切ったまま戻ってこない。
しかしイベントは待ってくれない。
私は声が裏返る前に自ら叫んだ。
「えー……それでは! 本日の署名会&指南書即売会、ただいまより開幕です!」
宣言した瞬間、観客の視線が一斉にステージへ戻り、どっと前列へ雪崩れ込む。
長机を挟み、アレクシスと私が座る形で即席のサイン台が整えられた。こういう時鈴村君は妙に手際が良い。捌きなれているというか。
また、アレクシスも謎宣言直後とは思えない切り替えで、積み上がった本を優雅に手に取る。
「ようこそ。これは私と絵師アヤノ殿が紡いだ愛の料理指南書だ。味わうだけでなく、行間に秘められた物語も楽しんでほしい」
端正な笑みと落ち着いた口調。
さっきの檄とは別人のようだが、むしろ品の良さが際立つ。女性客の頬が緩み、男性客まで背筋を伸ばす。
列の先頭で少女が身を乗り出した。
「王子殿下も、自分で料理もなさるんですか?」
「もちろんだ。愛は手を動かしてこそ深まる。まずは塩加減を恐れぬことから始めよう」
言葉の端にだけ小さく熱が宿る。
絵に描いたような王子様対応に、黄色い歓声が弾けた。
その背後、会計係として駆け付けたシリルが青い顔をし鈴村君の帳簿を覗き込んでいた。
「スズムラ、こちらの貨幣の桁は大きいので繰り上がりに注意をしてくださいね……」
「わかってますって! 二重チェックしますから、横で呪文みたいに唱えないでください!」
漫才のような押し問答に客が笑う。
硬かった空気が、じわじわと柔らかくほぐれていった。
私の前にも、次々と署名を求めて指南書が差し出される。
「アヤノ様『攻めの肉じゃが』の続編はありますか?」
「『受けのオムライス』は涙なしでは読めませんでした!」
いや、それただのお料理本……。行間読みすぎでしょ。
フォルジェ王国民は娯楽に飢えているらしく、妄想がはかどりまくっているようだ。
だがしかし、ペンだこの出来た指先には確かな充実感がある。
こうして直接届けられる読者の声が、単行本よりも重い現実として私の心を打つ。
ふと脇を見ると、アレクシスが子どもに身を屈め、優しく本を手渡していた。
「君の小さな手でも、この世界は変えられる。料理はその第一歩だ」
熱烈なファンレターよりも真っすぐな一言。
子どもは頷き、胸に本を抱えた。
私は自分の作品が、知らない場所で別の命を得ていることを実感し、目頭がじんと熱くなる。
途中、鈴村君が釣り銭を落とし、コインがカランと床を転がった。
「す、すみません! こちらの通貨、滑りやすいんです! ギザギザつけたほうが良いですよ!」
「焦らないでください、計算より心を落ち着かせる方が先ですよ」
榊原の渋い助言に客席が笑った。鈴村君は真っ赤になりながらも作業を再開し、列は乱れず進む。
昼を過ぎた頃、用意していた指南書はほぼ完売。
最後尾の客に羽ペンで署名を書き終えた私は、深い息を吐いた。もう温泉でも浸かってのんびりしたいよ。
会場の片づけが始まる中、アレクシスがそっと近づいてきた。
「本日の賑わいを見て、私の旅は少し延期だと思った。ここで得た声を、もう少し胸に留めておきたい」
彼のまなざしは穏やかで、さっきの炎が内に沈んでいる。
「理解者を探す旅は続く。しかし急ぐ必要はないのだろう。愛の料理も、じっくり煮込むほど深い味になるから」
控えめな語尾に、先ほどより強い決意が滲んでいた。
「そうですね。焦げつかないよう、火加減には気をつけて」
「火加減……覚えておこう」
短い会話の後、彼は机の端を拭き、鈴村君をねぎらい、シリルに礼を述べた。
その動作ひとつひとつに、王族として身に付いた礼節が漂う。
熱狂の余韻が漂う会場で、積み上げられた空の木箱に榊原が腕を伸ばした。
「おかげさまで黒字でございます」
「鈴村君もシリルさんもありがとう」
「お役に立てて光栄です! あの、妹が絵師アヤノ様のご署名を欲しがっておりまして、良ければご一筆いただけますか?」
もじもじとしながら、シリルが「これ経費じゃないですから! 自費ですから!」と背に隠していた冊子を私に手渡す。
榊原は盛大にため息を吐き、鈴村君は「僕はこの似姿絵にサインください! すごいホロですよね? これも魔法なんですか?」と能天気に言う。
私はひどく充足感に包まれていて、ふわふわした気持ちのまま、言われるがまま羽ペンを躍らせる。
出口の近くで、アレクシスが最後に振り返った。
「私の旅の道標は、君の絵に託された物語だ。次の章を共に紡げるよう、私も腕を磨いておく」
彼は微笑む――驚くほど静かな笑みだった。
感情を抑え、言葉を選び、しかし核心だけは揺るがせない。
その姿に、観客のいない会場でも拍手を送りたくなった。
こうして波乱の一日は幕を閉じた。
異世界より参った絵師と、王位継承権を持つ王子。大賢者に担当編集者、護衛。腕を競った料理人たちと沢山のお客さん。
誰一人欠けても成り立たなかった一日が、確かにそこにあった。
家に帰ったら、まずはなにしようか。
頭のプロット帳は飽和寸前。
――旅立ちを延期した王子が、次はどんなレシピで世界を驚かせるのか。
物語はまだ、泡立つ鍋のように音を立てている。




