5-1
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「騒がしい、静かにせぬか!」
耳をつんざく声と共に、二人の横に巨大で恐ろしい顔が迫っていたのだ。
耳を押さえながらちらと見ると、グラファイトから殺気のオーラが見えそうな程で、そして威嚇するような唸り声を発している。
今までの怒りとは全く違うと感じた。
今日はよっぽど機嫌が悪かったのだろう。
「うぅ……。」
僕はその威圧感に思わず一歩退いたが、残念なことに、長官は高ぶった感情をグラファイトにぶつけてしまっていた。
「化け物は黙れ!」
「我を化け物にしたのは貴様らだ。」
グラファイトの眼は血走り、今にも飛びかかりそうな、今まで見たことのない程の殺気を漂わせている。
もう慣れたはずの体の震えがまたやってきた。
「くそぅ、化け物が暴れなければ何人も部下が死ぬことはなかった。そのせいで責任問題を問われて、私が軍部大臣になれるチャンスを逃したんだ!」
それを聞いたグラファイトは右前脚を上げ、そして長官の上に落とした。
「うがっ」という声と共に長官は地面の上に仰向けに倒されてしまう。
「止めて、グラファイト!」
僕はどうにかしないと、と焦った。
グラファイトは一瞬動作が停止した後、鋭い目つきで僕を見下ろした。
「何故だ。」
「だって、その人は長官なんだよ。偉い人なんだ、だから――」
「だから、どうした。」
グラファイトはいつも以上に怒っているらしい。荒々しく鼻息を吐いた。
「身分を決めるなど下等生物の戯言だ。餌の身分など、我には全く関係ない。」
「でも……」
長官は巨大な前脚の下で必死の様子で暴れていたが、グラファイトが顔を近づけると、その体が硬直してしまっていた。
そしてにやりとグラファイトの口角が上がった、次の瞬間、バキンと音がした。
「うがぁっ!……ぁっ……」
骨が折れたのだ、としばらくしてから気付いた。
グラファイトが少し力を入れるだけで、いや、ほとんど力を入れていないように見えたのに、人間の骨はこんなにも簡単に折れてしまう物なのか、僕は疑った。
グラファイトは尚も口許を緩ませ、ククッと笑いを漏らす。
僕は助けに入りたかった、が、体がどうしても動かせない。
ただただ震えていることしかできない。
そうしている間に、グラファイトは大きく口を開けた。
口からはだらりと涎が垂れて、長官を汚していた。
「我の糧となれることを喜ぶが良い。」
「ひぁ、止め――」
既に恐怖に支配されていた長官は慌てて叫ぶも、すぐにその声はくもってしまった。
僕は思わず目を逸らした。
しかしグラファイトはそれを許さなかった。
「どうした、軟弱者。長官とやらが我に虐められているのだぞ、助けなくて良いのか?」
気付くと僕も長官と同じ体勢に、前足に押し倒され、仰向けの状態で。さらにグラファイトの口元が近づいてくる。
あの酷い口臭と、そして鋭く輝く牙の隙間から、長官の体が見え、呻く声が漏れてくる。
僕は思わず身震いをした。
「ククク、旨い餌を食える上にお前の脅える顔を見れるとは、一石二鳥だな。」
グラファイトの口元が吊り上がった。
くちゃ……くちゃ……
グラファイトはずっとそんな汚らしい音を立てて、ずっと長官を味わっていた。
耳につくその音と、時折隙間から見える長官の顔は、僕の心を少しずつ削り取っていく。
僕の首元にべちょりと涎が垂れた。
生温かく粘っこいその感触は気持ち悪い。
幸いなことは、長官をその鋭く巨大な牙で噛み砕かないことだ。
噛み砕きでもしたら……
「長官……出してくれるよね……」
僕は恐る恐る尋ねた。
「愚問だな。お前は一度喰った食い物を出すのか。」
グラファイトは大儀そうに答えた。
そして、前脚の圧迫から解放された。が、僕は恐怖の余り、動くことが出来なかった。
「それは無いけど……それとこれとは別だよ。」
フン、とグラファイトは鼻息を吐いた。
と大儀そうにしたのも束の間、今度は僕の右手を掴み、そして宙ぶらりんの状態で持ち上げられた。
「な、何?」
「今からこ奴を飲み込むからな、お前も体で感じるが良い。」
そう言ったグラファイトは頭を擡げた。そして、頭を上に向ける。
「待って、食べないで、」
その言葉も聞こえていないふりをされ、そしてとうとう、
ング……
あぁ、と絶望に感傷する暇もなく、僕の手は喉をゆっくりと下っていく膨らみに無理矢理当てられた。
長官が今、この奥で喉の狭い筒の中を通り抜けているのだと思うと、それを防げなかったと思うと、体中から力が抜き取られるような感覚に陥ってしまう。
膨らみが下るのに併せて僕の手は無理矢理それに合わせるように下へと動かされる。
しなやかな鱗の向こうで、人間が一人、奈落の胃へと落ちる。
耐えきれず涙が漏れ出ながらも上を見ると、グラファイトは眼を閉じて、そして口元を吊り上げて、幸福感に浸っているようだった。
人間を飲み込む感触が良いのだろうか。
僕にはよく分からないが、それでも長官を飲み込んだ邪竜に、真っ向から反発できなかった。
――――グラファイトが幸せならば……
いやいや、と首を振った。
僕は何を考えているんだ。
長官が今、この手の向こうで死に逝こうとしているのに……。
ジュルリ……
グラファイトが舌なめずりをする音で、ふと我に返った。
僕の足は既に地に着いていた。
そして僕の手を握っていたグラファイトの前脚は、いつの間にかお腹を優しくさすっていた。
とても満足そうだ。
グラファイトは一つ大きなゲップをして、舌を嘗めずった。
そこに、足音が聞こえてきた。
思わず檻まで駆け寄ると、そこに教官が立っていた。早く知らせないと、
「き、教官……」
僕はとりあえず、今の状況を説明しようと焦った。
「その、言いにくいのだが、実はな、その鍵を――」
「あの、長官がグラファイトのお腹の中に……」
「え、何だって?」
「長官がグラファイトに食べられちゃったんです!」
教官は思わずグラファイトの方を見た。
僕も振り返ってみると、まだ満足そうに眼を細めて腹を見つめていた。
「な、なんて事だ、誰か呼んで……。」
「それは無駄だ。」
野太い声が響く。グラファイトだった。
グラファイトは僕を素早く尻尾で巻き付けると、自らの腹へと引き寄せた。
一気に抑えつけられて、呼吸が一瞬止まってしまいそうになる。
「どうだ、聞こえるだろう? 餌が叫びながら溶かされる音がな。」
確かに、聞き慣れた長官の「うぁっ、痛い、助けてくれ!」と叫ぶ声が聞こえてくる。
更に、ボコボコと蹴る感触がまざまざと伝わってきて、背筋が凍った。
それはだんだんと小さくなり……とうとう静寂の中に消えていった。
僕はへなへなとその場に崩れ落ちた。
檻の向こうで、教官はあたふたとしていた。
戸惑う二人の様子を邪悪な笑みをもって、邪竜は笑っていた。