奴隷解放(3)
子どもたちに貰った野花が三日と持たずに枯れ始めた頃、アイラは相変わらず宿に引きこもっていた。
宿の主人やアンナは親切だし、ごはんも美味しいし、部屋の掃除もしてくれるし、ここは居心地がいいのだ。
アイラを探しているはずの王都の騎士や、アイラが恐れているこの街の領主グレイストーン伯爵は時々街に姿を現しているようだったが、引きこもっているおかげで彼らに見つかる事はなかった。
そして今日は何やら外が騒がしい。
アイラたちが泊まっている部屋からは裏庭しか見えないので、一階に降りて食堂の窓から外を見てみる。
「何だ?」
宿の前の大通りを、たくさんの人々が行進していた。
中には『奴隷制度廃止!』と書いた旗を持っている人もいる。
「俺たちは自由だ!」
「身分の差なんて関係ない!」
行進している人たちの表情は、みんな明るかった。
「奴隷たちでしょうか」
アイラの隣で窓の外を覗いてルルが言う。
「奴隷制度の廃止が決まって、喜びの行進をしているみたいですね」
行進している者のうち、半分くらいは首の後ろに奴隷の印があったが、もう半分の人にはなかった。彼らは奴隷ではない一般市民らしいが、奴隷制度の廃止に賛成して行進に混じっているようだ。
「聖女様、万歳!」
「アーサー陛下、万歳!」
自分の家族を処刑したアーサーやサチが称賛されても、アイラはそれほど複雑な気持ちにはならなかった。
国は大きく変わるのかもしれないが、良い方に変わりそうだからこれでいいと思う。
「ルルも参加してきたらどうだ?」
「嫌ですよ」
ルルは面倒そうに言った後、こう続ける。
「けれどちょっと外に出てきます。アイラ用の新しいタオルがほしいので、買い物に」
「そうか、行って来い」
一旦部屋に財布を取りに行った後、アイラに留守番をさせてルルは一人で宿を出た。行進をしていた奴隷たちはもう行ってしまったので、人混みに巻き込まれる事なく目的の店まで進む。
しかし今日のルルはあまりついていなかった。会いたくない人物を三人見かけてしまったのだ。
その一人目、というか一組目は、自分たちを追っている王都の騎士たちだった。
(四人……)
伯爵に仕える騎士とは違う、白い制服を着ている騎士を見つけ、ルルは自然に路地へと隠れた。騎士たちは四人いて、それぞれ馬に乗っている。
そして街を行く人々の顔を見ながら、大通りをこちらに歩いてくる。
ルルは彼らと知り合いではなかったが、彼らは王女の奴隷であるルルの事を知っているかもしれないし、アーサーやサチから外見的特徴を教えられているかもしれない。
ルルは今、元の金髪から魔法で黒髪に変えているが、それだけの変化で彼らとすれ違うのは不安があったので、路地に隠れたまま騎士たちをやり過ごした。
(ここ数日で、王都の騎士を見かける事が多くなったな)
ルルもあまり宿から出ていないが、宿の食堂で食事をしている時などに窓から姿を見る事があったのだ。
彼らはアイラがアイリーデからすでに移動したと予想してこの街に来たのだろう。
もちろんまだアイリーデを探している者もいれば違う街に捜索に向かった者もいるだろうから、このグレイストーンの街中に王都の騎士が集まっているというわけでもないが。
(グレイストーンから移動すべきか留まるべきか)
ルルは思案したが、今の状況では下手に動かない方がいいという結論を出した。宿にこもっていた方が安全だろう。
そして騎士たちを見送った後、ルルが次に見かけたのは、グレイストーン伯爵だった。背後が少し騒がしいなと思って振り返れば、十数メートル後ろに伯爵がいたのだ。
彼はお付きの者や護衛の騎士を従えていたが、馬車には乗らず普通に通りを歩いていた。そして気づいた周囲の人々に「伯爵様!」と親しげに声をかけられている。
振り返った瞬間、アイラではないが伯爵と目が合ったような気がしてルルは再び路地へと走った。慌てて行動すると逆に目立つと分かっていたのに、あの灰色の瞳に何故かゾッと鳥肌が立って、とっさに通行人をかき分けて走ってしまった。
(アイラの怯えっぷりを笑っていられないな)
ルルは伯爵と直接言葉を交わした事はないが、伯爵はルルの事を知っているだろう。
王女のお気に入りとは言え、奴隷の顔をいちいち覚えている貴族なんて少ないのかもしれないが、頭も記憶力も良さそうなグレイストーン伯爵にはしっかり覚えられているような気がした。
「伯爵様、最近よくお姿をお見かけしますね」
「ああ、奴隷制度が廃止されて、この街でも多少の混乱があるかもしれないと思ってね。それに行方不明の王女の姿がアイリーデで目撃されたようだから、もしかしたら次はこの街に来るかもと少し考えているんだ」
声をかけてきた住民に対して、伯爵が落ち着いた声でそう言っているのが聞こえてきた。アイラの事を話す声は冗談とも本気ともつかぬ口調だったが、まるで自分に対する当てつけで話しているような気がして、ルルは路地裏を走って逃げた。
グレイストーンに着いた日、アイラは伯爵と目が合ったかもと言っていたが、あれは本当だったのかもしれない。
本当に伯爵はアイラを見つけていたのかも。
しばらく走って後ろを確認するが、伯爵の騎士に尾行されてはいないようだったので、ルルはとりあえず安堵した。
けれどこれからは街を歩く時には気をつけなければいけない。
もしも伯爵がアイラを見つけた後、彼女をどうするつもりなのか分からないが、追っ手から匿ってはくれないと思うのだ。
何故ならアイリーデ公爵と違って、グレイストーン伯爵は元々王族にあからさまに媚びを売るような事はしなかった人だから、捕まったら王都の騎士たちに引き渡されるかもしれない。
ルルはそんな事を考えながら、路地を何度も曲がった。けれどこの街にはあまり詳しくないので、迷う前に再び大通りに出る。注意深く周囲を確認するが、王都の騎士も伯爵の姿も近くにはなかった。
そしてちょうど通りかかった雑貨屋でタオルを買い、宿に戻ろうとする。
しかしそこで、会いたくない三人目の人物に出会ってしまった。
目の前にあるのは小洒落たカフェ。そのテラス席に座って飲み物を飲んでいるイディナと今度はばっちり目が合ったのだ。
(ついてない)
今日は宿から出なかった方がよかったかもとルルは思った。
イディナは休日なのか一人でのんびりしている様子だったけれど、ルルを見つけると、椅子に座ったままどことなく上から目線でこう声をかけてきた。
「あら、一人でおでかけ? あの弟は今日は一緒じゃないのね」
好意的だった今までとは違う彼女の態度を訝しがっていると、彼女はルルに空いている椅子を勧める事もなく、自分の隣に立たせたまま、じろりとこちらを見上げてくる。
「あなた、奴隷だったのね」
イディナは大きくため息をついて言った。そしてその言葉によって、ルルは彼女がここ三日ほど自分の前に現れなかった意味が分かって、納得した。
イディナは続ける。
「この前、風で髪がなびいた時に、うなじの印が見えたのよ。びっくりしたわ。弟の方はちゃんと確認しなかったけど、兄弟なら二人共奴隷なんでしょ? でも奴隷って貧相なイメージがあったから、まさかあなたが奴隷だなんて思わなかった。ほんと危なかったわ。私、あと少しで奴隷なんかと付き合うところだった」
何を以て「あと少しで」と言ったのか分からないが、イディナにはルルを落とせる自信があったのかもしれない。
「おかしな弟がいるとは言え、見た目だけなら完璧だったのに……本当に残念だわ。これから奴隷制度が廃止されると言っても、元奴隷の恋人じゃ友達に自慢する事もできないもの」
イディナは茶色い飲み物の入ったティーカップを置いて再びため息をついたが、次には笑いをこぼしてこう言う。
「でも私、昔から奴隷が欲しかったのよね。身の回りの世話とか面倒なことを全てやってくれて、私の代わりに働いてくれる存在が」
彼女は一人で喋り続ける。
「でもあなたみたいに外見の良い奴隷は高いから、とても自分では買えなかったけど。安くても醜い奴隷なんていらないしね。だけどルルみたいな奴隷をはべらせる事ができるなら、最高」
何かおかしいのかイディナは高い声で笑って、これみよがしに足を組んだ。
「ねぇ、奴隷なら私の前でひざまづいてみせて。そしてえーっと、そうね、靴でも磨いてもらおうかしら」
彼女は猫のように目を細めると、意地悪く口角を上げて言う。貴族の令嬢にでもなったつもりなのか、つんと顎を上げていた。
それはアイラ顔負けの横柄さだったが、同じように偉そうにしていても、ルルにとってはアイラの方が百倍可愛かったしイディナの態度は不快だった。
(今日は本当についてない)
ルルは内心うんざりしながら、卑しい人間をみるかのようにイディナを冷たく一瞥し、こう吐き捨てる。
「――勝手にはしゃいでろ、馬鹿女」
そうして、椅子にふんぞり返ったまま不意打ちを受けて固まっているイディナを放って、彼女のもとから離れた。
こういう日は、さっさと部屋に引きこもるに限る。




