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実家の釣り船屋が潰れそうなので笑って受付していたら、葉山の常連さんに本気で愛されました  作者: ちょこまろ


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第1話 隔週土曜、無口な常連さんが来る

城ヶ島で、潰れかけた実家の釣り船屋を守るため、今日も笑って受付に立つ澪。


そんな彼女には、少しだけ楽しみにしている土曜日があります。


第二土曜と第四土曜。


葉山から、無口な常連客・黒瀬航平がやって来る日です。


まだこれは、恋ではない。

 城ヶ島の朝は、まだ暗いうちから潮の匂いがする。


 港のコンクリートは夜露で少し濡れていて、軽トラックのタイヤが小さく水をはねる。

 岸壁にはクーラーボックスを抱えたお客さんが集まり、まだ眠そうな顔で空を見上げている。


 私は受付小屋の鍵を開け、蛍光灯をつけた。


 古い木のカウンター。

 手書きの料金表。

 父が雑に貼った釣果写真。

 少し錆びたストーブ。


 ここが、私の職場だ。


 私は相沢澪、二十八歳。

 神奈川県三浦市、城ヶ島で、実家の釣り船屋「しおかぜ丸」の受付をしている。


 受付、と言ってもやることは多い。


 予約の電話を受ける。

 会計をする。

 貸し竿の確認をする。

 氷を出す。

 釣果写真を撮る。

 SNSを更新する。

 初めてのお客さんに、集合場所や船酔いのことを説明する。


 父は船長だ。

 腕はいい。

 でも、接客はかなり雑だ。


「そこ置くな」

「早く乗れ」

「海見ろ、海」


 言葉が短い。

 声が大きい。

 初めて来たお客さんは、だいたい一度びくっとする。


 父に悪気はない。

 むしろ、面倒見はいい。

 ただ、優しさの出し方が完全に昭和の漁師なのだ。


 だから私が笑う。


「おはようございます」

「初めてでも大丈夫ですよ」

「船長、声は大きいですけど、怒っているわけじゃないので」

「船酔いが心配でしたら、出船前にお薬を飲んでくださいね」


 そうやって笑っていると、父は後ろで不満そうに鼻を鳴らす。


「余計なこと言うな」

「言わないと怖がられるの」

「釣り船なんて怖いくらいでちょうどいい」

「今どき、それじゃ予約増えないから」


 父は黙る。


 最近、父はその言葉に弱い。


 予約が増えない。


 それは、うちにとって一番痛い言葉だった。


 しおかぜ丸は祖父の代から続く釣り船屋だ。

 昔は週末になれば、常連さんでいっぱいだったらしい。


 けれど、今は違う。


 常連さんは年を取った。

 若い人は釣り船に乗る前にネットで調べる。

 そして、うちの古いホームページを見て、たぶん少し不安になる。


 料金表は見づらい。

 写真は暗い。

 予約方法は電話だけ。

 初心者向けの説明もない。


 私だって、わかっている。


 でも、どう直せばいいのかまでは、わからない。


 私は予約表を開いた。


 第二土曜日。

 午前船。

 六名。


 その中に、いつもの名前がある。


 黒瀬航平。


 第二土曜日と第四土曜日。

 朝五時半。

 一名。


 それだけ。


 それだけなのに、私はその名前を見つけると、少しだけ呼吸が楽になる。


 黒瀬航平さん、四十歳。


 葉山に住んでいて、海の見える家でWebの個人会社をしているらしい。

 隔週土曜に、城ヶ島まで釣りに来る。


 無口な人だ。

 釣果を自慢しない。

 釣れなかった日も機嫌を悪くしない。

 船長である父の荒い言葉にも、眉ひとつ動かさない。


 初めて来た日から、ずっと静かだった。


 でも、なぜか印象に残った。


 声が低くて落ち着いているからか。

 会計の時に小銭をきれいに出すからか。

 それとも、私の「ありがとうございました」に、必ず一度ちゃんと目を見て返してくれるからか。


 理由はわからない。


 わからないけれど、第二土曜日と第四土曜日が近づくと、私は予約表を確認する回数が増える。


 今日は、黒瀬さんが来る日。


 私はカウンターの下に置いてある小さな鏡を見た。


 寝ぐせはない。

 前髪も大丈夫。

 口紅は、ほんの少しだけ。


 受付だし。

 お客さんを迎える仕事だし。

 身だしなみは大事だし。


 そう自分に言い訳しながら、私は薄い色のリップを塗り直した。


 外で車の音がした。


 白いSUVが駐車場に入ってくる。


 私は反射的に背筋を伸ばした。


 運転席から降りてきたのは、黒瀬さんだった。


 黒い釣り用のジャケット。

 整った道具。

 余計な荷物のない立ち姿。


 まだ夜明け前の港で、その人だけ少し静かな空気をまとっている。


 黒瀬さんは受付小屋の前に立った。


「おはようございます」


「おはようございます、黒瀬さん。今日も一名ですね」


「はい」


「出船は六時です。今日は少し風がありますけど、予定通り出ます」


「わかりました」


 会話は短い。

 いつも通り。


 でも、彼の視線が私の顔で一瞬止まった。


「寝不足ですか」


「え?」


「少し、声が掠れています」


 胸が跳ねた。


 どうして気づくの。


「昨日、予約の確認で少し遅くなっただけです。大丈夫ですよ」


「大丈夫な人は、あまり大丈夫と急いで言いません」


「黒瀬さん、朝から鋭いですね」


「すみません。余計でした」


「いえ」


 私は笑った。


 笑ったけれど、心臓は落ち着かなかった。


 お客さんに言われる「大丈夫?」とは違う。

 黒瀬さんの声は、私を受付係としてではなく、ひとりの人間として見ているみたいだった。


 それが困る。


 困るのに、嬉しい。


 その時、別のお客さんが受付に来た。


「お姉さん、氷どこ? あと、受付のお姉さんも一緒に写ってよ。こういう方が映えるからさ」


 たぶん悪気はない。

 軽い冗談のつもりなのだと思う。


 私はいつもの受付用の笑顔を作った。


「氷はこちらです。写真は釣果写真だけでお願いしますね」


「えー、宣伝になると思うけど」


「すみません」


 笑って流そうとした時だった。


「受付中です」


 低い声が、隣から落ちた。


 黒瀬さんだった。


 彼は怒鳴っていない。

 声も荒げていない。


 でも、その場の空気がすっと変わった。


「困らせないでください」


 お客さんは少し驚いた顔をしてから、気まずそうに笑った。


「あ、すみません。冗談っす」


「氷はあちらです」


 黒瀬さんは短く言った。


 お客さんは小さく頭を下げて、氷の方へ向かった。


 私はしばらく言葉が出なかった。


「すみません。出すぎました」


「いえ……助かりました」


「相沢さんは、笑って流すので」


「受付ですから」


「受付でも、嫌なことは嫌でいいと思います」


 胸の奥が、また熱くなった。


 そう言ってくれる人は、あまりいない。


 私はこの港で、ずっと笑う役をしてきた。

 父の荒さも、お客さんの冗談も、経営の不安も、笑って受け止める役。


 でも、黒瀬さんは、私が笑って流したものに気づく。


「ありがとうございます」


 そう言うと、黒瀬さんはほんの少し目を細めた。


「いえ」


 それだけ言って、船の方へ歩いていく。


 その背中を見ながら、私は思った。


 だめだ。


 これはもう、ただの常連さんとして見るには近すぎる。


 出船の時間になった。


 父が桟橋で大声を出す。


「おーい、乗るなら早く乗れ。潮が待ってくれねえぞ」


 お客さんたちが笑いながら船へ向かう。

 黒瀬さんもその中にいた。


 船のエンジンがかかる。

 低い音が港に響く。


 私は岸壁に立った。


「いってらっしゃい。お気をつけて」


 船がゆっくり離れていく。


 朝焼けの光が海面に伸びる。


 黒瀬さんは船尾近くに立っていた。

 こちらを見た気がした。


 私は小さく会釈した。


 彼も、ほんの少し頭を下げた。


 それだけで、胸の奥が温かくなる。


 午前船が出た後、受付小屋は急に静かになる。


 私は掃除をして、予約の確認をして、SNS用の写真を整理した。


 でも、何度も外を見てしまう。


 沖に出た船は、もう見えない。

 それでも見てしまう。


 黒瀬さんが乗っている船を、探してしまう。


 私はため息をついた。


「何やってるんだろ、私」


 ただのお客さん。

 隔週で来る常連さん。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 そう思おうとするほど、朝の言葉が蘇る。


 寝不足ですか。

 困らせないでください。

 受付でも、嫌なことは嫌でいいと思います。


 こんなふうに言われたら、意識するなという方が難しい。


 昼前、船が戻ってきた。


 港にお客さんたちの声が広がる。


「今日はまあまあだな」

「アジいいサイズだよ」

「写真撮ってよ」


 父が叫ぶ。


「写真は澪に頼め。俺は魚の顔しかわからん」


 私はカメラを持って外へ出た。


「はい、撮りますね。魚を少し前に出してください。そうです、いいですね」


 釣果写真を撮る。

 笑顔を引き出す。

 魚が大きく見える角度を探す。


 黒瀬さんは、少し離れたところでクーラーボックスを閉じていた。


「黒瀬さん、今日はどうでした?」


「アジが少しと、カサゴが一匹」


「写真、撮りますか?」


「いえ。大丈夫です」


「せっかく釣れたのに」


「食べる分だけなので」


 いつも通りの返事。


 でも、今日は少しだけ聞いてみたくなった。


「黒瀬さんって、釣果にあまりこだわらないですよね」


「釣れたら嬉しいです」


「でも、釣れなくても機嫌悪くならない」


「海に来られれば、それで半分は目的を果たしています」


「残り半分は?」


 黒瀬さんは、すぐには答えなかった。


 私を見る。

 それから、少しだけ視線を逸らした。


「……港の空気を吸うことです」


「港の空気?」


「はい」


 それだけ。


 けれど今、一瞬だけ、答えを変えたように見えた。


 気のせいだろうか。


 会計の時、黒瀬さんはカウンターに小さな紙袋を置いた。


「これ」


「何ですか?」


「飴です。船の上で食べようと思って買ったんですが、食べませんでした」


「いただいていいんですか?」


「はい。寝不足の人には糖分が必要かと」


「それ、医学的に合ってます?」


「たぶん、合っていません」


 真顔で言うので、笑ってしまった。


 笑った瞬間、黒瀬さんの表情が少しやわらかくなった。


「笑っている方がいいですね」


 私は息を止めた。


 軽い言葉ではなかった。

 褒め言葉というより、祈るような声だった。


「……黒瀬さんは、そういうことを急に言いますね」


「すみません」


「謝るなら言わないでください」


「それは難しいです」


「どうしてですか」


 黒瀬さんは、困ったように少しだけ笑った。


「思ったので」


 だめだ。


 胸がうるさい。


 私は紙袋を受け取りながら、視線を落とした。


「ありがとうございます」


「はい」


 黒瀬さんは車の方へ歩いていく。


 私はその背中を見ながら、思った。


 次に会えるのは、二週間後。


 その二週間を長いと思ってしまった時点で、もう私は戻れないのかもしれない。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


澪がずっと「受付だから」と笑って流してきたものを、黒瀬だけは見逃しませんでした。


寝不足も。


困っていることも。


無理に笑っていることも。


そして帰り際には、


「笑っている方がいいですね」


二週間に一度しか会わない、ただの常連さん。


……そのはずなのに。


次に会える二週間後を「長い」と思ってしまった時点で、澪の気持ちはもう少しだけ先へ進んでいるのかもしれません。


次話。


黒瀬がずっと見ていたのは、澪の笑顔だけではありません。

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