第9話 ただいま……向日葵ちゃん……
静かだった。
波の音すらない。
風もない。
光もない。
ただ、どこまでも果てなく続く蒼黒い深淵だけが世界を満たしていた。
あんずは、その海の底とも、夜空ともつかない場所へ、ぽつりと立っていた。
「……あれ?」
小さく呟き、辺りを見回す。
さっきまで、自分たちは祭壇の玄室で朱音と戦っていたはずだ。
黒炎が空を覆い、灼熱が迫り。
その記憶だけは鮮明に残っている。
「タケ君……?」
返事はない。
「キヨ君?」
静寂だけが広がる。
「レオさん……樹玄さん……」
誰もいない。
あんずは胸元で祓串を抱き締める。
「……向日葵ちゃん?」
大好きな幼馴染の名前を呼んでも、その声は深淵へ静かに溶けていくだけだった。
胸が締め付けられる。鼓動が早くなる。呼吸が少し苦しい。
一人ぼっち。
その事実だけで、心が震え始める。
不安に駆られたあんずは、当てもなく走り出した。
足元には水面のような波紋が静かに広がる。
どれだけ走っても景色は変わらない。
蒼黒い世界が、ただ果てしなく続いているだけだった。
「怖いよ……向日葵ちゃん……怖いよぉ」
思わず泣き出しそな声が漏れた瞬間。
ふと、レオの言葉が脳裏によみがえる。
『恐怖を抱えたまま、それでも誰かのために踏み出せる者こそ……本当の勇気を持つ者だ』
続いて、向日葵の穏やかな笑顔が浮かんだ。
『大丈夫。あんずならできるよ』
優しく頭を撫でてくれた、あの温かな手。
それを思い出しただけで、不思議と荒れていた呼吸が少しずつ整っていく。
胸の鼓動も、ゆっくりと静まり、あんずは小さく息を吸った。
まだ怖い。
それでも、逃げたくはない。
そんな葛藤の中の時だった。
深淵の奥から、海そのものが囁くような、悠久の声が響く。
『……我の声が……聞こえるのか……』
その声は低く、どこまでも穏やかで。
それでいて、大地を震わせるほどの威厳を秘めていた。
『……矮小なる……人の子よ……』
「ひっ!?」
情けない悲鳴が漏れる。
それでも、あんずは逃げなかった。
震える足を踏み締め、ゆっくりと声のする深淵を見つめる。
やがて蒼い光が、闇の底で静かに灯った。
一つ。
また一つ。
無数の燐光が集まり、巨大な竜の姿となった。
それは祭壇に囚われていた海竜と、すぐに認識できた。
改めて間近で見ると、この世のものとは思えぬほど美しい存在だった。
月光を溶かし込んだような蒼銀の鱗。
長大な角。
深海を映したような神秘の双眸。
その身から放たれる神気は、穢れたこの世界には似つかわしくないほど清らかだった。
『我は碧海龍命』
神竜と思わしき竜は、静かに名乗ると、この蒼き世界そのものが静かに震えた。
『人の子らからは……海竜と呼ばれし神』
あんずは一度だけ深く息を吸う。
震える身体を鼓舞するように、唇をぎゅっと噛み締める。
『人の子よ。其方の名は?』
「わたしは……天峰あんずと申します。和慈天姫命様を信奉する巫女です」
両手を合わせ、丁寧に深く頭を下げお辞儀をすると、少しだけ照れたように笑う。
「巫女ですが、凄く怖がりで、逃げ出したり、仲間を困らせたりと……1人じゃ何もできない……とても弱い子」
その瞳だけは逸らさず、ただ弱々しい笑顔で、真っ直ぐに碧海龍命こと海竜を見つめ続ける。
神竜は静かに目を細める。
『あんず……』
その声には、どこか安堵が滲んでいた。
『我の呼びかけに応えたのは……其方であったか』
あんずは小さく頷く。
胸の奥にあった違和感が、確信へと変わる。
「やっぱり…… 御神様が、わたしの心に呼んでくださっていたのですね」
碧海龍命は静かに頷くと、蒼い瞳が優しくあんずを見つめる。
蒼き双眸が、あんずの魂を見透かすように見つめた。
『其方が、この地へ足を踏み入れた時……我は、ただならぬ神気を感じた』
その声には、驚嘆が混じる。
『年若き巫女であることにも驚いた。だが、それ以上に不可思議なのは……其方の魂よ』
海竜は、ゆっくりと目を閉じた。
『人の身でありながら、その魂は穢れがなく、まるで神代の清流のごとく澄み渡っておる』
「えっ!?アタシ?」
あんずは自分を指差して、キョトンとしてしまった。
『永き歳月を生きた我ですら、このような神気を宿す人の子を見たのは稀だ』
あんずは困ったように首を傾げた。
「アタシは……普通の巫女です。特別なことなんて、何も……」
碧海龍命は静かに首を横へ振る。
『いや……其方は気付いておらぬだけだ』
『その神気は、生まれ持ったものか……あるいは、神の深き加護によるものか、今の我にも分からぬ』
静かな海の深淵に、蒼い光がゆっくりと揺らめく。
神域を満たす静寂の中で、1人の巫女と古き海神の邂逅は、運命を動かす対話へと変わろうとしていた。
「あんず!」
向日葵は慌てて駆け寄り、その身体を抱きかかえた。
「あんず!? あんず! どうしちゃったの!?」
突然、あんずの身体が、そのまま糸が切れた人形のように崩れ落ちたのだ。
何度呼び掛けても返事はなく、瞳は閉じられたまま、微動だにしなかった。
樹玄もすぐさま駆け寄る。
「失礼する」
胸へ手を当て、脈を測る。
さらに法力を巡らせながら回復術式を施すが、あんずの意識は戻らない。
「……傷はない。心臓も動いておる。呼吸も安定している」
樹玄は静かに首を横へ振った。
「身体に異常は見当たらぬ。ただ……意識だけが戻らぬ」
「そんな……」
向日葵の声が震える。
武三郎も刀を構えたまま、不安そうに声を掛けた。
「モフ子!おい、返事しろ!」
清志郎も険しい表情で声を掛ける。
「どうしたんだべ……目ぇ覚すべ」
向日葵は強くあんずを抱き締める。
「お願い……目を開けてよ……」
その肩が小さく震えていたが、平常心を失いつつもあった。
そんな向日葵の肩に手が置かれ、優しく抱き寄せる。
「向日葵」
レオだった。
「まずは落ち着くんだ」
穏やかな、それでいて力強い声だった。
「ゆっくり息を吸って……吐いて」
向日葵は一度だけ目を閉じる。
言われるまま深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
乱れていた呼吸が、少しずつ整っていく。
向日葵が落ち着きを取り戻すのをみて、レオは静かに向日葵から離れ、あんずの表情を確認する。
「熱気で倒れた様子はない。苦しんでいるようにも見えない」
不思議だった。
むしろ、あんずの身体からは、潮風のような清らかな気配が静かに漂っている。
まるで海辺へ立っているような、澄み切った空気。
樹玄も静かに目を閉じた。
「……拙僧には格式高い神気を感じる。あんず殿は何処に向かわれたのか?」
レオは立ち上がった。
「俺の勘だが…… 彼女の身に、人智を超えた何かが起きている」
確証はない。ただ長年、死線を潜り抜けてきた冒険者の勘、とでも言うのだろうか、曖昧だがレオには自信を持って、そう思えるのだ。
その言葉に、向日葵はレオを見上げる。
「だから今は信じよう。あんずは必ず戻ってくる!」
優しく微笑む。
「……はい」
向日葵は小さく頷き、レオは剣を構え直す。
「今は5人で、あんずを守る!」
その視線は真紅の陰陽師へ向けられる。
一方、朱音もまた、あんずを見据えていた。
(なるほど……)
口元に妖しい笑みが浮かぶ。
(海竜と繋がったのね)
しかし、すぐに興味を失ったように鼻で笑う。
(所詮は巫女。少し変わった神力は感じていたけれど、呪禁道の穢れを払うほど高くはない。脅威になる相手ではないわ)
朱音はゆっくりと印を結ぶ。
(ならば先に、この5人を始末するだけ)
妖しく舌で唇をなぞる。
(その後で、巫女は私がゆっくり可愛がってあげましょう)
向日葵は静かに立ち上がる。
懐から一束の呪符を取り出すと、天へ向かって放った。
「みんな、行くよ!」
呪符は宙を舞い、意思を持つかのように6人の周囲を巡る。
やがて八方へ配置されると、幾重もの五芒星が重なり合い、淡い結界が展開された。
「これは、おっかさん特製の霊具」
向日葵は微笑む。
「最後の切り札よ。ここで使わなきゃ意味ないもんね」
眼鏡を押し上げ、表情を引き締める。
「樹玄さん、回復継続術式をお願いします!」
「承知した」
向日葵は続けて印を結ぶ。
「天地清明、神威満盈、根源巡環、魂力宿す、急急如律令|── 真源昇華」
淡い光が向日葵を包み込み、霊力が一気に高まっていく。
真源昇華は呪術、神術、法力、魔法、
治癒術、召喚術など、術式の源を一時的に強化する、陰陽道の術式である。
向日葵より圧倒的に上回る朱音を相手にするなら、術式そのものの威力を底上げする必要がある。
だからこそ向日葵は、己の霊力を限界まで引き上げたのだ。
「……これで、少しは持たせられるかな?」
扇子を握り直すと武三郎、清志郎、レオに近付いた。
3人が顔を寄せると、向日葵は小さな声で作戦を伝えた。
「これから撃ち合いするから、もし私が押されても、迷わず朱音に突撃して。いい、私を助けようとしちゃ駄目。朱音へ攻撃を集中させて」
3人は迷うことなく頷く。
「任せろ」
「んだ」
「了解だ」
向日葵は今度は樹玄へ向き直る。
「樹玄さん。3人が私の結界を離れたら、その瞬間に法力で広域結界をお願いします」
「朱音の術式による被害を少しでも削いでください」
樹玄は静かに微笑み、力強く頷いた。
「心得た」
5人はそれぞれの役割を胸に刻み、決着への構えを整えた。
向日葵は朱音に向けて素早く印を結ぶ。
「凍華巡行、氷華乱舞、白雪千片、万象を穿て。急急如律令──氷華礫」
周囲の空気が一変した。
──キィン。
澄み切った鈴のような音が響く。
向日葵の足元から、薄い氷の華が一輪、また一輪と咲き始めた。
白銀の花弁が宙へ舞い上がる。
それは風に乗る雪のように、向日葵の周囲を静かに巡り始めた。
無数の氷華が一斉に開く。
白銀の花弁が幾重にも重なり、まるで巨大な氷の花園が戦場そのものを覆い尽くす。
前衛の3人も樹玄も、灼熱地獄の中に咲き乱れる氷華に目を奪われる。
だが、美しい光景は、ほんの一瞬。
パキンッ!
号令と共に、氷華が一斉に砕け散ると、花弁は細かな氷片へと変じ、宙で鋭く回転しながら静止した。
向日葵は扇子を敵へ向ける。
「……穿つ」
透き通る氷礫は鋭い冷気を纏い、一斉に朱音へ襲い掛かった。
「術比べなんて、小賢しいわね」
朱音は妖しく笑い左手で印を結ぶ。
漆黒の霊力が渦を巻き、周囲へ無数の黒炎が浮かび上がる。
「喰らい尽くせ」
黒炎の群れが一直線に撃ち放たれた。
「行ってぇぇぇ!」
向日葵も号令を飛ばした瞬間、氷礫と黒炎が正面から激突した。
──ドォンッ!!
轟音とともに白い爆煙が祭壇を覆う。
砕け散った氷片が宝石のように煌めきながら宙を舞い、瞬く間に白い蒸気となって消えていく。
互角……。
そう見えたのも束の間だった。
黒炎が次々と氷礫を焼き砕き、その勢いは徐々に増していく。
霊力そのものでは、朱音が圧倒していた。
しかし。
「まだ!」
向日葵は止まらない。
右手で氷の術式を維持したまま、左手だけで新たな印を結ぶ。
「風牙万象、旋嵐飛翔、断空裂地。急急如律令──風牙嵐」
向日葵の周囲に風が漂い、一斉に唸りを上げ、風が渦を巻き始めた。
その渦の中から生まれたのは、幾重にも重なった無数の鋭い風刃。
「薙ぐ!」
左右から、頭上から、地面すれすれから、無数の風刃が縦横無尽に駆け抜け、黒炎を切り裂きながら朱音へ迫る。
「なっ……二重詠唱!?」
朱音も思わず目を見張った。
五行の異なる属性を2つ同時に操る陰陽師は、稀にいるとは聞いていた。
だが、実際に目にしたのは、これが初めてだった。
氷が黒炎の勢いを削り、風がその炎を押し返す。
互いに異なる属性を操りながら、2つの術式が見事に噛み合っていた。
黒炎は激しく揺らぎ、その勢いが徐々に削がれ、氷と風が朱音に迫って行く。
「……器用な真似を」
朱音が目を細める。
それぞれの術式を制御しながら、互いの威力を補完させている。
しかも、その標的は自分の術式。
10代小娘の陰陽師とは思えぬ技量だった。
朱音の瞳から、先ほどまでの余裕がわずかに消える。
(……この小娘。やはり是が非でも、先に潰すべきだったわね……でもね)
「それでも、力が足りないわ」
朱音は左手で印を結ぶと、向日葵の術式で押されつつある黒炎を集約し練り上げる。
練り上がった漆黒の霊力は少しづつ凝縮し、鉄球ほどもある巨大な黒炎球が姿を変える。
「消えなさい」
轟音とともに黒炎球は、向日葵の呪術を蹴散らし、6人に迫った。
「四方を鎮め、八方を封ず!」
向日葵は咄嗟に印を結ぶと、放った呪符は生き物のように移動して整然と並ぶ。
そして前面に光の壁となって重なり合う。
──ズガァァァン!!
黒炎球は呪符の結界に激突して轟音と共に四散したが、向日葵のとっておきの呪符が、6人を守り全員無事だった。
しかし、朱音の呪力が凝縮した黒炎球を塞いだ呪符は1枚、また1枚と黒炎に焼かれ、灰となって舞い散る。
向日葵は奥歯を噛み締めた。
(……やっぱり、朱音の霊力が高いと勝負にならない)
朱音との間には、埋めようのない力の差がある。ましてや相手は呪禁道の術者。
それでも向日葵は下を向かなかった。
彼女は、自分が勝つことこを前提にしていなかった。
目的は、時間を稼ぎ、仲間へ勝機を繋ぐこと。
そのためなら、自らの霊力も、呪符も、すべて使い切る覚悟だった。
「今だっ!!」
レオの叫びと同時に、武三郎、清志郎、レオの3人が一斉に地を蹴る。
黒炎と氷、そして風がぶつかり合って生まれた白い蒸気が祭壇を覆う中、その視界の死角を縫うように、3人は一直線に朱音へ迫った。
「行くぜぇッ!!」
武三郎が刀を大きく振りかぶる。
「今度こそ仕留めるべ!」
清志郎は低く身を沈め、忍のように床を滑るような足運びで距離を詰める。
レオは2人の一歩後ろから駆ける。
最も危険な一撃を見極めるため、その鋭い双眸は朱音の指先から一瞬たりとも離れない。
一方、樹玄は静かに錫杖を地へ突き立て、胸元で数珠を握り締めた。
「南無帰命仏、金剛堅固、護法円満、一切衆生、安穏成就」
法力が大地を震わせる。
「──金剛法壁」
梵字が足元に幾重にも浮かび上がり、淡い金色の光が6人を包み込んだ。
目には見えぬ法力の障壁。
それは直接の斬撃や打撃だけでなく、呪術による攻撃までも和らげる高位の防護術式だった。
三等級の実力を誇る僧侶だからこそ扱える上級法術。
向日葵は事前に、この術を最後の切り札として樹玄へ託していた。
もし、自分の対術障壁が破られた時、その一瞬だけでも仲間を守り抜くために。
だが、この法壁も永続するものではなく、法力が維持できる時間はごくわずか。
それまでに決着をつけられなければ、6人に残された手は、もうなかった。
朱音は3人の接近を見据え、妖しく口元を吊り上げる。
黒炎が、その指先で再び揺らめき始めた。
武三郎が大太刀を大きく振りかぶる鋭い斬撃が、朱音の身体へ迫る。
同時に苦無を投げ放った直後、清志郎は地を蹴り、死角から忍者刀を振り抜く。
そして正面からはレオ。
両手で構えたバスタードソードに全身の力を乗せ、渾身の斬撃を叩き込む。
三方向。
それぞれ異なる軌道から、寸分違わぬタイミングで3人の攻撃が朱音へ殺到した。
朱音の瞳が見開かれる。
──ギィィィンッ!!
3人の刃が触れた瞬間、朱音の周囲に展開された黒い五芒星が激しく明滅した。
まるで壁に阻まれたかのように、三人の刃が弾き返される。
「なっ……!」
武三郎が体勢を崩しかける。
だが、すぐさま踏み直し再び大太刀を振り下ろす。
──ガギィンッ!
弾かれる。
清志郎も間髪入れずに忍者刀を叩き込む。
──キィンッ!
やはり届かない。
「このっ!」
清志郎は刀を引くと、今度は一気に間合いへ踏み込んだ。
拳を握り締め、渾身の力で黒い障壁へ叩き込む。
「ぐっ……!」
拳が弾かれる。
衝撃で皮膚が裂け、指の間から血が滲んだ。
それでも清志郎は退かなかった。
朱音はそんな彼を見て、薄く笑う。
「まあ……」
その瞳が妖しく細められる。
「忍の子。意地らしくて、少女のように愛らしいわね」
そして、唇を歪めた。
「私の夜伽の相手になりなさいな」
「ふっざけんなババア!」
清志郎の顔が引きつる。
「誰がお前なんぞの相手するか!考えただけで寒気がするべ!」
「あらあら……口の悪い子ねぇ」
朱音の笑みが深くなる。
そして、左手がゆっくりと上げ印を結ぶ。
「少し……お仕置きが必要かしら」
手の平に漆黒の炎が灯った。
「……っ!」
レオが身構える。
「来るぞ!」
次の瞬間。
──ゴォォォォッ!!
黒炎が一気に噴き出した。
「いけな!」
3人を呑み込むほどの黒炎が、真正面から襲い掛かる。
──ドォォォンッ!!
凄まじい爆炎が玄室を揺らした。
しかし、向日葵の対術障壁が黒炎の勢いを削ぎ、さらに樹玄の法力による障壁が3人を包み込む。
直撃こそ免れた。
それでも完全に無傷ではいられない。
熱波が鎧や衣服を焦がし、露出した腕や首には赤い火傷が浮かんでいた。
「ぐっ……!熱ぃなバカやろう!」
武三郎が顔をしかめると、頭上から、柔らかな光が降り注いだ。
まるで仏の後光が雨となって降り注ぐかのように、淡い法力の光が三人を包み込んでいく。
樹玄の法術である"法雨潤生"が光の雨が火傷を癒し、傷口の痛みを和らげていく。
「油断は禁物だ!」
樹玄の声が飛ぶ。
「その黒炎、まともに受け続けてよいものではない!悠長に事を構える暇はないぞ!」
樹玄の言葉通りだった。
玄室そのものが、もはや巨大な炎の檻と化し、熱気が肌を焼く。
汗が滝のように流れ、呼吸するだけでも体力が奪われていく。
そして、向日葵の対術障壁も、樹玄の法力も永遠に続くわけではない。
このまま持久戦に持ち込まれれば、こちらが先に力尽きる。
武三郎は額の汗を拭いながら、再び朱音へ斬り込んだ。
──ガギィンッ!
「くそっ!」
大太刀が黒い五芒星に弾かれる。
「……あの盾みてえなのさえ、ぶっ壊せればなぁ」
何度も斬撃を叩き込みながら、武三郎が呟く。
隣で清志郎も忍者刀を振るう。
「タケ、あれ……斬れるべか?」
「ああ」
武三郎は朱音の障壁を睨みながら答えた。
「普通の呪術ならな」
──ガァンッ!
またしても刃が弾かれる。
「あんな訳の分からねえ術式となると話は別だ。おいらのなまくらじゃ、斬れねえかもしれねえ」
「そうだべか……」
清志郎は忍者刀を握り直す。
「今度、刀さ見に行がねぇとな」
「刀を見に行くにしても……」
武三郎は再び大太刀を振り抜いた。
「まずは、このババアをなんとかしてからだ!」
「そりゃそうだべ!」
2人が再び朱音へ斬り込む。
その戦いを援護しながら、レオはふと武三郎の腰へ目を向けた。
「……ん?」
武三郎の腰には、いつもの大太刀とは別に、もう一本の大太刀が差されていた。
レオの目が止まる。
「タケ!」
レオはバスタードソードを振り抜きながら叫んだ。
「それ……もしかして!」
「これか?」
武三郎が一瞬だけ腰へ目を向ける。
「祠の外で拾った!業物みたいだぜ」
レオの瞳が大きく見開かれた。その刀には、見覚えがあった。
いや、正確には何度も見見ている。忘れるはずがない。
「……数馬の大太刀だ!」
「!」
武三郎の動きが、一瞬だけ止まる。
「ひょっとして……」
レオは黒い五芒星を睨みつけながら斬撃を続ける。
「それなら、あの障壁を斬れるかもしれない!」
武三郎は腰の大太刀へ手を添えた。ほんの一瞬だけ、その刀を見つめる。
レオが叫ぶ。
「……いけるか!」
「分かった!やってみる!」
朱音は黒炎が間断なく放ち続ける。
「死になさい!」
黒炎が3人へ迫るも、武三郎も清志郎もレオも、前衛で鍛え上げた、瞬発力と反射神経で咄嗟に身を翻す。
熱波が頬を掠める。
その勢いのまま、自分が使っていた大太刀を鞘へ収めた。
そして、腰に差していた、もう一本の大太刀へ手を伸ばす。
柄を握る。
武三郎は小さく息を吐く。
「……借りるぜ、数馬の兄ちゃん」
数馬の大太刀が、鋭い音を響かせて鞘から抜き放たれた。
黒炎の照らす玄室の中で、その刃が静かに煌めいた。
あんずは、静かに海竜の姿を見つめていた。
蒼く輝く巨体。
その瞳の奥には、200年という長い時を生きてきた者だけが知る、深い記憶が宿っている。
『……今より200年以上前のこと』
碧海龍命の声が、静かな深淵へ響く。
『この地に、大きな津波が起きた』
その言葉と同時に、暗闇の中へ淡い光が灯った。
海竜の記憶。
それは、遠い過去の光景だった。
荒れ狂う海。
空を覆う黒雲。
大地を揺るがすほどの轟音。
そして、巨大な波が、海岸にあった小さな集落へ迫っていた。
「……っ」
あんずは息を呑む。
波はあまりにも大きかった。
家々を呑み込み、人々の逃げ場すら奪うほどの高さ。
悲鳴を上げ、逃げ惑う人々。
泣き叫ぶ子供。
倒れていく家屋。
その光景を、海竜は海から見つめていた。
『あの時、我は思った。これもまた、森羅万象の摂理である、と』
碧海龍命の声は変わらず静かだった。
自然は、人の都合など知らない。
海が荒れれば、波は押し寄せる。
山が崩れれば、大地は人の命を奪う。
それが、この世の理。
『致し方のないことだと思っていた』
あんずは黙って記憶を見つめる。
『だが……』
海竜の声が、僅かに揺れた。
『あの子らの泣き声を聞いた』
次の瞬間、海竜の巨体が動く。
荒れ狂う海の中から、巨大な蒼い尾が振り払われた。
轟音に満たされると、押し寄せていた津波の勢いが変わる。
海竜の神力によって、海流が大きく逸らされ、集落を呑み込もうとしていた濁流が、左右へ分かれた。
人々は助かった。
『我は……救いの手を差し伸べた』
記憶の中で、海竜はただ静かに人々を見つめている。
助けられた村人たちは、震えながら海竜を見上げていた。
やがて長であろう1人の老人が、地に伏して頭を垂れた。
『ありがとうございます……』
その声を皮切りに、人々が次々と頭を下げ始める。
『あなた様は、海より現れた御神様なのですね』
『我らをお救いくださった……』
『海竜様……』
その名が、初めて呼ばれた。
『海竜……』
碧海龍命は、その名を静かに反芻する。
『それが、始まりだった』
記憶の光景が、ゆっくりと移り変わる。
映し出されたのは、小さな集落だった場所に、祠が建てられていく光景。
『やがて、祠が建立された』
粗末なものだった。
だが、そこには毎日のように村人たちが訪れていた。
供物が捧げられる。
祈りが捧げられる。
豊漁を願う者。
家族の無事を願う者。
子供の成長を願う者。
病に伏した者の快復を願う者。
海竜は、それらを静かに見守っていた。
祭りの日には、大勢の人々が集まった。
笛の音。
太鼓の音。
笑い声。
子供たちが走り回り、大人たちが酒を酌み交わす。
そして、人々は海へ向かって頭を下げる。
『海竜様、今年もありがとうございます!』
記憶の中で、人々は笑っていた。
幸せそうに。
心から。
あんずは、その光景を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
『村人たちの幸せな笑顔』
海竜の声にも、僅かな温かさが滲んでいた。
『我に向けられる畏れと感謝』
蒼い瞳が、遠い記憶を映す。
『……心地よいものであった』
海竜にとって、人間は最初、ただの小さな命に過ぎない存在だった。
けれど……いつしか、その小さな命たちの営みを眺めることが好むようになっていた。
子供が生まれれば喜び。
誰かが結婚すれば祝い。
祭りがあれば、人々の笑い声に耳を傾ける。
祈りを捧げる者たちを、ただ静かに見守る。
それは神にとって、ささやかな楽しみだった。
だが、記憶の光が、少しずつ暗くなっていく。
村の景色が変わっていく。
家が増える。
人が増える。
船が増える。
浜辺には新しい建物が立ち並び、かつて小さかった集落は、やがて一つの村へと発展していった。
『……浜芝村は大きくなった』
あんずは、海竜の声の変化に気づいた。
先ほどまであった温かさが、少しずつ薄れている。
『人が増えても、変わらぬものと思っていた』
再び、記憶の光景が切り替わる。
幼い子供が母親の手を引き、祠へ向かっていた。
その母親は、子供の頭を優しく撫でながら教えている。
「この濱芝村の守り神、海竜様に、ちゃんとご挨拶するのよ」
「うん!」
幼い子供が祠の前で小さな手を合わせる。
「海竜様、ありがとう!」
海竜は、ただ静かに見守っていた。
『まだ、この頃までは……人々は我を覚えていた』
だが、さらに年月が流れる。
同じ祠。
同じ村。
しかし、訪れる人の数は、少なくなっていた。
祠の前に置かれていた供物も、以前ほど多くはない。
祭りも、少しずつ簡素になっていく。
『人々の暮らしが豊かになるにつれ、祈りは少なくなった』
あんずは黙って、その光景を見つめる。
村人たちは忙しそうに働いている。
新しい船を造り。
新しい家を建て。
遠くの町から物を仕入れ。
海へ出て魚を獲る。
村は栄えていた。
誰もが幸せそうだった。
けれど、海へ向かって手を合わせる者は、少しずつ減っていった。
『豊漁が続けば、人々はそれを当然と思うようになった』
海竜の声が、静かに響く。
『海が穏やかであれば、それも当然。魚が獲れれば、それも当然。家族が無事であれば、それも当然』
記憶の中で、1人の男が海から戻ってくる。
「今日は大漁だ!」
村人たちが歓声を上げる。
「さすが浜芝村の漁師だ!」
「今年も豊漁だな!」
誰も海竜の名を口にする者はいなかった。
あんずは、胸の奥が少しだけ痛くなるのを感じた。
『我は、それでも構わなかった。人の子らが幸せに暮らしているのならば、それでよいと思っていた』
海竜の蒼い瞳が、静かに伏せられる。
記憶の中の祠が、少しずつ朽ちていく。
供物は置かれなくなった。
祭りからも、海竜の名が消えた。
かつて盛大に行われていた祈祷も、いつしか行われなくなった。
『……我の名を呼ぶ者は、いなくなった』
あんずは唇を噛む。
それでも、海竜の声には怒りは微塵もなく、ただ、深い寂しさだけがあった。
『だが、それでも我は村を愛し、海を見守った。浜芝の者たちが海へ出れば、その無事を願った。嵐が来れば、波を抑えた。魚が減れば、魚群を村の近くへ導いた』
記憶の中で、巨大な海竜が海の底を泳いでいく。
その背後を魚の群れが追っている。
やがて、その魚たちは浜芝村の漁師たちの網へと入っていく。
村人たちは歓喜する。
「大漁だ!」
「今年一番だぞ!」
しかし──
誰も海竜に感謝することはなかった。
『我は、それでもよいと思っていた。人の子らが笑っているのならば、それでよい』
海竜は、そう言った。
けれど、その声は、どこか震えていた。
『……そう、思っていたのだ』
記憶の光が、さらに暗くなる。
そして最後に映し出されたのは──
荒れ果てた祠だった。
扉は壊れ。
注連縄は朽ち。
祭壇には埃が積もっている。
あんずは、ぎゅっと胸元で手を握った。
「……海竜さん」
海竜は答えなかった。
ただ、暗闇の中で蒼い瞳だけが静かに輝いている。
『忘れられることが、これほど寂しいものだとは……我は知らなかった……人の子より遥かに長く生き、人の子より遥かに強い。ゆえに、忘れられることなど……些細なことだと思っていた』
そこで、海竜は一度言葉を止める。
『……だが』
蒼い瞳が、あんずを見つめる。
『我にも、心はあったのだ』
その言葉に、あんずは静かな涙をこぼした。目の前の神竜を見つめる。
かつて人々から畏れられ、敬われ、愛された存在。
そして今は、その存在すら忘れられた孤独な神。
あんずの胸に、静かな痛みが広がっていった。
海竜の記憶が、ゆっくりと闇の中へ溶けていく。
最後に映し出されたのは、真紅の陰陽装束を纏った女──朱音の姿だった。
その姿を見た瞬間、あんずの身体が強張る。
「……真紅の陰陽師」
朱音は海竜を見上げ、口元を歪めていた。
『……あの女が現れた』
海竜の声から、再び苦痛が滲み始める。
『朱音と名乗る陰陽師の女。我に穢れた術を施したのだ』
闇の中で、朱音が両手を広げる。
すると、無数の黒い呪鎖が海竜の巨体へ絡みついた。
首に。
胴に。
四肢に。
まるで巨大な獣を縛り上げるかのように、漆黒の鎖が幾重にも巻き付いていく。
『その女は、我を見て言った』
朱音の唇が動く。
『祟り神に相応しい、と』
黒い五芒星が海竜の身体へ刻み込まれていく。
『神力が衰えていた我に抵抗する術は皆無であったのだ』
海竜の身体から、青白い光が徐々に失われていく。
『ただ……なすがままに黒き術を施された』
黒い呪鎖が、さらに深く食い込む。
海竜の無念が否応なしに浸透してくる。
あんずは胸の前で手を握り締めた。
「……そんな」
海竜の身体が大きく震えた。
『ぐっ……』
「海竜さん!」
蒼い巨体が苦しげに身を捩る。
『ぐおおおおおおっ……!』
黒い靄が、海竜の身体から噴き上がった。
それは煙ではなかった。
穢れ。
神の身体を蝕み、内側から腐食させる禍々しい穢れだった。
「やめて……!」
あんずが駆け寄る。
海竜は苦しみながらも、必死に顔を上げた。
『……あんず』
蒼い瞳が、あんずを見つめる。
『こんなにも……早く蝕むとは……』
巨体が、ゆっくりと崩れ落ちた。
──ドォン。
大地を揺らすような音と共に、海竜が伏す。
『あんずよ……』
「……はい」
『其方に浄化をと思うておったが、穢れの侵食が早まったようだ』
苦しげに息を吐きながら、海竜は告げる。
『今から其方を、我の意識から切り離す。逃げよ……其方の仲間等と逃げよ』
苦しげに息を吐きながら、海竜は告げる。
「……嫌です」
即答だった。
『……何?』
あんずは震える身体を引きずるようにして、海竜の鼻先へ歩み寄った。
そして、その巨大な鼻先を小さな身体が両腕でそっと抱き締める。
「嫌です……」
涙が、ぽろぽろと頬を伝った。
「村を救って……こんなにも長い間、みんなのことを見守ってきた海竜さんを……見捨てていいわけがないです!」
『あんず……』
「こんなにも傷付いて、こんなにも孤独に耐えて、こんなにも酷い目に遭っているのに……何もできないなんて……そんなのおかしいです!」
声が震えながらも、それでも腕だけは頑なに離さなかった。
「寂しいなんて言わないでください……!」
涙を流しながら、あんずは叫ぶ。
「お願いだから……!」
海竜が驚いたように目を見開く。
「人は……いくらでも間違いを正すことができます!」
嗚咽を堪えながら、それでも言葉を紡ぐ。
「忘れてしまったことだって……間違えてしまったことだって……やり直すことはできます!」
悠久の年月、孤独に身を浸していた碧海龍命を想い、全身で寄り添う。
「今日ね。芝浜村の人達皆さんが、海竜さんの偉大さと有難さに気付いたんですよ。皆さん声を上げて助けたいと言っていたんですよ。皆さん、海竜さんの帰りを待っているんですよ。だから……だから、諦めないでください!!」
絶叫にも近い声が、深淵へ響き渡った。
海竜の瞳が揺れる。
『なんという……』
海竜の瞳が、大きく見開かれる。
『なんという巫女よ……』
その声は、初めて震えていた。
あんずは頷いた。
涙で濡れた顔のまま、あんずは微笑んだ。
「アタシは……何もできない弱い巫女です」
それでも。
「せめて、海竜さんの苦しみを和らげて差し上げます」
海竜の鼻先へ、もう一度頬を寄せる。
「万が一の時は……一緒にお供いたします」
怖かった。
今だって、身体は震えている。
それでも、この穢れの中に御神様を残したくなかった。
「だから……」
あんずは天を仰いで、全身全霊で叫ぶ。
「天姫さまぁぁぁ!!」
頬を伝う涙は溢れたままだった。
「どうか……どうか……!心優しき御神様に……救済の御手を!!」
淀みなき純粋な願いが響き渡る、その瞬間だった。
あんずの身体から、ゆっくり、ぼんやりと青白い光が溢れ出した。
「……え?」
本人すら、何が起きたのか分からない。
胸の奥から溢れ出した清らかな神力が、光となって全身を包み込んでいく。
そして、その光は、あんずが抱き締めていた海竜の身体へと流れ込んだ。
『!』
海竜が驚愕し目を見開く。
青白い光が、穢れに蝕まれた蒼き鱗を一枚、また一枚と包み込んでいく。
黒い穢れが、光に触れた部分から僅かに薄れていく。
『これは……』
海竜の声が震えた。
『これは……神力……?否……巫女の神力を超えておる。この清らかさは……其方のものか!』
あんず自身も、ただ呆然と自分の手を見つめていた。
「……アタシ?」
けれど、その身体から溢れる神力は止まらない。
まるで、あんずの中に宿る何かが、海竜を救おうとしているかのように。
深淵の闇の中を、青白い光が静かに照らしていった。
武三郎は、ゆっくりと数馬の大太刀を構えた。
先ほどまで握っていた自分の刀とは違う。
手に馴染むわけではなく、むしろ、ずしりと重みを感じるのだが、不思議と嫌な感覚はなかった。
まるで、持ち主の数馬がそこにいるような気がした。
「キヨさん、レオの兄ちゃん」
武三郎は朱音を見据えたまま、静かに口を開く。
「これから『刀技』をかまして、あのババアの変な盾をぶっ壊す」
清志郎が忍者刀を構える。
「何かするんだべ?」
「ああ」
武三郎は一度だけ息を吐いた。
「気を集中するのに数秒かかる。その間、時間を稼いでもらえるかい?」
そして、わずかに距離を取る。
「ついでに、ちゃんと間合いも取りてえ。よろしく頼む!」
武三郎は2人に深く頭を下げた。
レオが口元を吊り上げた。
「分かった。頼むぜ、ルーキー!」
「任せれ!」
レオと清志郎が同時に地を蹴った。
左右に回り込み2人が朱音へ斬り込む。
「ちっ!」
レオのバスタードソードと清志郎の忍者刀が振り下ろされると、朱音の周囲にの黒い五芒星が一斉に輝いた。
「くっ!」
「硬ぇべ……!」
2人は怯まず、巧みな足捌きで黒炎を回避しながら、さらに斬撃を叩き込む。
ガギンッ!
ガキィンッ!
幾度となく刃を打ち込むも、五芒星の盾は微動だにしない。
その一方で、武三郎は静かに目を閉じ、数馬の大太刀を両手で握る。
そして、深く息を吸い身体の内側へ意識を集中させた。
脳から心臓へ。
心臓から肺へ。
肺から臓腑へ。
臓腑から腰へ。
腰から脚へ。
全身へ巡る気を、一つに束ねていく。
身体の奥底に眠る力が、徐々に研ぎ澄まされていく。
そして……。
最後に、刀を握り締めた指先へ。
指先から刀身へ、数馬の大太刀へと気を静かに流し込む。
この間、ほんの数秒。
武三郎の身体から、余分な力が消える。
呼吸が止まり、世界が静かになる。
そして……
カッと武三郎の瞳が開眼する。
「……行くぜ」
瞬時に地面を蹴る。
身体が弾丸のように飛び出した。
「!」
朱音が振り返ると、武三郎の姿が一瞬で間合いへ入っていた。
刀を振るには、最適の距離。
武三郎は、その一瞬を見逃さなかった。
「──理斬!」
朱音の左下から右斜め上へと、数馬の大太刀が走る。
そして、閃光。
「なっ!」
朱音の黒い五芒星が、大きく震え小さな亀裂が走った。
亀裂は瞬く間に全体へ広がっていく。
──理斬。
侍に伝わる刀技の一つ。
己の気を極限まで研ぎ澄まし、それを刀身へと宿して放つ斬撃。
単に物質を斬るための技ではない。
その本質は"理"を断つこと。
術式を成立させている力の流れ、その源の理そのものを断ち切る。
故に、結界や障壁といった防御術式だけではない。
術者を強化する付与術式や、対象を守る加護、さらには術式によって構築された特殊な防護さえも、斬り伏せることができる。
ただし、それには相応の技量と、術式の構造を断ち切るだけの研ぎ澄まされた気が必要となる。
ましてや朱音が使うのは、呪禁道によって生み出された異質な術式。
普通の刀では、到底届かない。
だからこそレオは、武三郎に数馬の大太刀を託した。
長年の戦いを経て鍛え上げられた業物。
その数馬が遺した刀。
それならば……。
「そんな……!」
次の瞬間。
パァァァンッ!!
黒い五芒星の盾が、まるで割れた硝子のように砕け散った。
「ぐっ!」
防壁を失った朱音の身体へ、武三郎の斬撃による閃光が走った後、鮮血が舞った。
「うぐっ……!」
朱音が身体をよろめかせると、殺気放つ刃が襲いかかる。
「もらったべ!」
清志郎が懐へ潜り込み忍者刀が閃いた。
「っ!」
朱音の右脇腹が深く切り裂かれる。
朱音が咄嗟に後退する。
だが、これで終わりではなかった。
「まだだ!」
レオが踏み込んでいた。
バスタードソードが、朱音へ向かって振り下ろされる。
「くっ!」
朱音は反射的に左腕を突き出した。
身体を庇うためだった。
だが、鈍い音と共に朱音の左腕が宙を舞った。
「うぐうっ!!あああああ!!」
朱音の絶叫が、玄室に響き渡った。
黒い五芒星が砕け散った。
その向こうに立っていた朱音は、しばし微動だにしなかった。
左腰から右肩へ走る深い刀傷。
切り裂かれた右脇腹。
肘から先を失った左腕。
その他にも、全身の至る所に刻まれた傷。
そこからは、止めどなく鮮血が流れ落ちている。
それでも、朱音は倒れなかった。
「……ふ、ふふ……」
肩が震える。
「あ、あは……あはははははははははッ!!」
突然、朱音が天を仰ぎ、笑い声を上げた。
怒りなのか。
憎しみなのか。
それとも、もはや人間の感情なのかすら、判別のつかない奇声だった。
「あ……ああ……ああああああッ!!」
身体を大きく反らし、腕を振り回す。
まるで何かに憑依されたかのように、傷だらけの身体を引きずりながら、祭壇の前を舞うように動き始める。
飛散する血が周辺を赤く染め上げる。それでも止めようとしない。
「……何だ、あれ」
武三郎が眉をひそめ、清志郎も忍者刀を構え直した。
「様子がおかしいべ……心が壊れたべか?」
レオは黙って朱音を見据える。
「……違う」
向日葵が呟いた。
「何が違うんだ?」
武三郎が尋ねると、向日葵は眼鏡の奥の瞳を細めた。
「あれは……壊れたんじゃない」
朱音の身体から溢れ出す霊力を凝視する。
「呪禁道の器としての……朱音自身に亀裂が入ってる」
「亀裂……?」
「うん」
向日葵の声が低くなる。
「理斬で盾を破壊されたことで、朱音の霊力の器にも影響が出ているということか」
樹玄も険しい表情で朱音を見据えた。
武三郎は握っていた数馬の大太刀へ視線を落とす。
「……すまねえ!」
苦々しげに顔を歪める。
「まさか、そんなやべぇもんまで斬っちまうとは思わなくてよく」
向日葵は、武三郎を見ると、すぐに小さく首を振った。
「タケのせいじゃないわ」
「でもよ……」
人差し指で武三郎の唇を抑える。
「違うわ……タケのせいじゃない」
向日葵は、はっきりと言い切った。
「朱音の器は、あの時点で臨界点に達していたみたい。もう自分の力で自分を壊し始めていた。タケが斬らずとも、遅かれ早かれ、このような事になってるわ」
そして、向日葵は数馬の大太刀を撫でる。
「それに……あの一撃がなかったら、私たちはあの盾を破れなかった」
「……向日葵」
向日葵は笑顔で小さく頷くと、全員へ視線を向ける。
「みんな警戒して!朱音は既に自我も虚ろな状態。この先、何が起きてもおかしくない!」
武三郎たちが一斉に身構える。
「何とか隙を作って、とどめを刺すしかねぇな!バカやろう!」
「おう!」
「わかったべ!」
「任せろ」
だが、向日葵の予想を遥かに超える異変が起きた。
ゴォォォォォ……。
玄室を満たしていた黒炎が、突然、大きく揺らめいた。
「……え?」
向日葵の顔が強張る。
黒炎の勢いが増し、消えるどころか、さらに激しく燃え上がっている。
ゴォォォォォォォォッ!!
黒炎の檻が、まるで意思を持ったかのように蠢き始めた。
「なんだ……この霊力は……!」
樹玄が息を呑む。
朱音の身体から、禍々しい霊力が噴き上がる。
それはもはや、朱音自身が生み出している霊力ではなかった。
もっと深いところ。
呪禁道、その根底にある……。
凶の理。
その力が、朱音の亀裂から逆流するように溢れ出している。
向日葵の顔から血の気が引いた。
「呪禁道の源に……喰われてる……」
朱音の周囲で、黒炎が次々と鎌首をもたげる。
それは、まるで蛇のように。
そして、それはゆっくりと、その先端が6人へ向けられる。
武三郎が息を呑む。
「……おいおい」
清志郎も額の汗を拭う。
「まだ、やる気だべか……」
レオはバスタードソードを構え、樹玄は錫杖を握り締め、あんずの横たわる場所を一瞥した。
向日葵も扇子を構える。
その瞳には、最後まで諦めない強い意志が宿っていた。
朱音は血に濡れた顔を歪め、黒炎の蛇達を一斉に6人に向け狙いを定める。
「……灰塵に帰せ」
不気味な掠れた声で呟いた。
その時だった。
「……あんず?」
向日葵が、目を大きく見開いて小さく呟いた。
倒れていたはずのあんずが、ゆっくりと身体を起こした。
「あんず!」
向日葵は弾かれるように駆け寄った。
「大丈夫!? あんず!」
肩へ手を伸ばす。
だが。あんずは答えなかった。
ただ、ゆっくりと立ち上がる。
「あんず……?」
向日葵がもう一度呼びかけるが、あんずは、何かに導かれるように歩き始めた。
「ちょっと、あんず!」
向日葵が慌てて肩を掴む。
「危ないよ!こっちにおいで!」
あんずが、ゆっくりと振り返り、向日葵を見つめる。
「……え?」
向日葵の表情が固まる。
違う!
何かがおかしい。
いつものあんずなら、こんな時は、涙目で怯え震えながら、向日葵の後ろへ隠れるはずだった。
だが、目の前にいる少女は、向日葵の知るあんずではなく、何か別の存在だった。
普段は愛らしさに溢れる顔立ちも無表情。
そして、その瞳。
深海の底を思わせる、深く澄んだ蒼。
悠久の時を閉じ込めたような、深い蒼だった。
「……あんず?」
向日葵の声が震えながら必死に呼ぶと、あんずの唇が、ゆっくりと開いた。
『人の子よ。案ずるな』
「……!」
向日葵が息を呑む。
声は、あんずのものだが、その響きは、まるで別人。
深く。
静かで。
幾百年、幾千年もの時を生きた者だけが持つような、圧倒的な威厳があった。
『しばし、この娘を憑代としておるだけのこと』
向日葵は言葉を失った。
「……憑代?」
武三郎も目を見開く。
「お、おい……なんだよ、これ……」
清志郎も忍者刀を構えたまま、呆然としている。
「あれは……モフ子じゃ、ないべ……」
樹玄は目を細めた。
「これは……」
言葉を失っていたレオが、ハッと気付いたように祭壇へ視線を向ける。
先程、漆黒の呪鎖に縛られていた、蒼き神獣の姿がどこにも見当たらない。
あんずの目覚めと共に、姿が消えたのだ。
「海竜が……いない?」
その視線が「あんず」へ集まる。
向日葵は、ようやく理解した。
「……まさか」
あんずの身体を見つめる。
「海竜さん……?」
「あんず」は答えなかった。
ただ、ゆっくりと朱音へ顔を向ける。
その瞳には、深い蒼が宿っていた。
そして――。
『……朱音よ』
その声が、玄室全体へ響き渡る。
半狂乱になりながら奇声を上げていた朱音の動きが、ぴたりと止まった。
「……っ」
朱音が振り返る。
そこに立つ「あんず」を見た瞬間。
その顔から、狂気が一瞬だけ消えた。
「……海竜……?」
『長き時を経ても、なお我が名を呼ぶか』
静かな声だった。
怒りではない。
憎しみでもない。
それ以上に深い――悲しみを湛えた声だった。
『我が身を縛り、穢し、祟り神の贄にせんとした者よ』
蒼い瞳が朱音を見据える。
『己が招きし禍、その身をもって味わうがよい』
「黙れ……!」
朱音の身体が震える。
「黙れぇぇぇぇッ!!」
黒炎が爆発的に膨れ上がった。
無数の黒炎の蛇が、鎌首をもたげる。
「消えろぉぉぉぉッ!!」
一斉に「あんず」へ襲い掛かる。
だが――。
ぴたり。
黒炎の蛇が、空中で停止した。
「……な」
朱音の目が見開かれる。
黒炎が動かない。
まるで巨大な海流に押し止められているかのように。
「あんず」は静かに右手を掲げた。
その瞬間。
玄室に、潮の香りが満ちた。
どこからともなく、水滴が一つ落ちる。
ぽたり。
また一つ。
ぽたり。
その小さな水滴を中心に、床へ蒼い波紋が広がっていく。
それは瞬く間に大きくなり、やがて「あんず」の足元を包み込んだ。
向日葵は、その光景を見つめながら呟いた。
「……何、この力……」
樹玄もまた、息を呑む。
「これは……神術ではない」
法力を扱う僧侶として、長き年月、神仏に仕えてきた者とした樹玄には分かった。
「神そのものの御力……」
「あんず」が静かに手を掲げる。
すると蒼い波紋が一気に広がった。
足元から立ち上がった水の輪が、天井へ向かって伸びていく。
まるで巨大な海が、玄室そのものを呑み込んだかのようだった。
燃え盛っていた黒炎が、一瞬にして消失する。
黒炎の檻も。
玄室を覆っていた炎も。
朱音の周囲を渦巻いていた黒炎も。
すべてが蒼い水の光に触れた瞬間、跡形もなく滅していった。
残ったのは、潮の香りだけだった。
向日葵は呆然と呟く。
「……これが……神威」
武三郎も言葉を失う。
「……桁が違ぇ」
清志郎も目を見開く。
「術式……って感じじゃねえべ……御伽話のようだべ」
レオは剣を握り直しながら、目の前の光景を見据えていた。
朱音は震えていた。
「……私の黒炎が……」
その顔に、初めて明確な恐怖が浮かぶ。
「そんな……」
だが、次の瞬間。
「海竜ぅぅぅぅッ!!」
朱音が絶叫した。
残された霊力を振り絞り、再び黒炎の蛇を生み出す。
「死ねぇぇぇぇッ!!」
黒炎の蛇が、あんずへと放たれた。
だが「あんず」は、動じることなく、ただ手を前へ差し出しすと蒼い水の波紋が、その掌から広がる。
蒼い衝撃波は黒炎の蛇を瞬時に消滅させ、朱音を直撃。
そのまま祭壇まで吹き飛ばされ、叩きつけられた。
「が……はっ……!」
朱音が血を吐きながら、ふらついて立ち上がるとその目の前に1人の男が立っていた。
バスタードソードを構えるレオだった。
「……これで終わりだ。朱音」
「……!」
朱音が目を見開く。
次の瞬間、レオの身体が踏み込むと、バスタードソードが、朱音の左胸へ深々と突き刺さった。
刃は身体を貫き、背中からその切っ先が突き出る。
「……っ」
朱音の口から、血が溢れた。
「ば……かな……」
震える瞳が、あんずへ向けられる。
「脆弱な……巫女が……」
血を吐きながら、言葉を絞り出す。
「……『神降ろし』……を……しているなんて……」
レオは無言のまま、ゆっくりと剣を引き抜くと朱音の身体から力が抜ける。
「……」
そして、前のめりに床へ倒れ完全に絶命していた。
レオは静かに剣を一振りする。
刀身に付着した血が、床へ飛び散った。
そして、倒れた朱音を見下ろす。
「……数馬や、お前が手に掛けた冒険者たちが待っている」
レオの声は、静かだった。
「彼らのいる、天に召されるよう祈りを捧げよう。だから、しっかりと向き合い、心から謝罪するんだ」
それだけを告げると、レオは両手を握り頭を瞑る。母国の女神信仰の形式で祈るのだった。
あんずと碧海龍命が向き合う。
そこにいたのは、もう禍々しい気配を纏った海竜ではなく、穢れが払われ、神気に満ち溢れ、本来の神威を取り戻した海竜そのものだった。
あんずの瞳が、大きく見開かれる。
「良かった……」
ぽろりと、涙が零れた。
「海竜さん、復活した!」
あんずは嬉しそうに駆け寄る。
「本当に良かった!」
その姿を見つめていた碧海龍命は、ゆっくりと身を屈めた。
巨大な顔を、あんずへと近付かせると大きな鼻先が、あんずの目の前に差し出す。
「あ……」
あんずは一瞬だけ驚いたが、すぐに笑顔になると、両腕を伸ばし、その鼻先へ抱きついた。
「えへへ……」
巨大な海竜と、小さな少女。
神と人。
あまりにも存在の異なる2人だったが、そこには不思議なほど温かなものがあった。
『……其方の曇りなき祈りが、我の穢れをすべて払った』
碧海龍命の声が、静かに響く。
『心から礼を言う』
「ううん」
あんずは首を横に振る。
「だって、アタシ海竜さんをお救いしたいだけだったんです」
『……そうか』
その声は、どこか優しかった。
その時だった。
碧海龍命の双眸が、ふと淡い光を帯びる。
そして、その視線があんずの胸元へ向けられた。
『……ほう』
「あれ?」
あんずも自分の巫女装束の胸元が淡く光っている事に気付く。
懐に手を入れると、光っていたのは、漁師から貰った木彫りの海竜の御守りだった。
取り出すと手の平に乗せ、海竜の前にかざした。
碧海龍命の双眸が、さらに強く輝くと、手の平のお守りから優しい蒼い光が溢れ出した。
「わ……」
光はゆっくりと宙へ浮かび上がると、粒子となり再び、木彫りの海竜の御守りを包み込む。
あんずは驚きながら、そっと御守りを見つめた。
「わあ……凄くキレイ!」
木彫りだったはずの海竜の身体に、淡い蒼い光が宿っている。
まるで、小さな木彫りの海竜の中に、本物の生命が息づいたかのように。
『この御守りに、我が神威を宿そう』
あんずは、目を丸くした。
『これは、其方の祈りと、我が神威を結ぶ依代なり』
「……海竜さんの?」
『うむ』
碧海龍命は、優しく微笑むように目を細めた。
『我が神域より離れようとも、其方の祈りが届く限り、我もまた其方を見守ろう』
「……じゃあ、海竜さんとは、これからもご一緒なんですね!」
あんずの顔に、ぱっと笑顔が咲く。
『……ああ』
碧海龍命は、穏やかに目を細める。
『我らは既に、縁を結んだ』
「嬉しい……凄く嬉しい」
あんずは御守りを胸元へ抱き寄せる。
「大切にします」
『……我もまた、其方を大切にしよう』
あんずの瞳から、また一粒の涙が零れた。
けれど今度の涙は、悲しみのものではない。
「……はい!」
深淵に響いた少女の返事に、碧海龍命は満足げに頷いた。
蒼い神域に満ちていた光が、ゆっくりとあんずを包み込んでいく。
遠くから、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえ始めた。
「……向日葵ちゃん?タケくん?キヨくん?」
あんずが振り返るとそこには、もう深淵の闇はなかった。
ただ、果てしなく広がる蒼い海と、静かに佇む一柱の神。
『行くがよい、あんず』
その声は、優しかった。
『其方を待つ者たちのもとへ』
「……海竜さん」
あんずは振り返り、もう一度だけ笑った。
「またね」
『ああ』
蒼い光が、2人の間を包み込む。
『また、いつの日か』
その言葉を最後に、あんずの意識は静かに現世へと還っていった。
「あんず!ねえ起きて!」
向日葵の声が響いた。
「モフ子!おいっ!目ぇ覚ましやがれ、コノやろう!」
武三郎も、あんずの肩へ手を伸ばす。
「おい、モフ子! 頼むから起きてけろ! なあ、目ぇ開けてくれっ!」
清志郎の声は、普段より明らかに上ずっていた。
レオも険しい表情で呼びかける。
「あんず!俺達はここにいるぞ!戻ってこい!」
「あんず殿!目を開けよ!あんず殿!」
樹玄も必死に声を掛ける。
幾つもの声が、遠くから聞こえてくる。
暗い海の底から、ゆっくりと浮かび上がっていく心地良い感覚であった。
あんずの指先が、僅かに動く。
「……ん」
ゆっくりと瞼が開いた。
「……あれ……?」
ぼんやりと瞬きをする。
最初に目に入ったのは、心配そうに覗き込む向日葵の顔だった。
「……向日葵……ちゃん?」
「……あんず!」
向日葵は思わずあんずの両肩を抱き寄せた。
「大丈夫!?私が誰か分かる?」
「う、うん……」
あんずは小さく頷く。
そして、自分の手をじっと見つめた。
「……アタシ……いま」
声は震えていた。
けれど、意識ははっきりしている。
「……戻ってきた……?」
「そうよ」
向日葵は、あんずの肩を強く抱いた。
「ちゃんと戻ってきた」
その言葉を聞き、あんずは笑顔を向けた。
「……そっか」
武三郎は、ふっと息を吐いた。
「……ったく。心配かけやがって、モフ子ぉ!ギルド帰ったら一杯奢れよ」
「ほんとだべ……」
清志郎も目元を拭いながら、鼻をすすった。
「もう、いなくならねぇでけろよ……」
「うん……タケくんも、キヨくんも心配かけて本当にごめんね」
「せっかく出逢えたのに、見送り側になるなんてゴメンだぞ。無事に戻ってくれて良かった。」
レオは大きい手であんず髪をわしゃわしゃ撫で回すと、その後ろで樹玄も微笑んだ。
「皆、無事で何より。其方との縁は始まったばかり。退場なんてさせまいぞ」
戦いの終わった玄室に、ようやく、仲間たちの温かな空気が戻ってきた。
向日葵は涙を浮かべながら、あんずを抱きしめた。
あんずも、その胸に額を預ける。
「おかえり、あんず」
「ただいま……向日葵ちゃん……」
第9話、最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
今回は……長かったです!文字数も自己最長記録です。
次回はもうちょい短めにしないといけないと、反省しきりです。
なんと戦闘の終盤まで駆け抜けていったので、読まれた読者の皆様も大変お疲れさまでした。
書いている本人としても、
「……あれ?まだ終わらないぞ?」
となりながら、ひたすら物語をまとめていました(笑)。
戦闘シーンだけでなく、朱音との決着、海竜との邂逅、そしてあんずの内面まで描きたいことが多く、削るところと残すところのバランスにかなり苦労した回でした。
ですが、その分、第9話はこの物語にとって大きな発展になったと思っています。
そして何より。今回、あんずの「神降し」を初めてお披露目することができました!
これまでのあんずは、怖がりで、自分に自信がなくて、仲間に支えてもらいながら冒険を続けてきた巫女です。
そのスタンスは今後も変わりませんが、そのあんずが、海竜の苦しみに触れた時だけは、自分の恐怖よりも「助けたい」という気持ちを選びました。
本人には、まだ自分が何をしたのか?したいのか?完全には理解できていません。
神降しの間は、記憶も曖昧です。
けれど、あんず自身の「誰かを救いたい」という純粋な祈りが、海竜との縁を結ぶきっかけになりました。
今回の神降しは、あんずが突然強くなるとか、無敵になるのではなく、あんず自身の優しさが、神威という形になって現れた。
そんなイメージで描いています。
あんずはあくまで、一般人の女の子であり、冒険者であり、巫女なので主人公とはいえ、変に特別な扱いはせず、常に仲間とスクラム組んで、困難に立ち向かう。そんな作品にしたいと思う次第です。
そして、第9話を書いていて改めて感じたのが、あんずには本当に頼れる仲間たちがいるということでした。
向日葵は、あんずを心配しながらも冷静に戦況を見て、術式を組み立てる。
武三郎と清志郎は、10代の男の子らしい危なっかしさもありつつ、仲間のために危険を承知で前へ出る。
樹玄は、仲間を守るために法力を張り続ける。
そしてレオは、仲間たちの力を信じながら、最後まで前線で戦い続ける。大人な感じのクールガイ?
一人では届かない場所でも、六人なら届く。
今回の戦いは、そんな「仲間」というものを強く意識した回でもありました。
特に、あんずが意識を失った時に、みんなが必死に呼びかける場面を書いていると、
「ああ、この子は一人で戦っているんじゃないんだな」
と、作者自身も改めて感じました。
怖がりで、泣き虫で、時々逃げ出してしまう。
それでも、あんずの帰る場所には、いつも仲間たちがいる。
そんな関係を、これからも大切に描いていきたいと思っています。
そして、海竜との間に結ばれた新たな縁。
あんずの胸元に宿った小さな海竜の御守りが、これからどのような意味を持っていくのか。
そこも楽しみにしていただけたら嬉しいです。
長くなった第9話でしたが、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
ここまで読んでくださった皆様に、心から感謝いたします。
それでは、また次のお話でお会いしましょう。




