10.ふたりで選ぶ未来
「そんな方法があるの?」
思わず、といったように、イラがヒューイの肩へ飛びつく。
そうしてすぐに、まるで火傷でもしたかのように手を離した。
そのイラの手を、ヒューイが強く掴んだ。
「あるんだ。でもそれを教える前に、俺にはまだ伝えなくちゃいけないことがある」
首を傾げて話の続きを促すイラに、ヒューイは懺悔した。
「大伯母の目が、見えなくなった。その治療代が必要で、俺は父の遺産に目を付けた。父に嫌われていると信じていたのに。死んでしまったなら、もう時効だろうと。俺も苦しんだんだし、と。ライザの献身も知らずに、ただ雑誌や新聞で見聞きする醜聞だけで君を勝手に判断して。金目当ての女狐扱いして。申し訳なかった」
ヒューイが、ゆっくりと床へ膝をつく。
「なにをしているの?!」
慌てたイラが立ち上がらせようとするのを制して、ヒューイは続けた。
「君の残してくれたお金のお陰で、大伯母の目は光を取り戻せた。もう彼女に残された時間は長くはないだろうが、それでも暗闇の中で失意に陥ったまま過ごさせなくて済みました。感謝、します」
床に這いつくばるように。ヒューイが深く頭を下げた。
そのすぐ横でイラまで床に膝をついてオロオロしていた。
「そんなっ。いいのよ。私にとってのロダリックみたいなものでしょう? だったら、いいの。元々、ロダリックの為にロダリックの資産を増やしただけだもの。彼が逝ってしまった今、彼の忘れ形見の幸せのために使っただけじゃない。謝る必要なんて、ないわ」
「ありがとう、本当の君は、こんなにも強く、優しい女性だったんだな」
まるで憑りついていた悪いものが落ちたような気持ちで、呟いた。
しかし、イラにとっては不本意だったようだ。
「強いは余計じゃないかしら」
腕を組んで膨れている。しかし、その頬は赤く色づいている。
「そうかな。でも、俺にとって、ずっと年下なのに、君は強くて美しくて、眩しい」
「まぁ! 自分の個人研究室に呼び出して学生を口説くなんて。悪い助教ね」
くすくす笑ってみせたイラを見上げて、ヒューイは眩しそうに目を眇めた。
「さっきの話に戻ると、ロダリックの娘となる為にも、俺と、結婚してくれ、イラ・ボーン」
「!!!!!」
「俺と結婚すれば、また、ロダリックの娘になれる。今度は養女ではなくて息子の嫁としての娘だが」
「駄目よ。結婚は……お互いに、こ、恋とか想い合う気持ちがないと」
「気持ちなら、俺にあるから! 今の君に無くとも、イラ・ボーン、君を想う気持ちなら俺にある。好きになって貰えるように、努力もする。だから」
「嘘よ、そんな嘘はいらないの。聞きたくないわ」
「嘘じゃない! 最初は君のレポートの文字が綺麗だと思った事だった。その内容に感心して心に残った。その内、出席票の名前すら丁寧に書かれていることに気が付いて、感心は好感になった。廊下のゴミを拾ってゴミ箱に捨てるところを見て、さらに好感を持った。図書室で借りた本を返す時に読み終わった本を撫で微笑んでいるところに出くわした時には、完全に視線が吸い寄せられているのだと自覚した」
「そんなの……いつの話? 私は覚えてないわ!」
「自分にストーカー気質があったのかと落ち込んでいる時に、父は後妻と入籍したと大々的にお披露目して、君と大して変わらないライザの派手な様子に嫌悪した。そうして、葬儀で初めて会った君に、違和感を覚えたけれど、無理矢理押し込めて、最初の態度を貫いた。そして、葬儀が終わったら、君はどこにもいなくなっていた」
そこまで話すと、ヒューイはいったん言葉を切った。
苦し気に眉を寄せ、何度も、何度も口を開けては締めてを繰り返し、ようやく振り絞るように、続ける。
「弁護士から受けた遺産相続に関する説明で、君が、ライザが、イラ・ボーンだと。妻ではなく、養女となった君が、投資を行って、ロダリックの闘病生活を支えていたのだと、知って。俺は……きみに、なんということを言ってしまったのかと」
ヒューイの告解に、イラは手で顔を隠して早口で言った。
「そうね、そうだわね。混乱、するわよね。というか、あなたまだ混乱してるのよ。そうだわ。家に帰ってゆっくり寝るべきよ。それがいいわ。ひと晩寝れば、今言った事を後悔するはずよ。大丈夫。私も忘れて上げる」
ぺらぺらと、常にない様子で話を進めて終わりにしようとするイラに、ヒューイは慌ててその手を掴んで引き寄せた。
「混乱してるのは君だろう、イラ・ボーン。俺はもうひと晩どころかずっと考え続けた。その結論として、言っているんだ。どうか俺と結婚してくれ。そうして、ロダリック・ケ―リーの義理の娘となり、俺の妻として、俺に君を支えていく権利を与えて欲しい。君の隣に立つ権利が欲しいんだ」
イラは、いやいやをするようにただ何度もちいさく首を振るばかりだ。
けれどその顔は真っ赤で、ヒューイを見つめる瞳は潤んでいる。
「かわいい」
「ウソよ!」
「噓なものか。世界で一番かわいい、イラ」
「わたしのこと、女狐って言ってたもの。騙されないわ」
「騙す? 何の為に?」
「……男は女をそうやって騙すのよ。おかあさんはいっぱい騙されてた」
「女だって男を騙す。俺はウチの大学にライザが通っていることも、成績優秀者として表彰したことだって知らずにいた」
「……だって」
「なに?」
「だって……だって、好きになったのは、私の方が先なのに!」
「君が、俺を!?」
「そうよ。ディアだって、ロダリックにだって相談してたのに! 酷いと思わない? 病床のロダリックが何度も『君をひとり残していくのが心残りだ』っていうから。『実は大学で教鞭を取っているボット・リット助教が気になってる』って。ちゃんと教えたのに! 弁護士が知ってたのだもの。ディアだってきっとボット・リット助教があなただって知ってたのよ!」
あの会話を交わした際に、ロダリックの瞳がイラには瞬いて見えたのは気のせいではなかったのだ。
『へぇ。伝手を辿れば、婚約だってさせてあげられると思うよ』
『要らないわ。大体、世間は私をディアのお嫁さんだって思ってるのよ。それなのに、無理でしょ』
『イラとして紹介するだけなら?』
『要らないから! す、好きになって貰うなら、もっと私自身を見て欲しいの!』
イラの言葉に、満足そうな顔をして口出ししない約束を取り付けたけれど、あの時、受け入れていたならば親子は生きている内に和解できたのかもしれない。
しかし、思い出すだけでイラは後悔とそしてなにより親に対して、その実の息子への想いを打ち明けていたのだという事実に、のたうち回りたくなる。
「それって、最高だな」
「どこがよ!」
「父は、君の心に、俺が住んでてもいいって思ってくれてたって事だろう? ハニーの心の支えになるかもしれない、未来の恋人として。もしかしたら、夫となるかもしれない存在として、さ」
「ヒューイ。あなたはもっと、世界を斜に構えて見る人だと思っていたわ」
「君が俺を楽観的な男にしたのさ。父への誤解を解いてくれた。全部君のお陰だ、イラ・ボーン。愛している」
イラの細い腰を掴んで抱き上げたヒューイが、彼女を自身の膝へと下ろす。
すぐ近くで見上げてくるヒューイの瞳に映り込んだ自分の顔が赤いことに気が付いて、イラは顔を逸らした。
「もうっ。もう、本当に。あなたったら勝手ね!」
「あはは。愛してるよ、イラ。ケーリー家のろくでもない男共に、愛を運んできてくれた人。さぁ、返事は?」
強引に。両手でイラの頬を包んだヒューイが視線を合わせて問い掛ける。
その瞳の甘さに、イラが叫んだ。
「少しは黙りなさいよ、ヒューイ・ケーリー!」
ふくれっ面をして、ヒューイの雑に結ばれたネクタイを掴んで引き寄せたと思うと、その唇を、イラのそれで、塞ぐ。
たっぷりと時間を掛けて。
立場の違いから誤解し合っていたお互いの、心が深く溶け合うように。
「どう答えたらディアが一番喜んでくれるか、今考えるから。ちょっと待ってて」
稀代の才子ロダリック・ケ―リーは、その投資の成功率の高さに、『彼は未来さえ見通せる」といわれたという。
その彼が、天国で笑ってる気がした。
お付き合いありがとうございました。