第99話 信じる優しさと、沈黙する優しさ
食堂に灯が入り、夕食の匂いが満ち始めても。
アンリエッタさんの姿はなかった。
空になった彼女の席が、僕の心をどうしようもなくざわつかせる。
「……探しに行ってきます」
僕がそう呟くと、隣でミゲルさんがすっと立ち上がった。
「私の責任でもあります。私もご一緒に」
「待ってミゲル君、君はここにいて」
彼の申し出を、マリーさんのどこまでも静かな一言が制した。
彼女は大きな緑の瞳で、僕のことだけを真っ直ぐに見つめている。
「一人で行かせてあげて。お願い」
「マリアンヌ殿……わかりました」
その言葉の意味。
それがわからないほど、僕は馬鹿じゃない。
僕は二人に一度だけ深く頷くと、一人、夜のグリザイユの街へと駆け出した。
駆けても、駆けても、あの女性は見つからない。
土地勘が絶望的に無いせいもあるだろう。
息が上がり、ほんの少しの休憩を求めて広場の椅子へ向かった時。夕暮れの茜色と夜の藍色が混じり合う公園の片隅で、僕は彼女を見つけた。
それは本当に、幻想的な絵画のようだった。
大きな噴水の縁に腰を下ろすアンリエッタさん。
その肩や膝、差し出した手のひらの上にまで、沢山の小鳥たちが彼女を慕うかのように集っている。
森の小さな命たちだけが、懸命に彼女を受け入れている。
そんな、美しくもどうしようもなく寂しい情景に、僕の胸が強く締め付けられた。痛いほどに。
僕は彼女の聖域を壊さないようにと、そっと一歩、また一歩と近づいていく。
けれど、突如現れた無粋な客のせいで、小鳥たちが一斉に夜の空へと羽ばたいてしまった。
「……アンリエッタさん」
「フェリクスさん」
僕は彼女の横に、ただ立ち尽くす。
言いたいことは山ほどあるはずなのに、言葉が出てこない。
彼女と話すためなら、いくらでも回ったはずの口は、肝心な時にてんで役立たずだった。
それでも、せめて。
僕がこの手で傷つけてしまったことだけでも、謝らなければ。
そうだろう?
「……ごめんなさい。本当にごめんなさい。僕が、あまりにも子供で……アンリエッタさんを、いっぱい傷つけた」
僕の魂からの謝罪が、どうか彼女の心に、少しでも届きますように。
その願いも虚しく、彼女は静かに首を横に振るだけ。
美しかったその顔は、今や泣き出しそうに、痛々しく歪んでいる。
「……いいえ。悪いのは私の方なのです」
か細く、震えるような声が僕の耳に痛い。
「貴方が、あんなにも知りたいと願ってくれたのに。それを語れない私が、悪いのです」
彼女を包む、あまりにも痛々しい雰囲気の理由。
それが僕には、どうしても分からなかった。
「……名前の話なんて、するべきじゃありませんでしたね」
彼女が、そう、後悔の言葉を口にする。
その裏にある、彼女が一人で抱え込む、深い、深い、闇の正体を。
僕はまだ、何も知らなかった。
「もしかして、僕のことが……嫌いに、なりましたか?」
口にするのも恐ろしい、心臓が凍りつくような言葉。
けれど知りたかった。
なぜ、最後の最後でいつも僕を拒否するのか。その理由を知りたくて、僕はまた、踏み越えてはいけない一線を、自ら踏み越えてしまっていた。
「……いいえ」
その答えに、心の底から安堵する僕がいる。
でも、肝心の答えは遠ざかるばかりで……。
「じゃあ、僕のことをどう思っているのですか。聞かせてくれませんか、アンリエッタさん。僕の気持ちは、あの頃から今も変わっていません」
「……ごめんなさい」
「違う。そうじゃない。謝って欲しいんじゃない。……お願いだから、せめて。好きか、嫌いか。ただそれだけでいいんです」
まただ。僕の、あまりにも子供じみた懇願が止まらない。
いつもこれで、彼女を苦しませるのに。
その問いにアンリエッタさんは一度、ぎゅっと唇を噛み締め、絞り出すように囁いた。
「……好き、です」
「じゃあ、なんで……っ!」
僕の悲痛な叫び。
渇望と悲鳴のじみた声が、夜の静寂へと吸い込まれていく。
それを彼女は、どこまでも悲しい瞳で受け止めるだけだった。
僕はもう、何も言えなかった。
その沈黙こそが、答えそのものであるかのように重くのしかかってくる。
やがて、僕の口からぽつりと、諦めにも似た言葉がこぼれた。
「……何かが、僕には、足りないんですね」
「違います」
彼女はそれを、きっぱりと否定した。
「全ては私が悪いのです」
そこにはもう、何の言い訳も弁明もない。
変えることのできない運命そのものを突きつけられたかのような、絶対的な拒絶の響きだけが、僕たちの間に横たわるのみ。
「こんな私でもよければ、貴方の側にいたい。……だめですか?」
「だめな訳がない。だって、僕はいつだって、それを望んできたのだから」
「……僕は、アンリエッタさんの本当の名前が知りたかっただけなんだ」
僕は続ける。これが僕の本当の想いだから。
「でもそれは、貴女が話したいと思う時まで待ちます。貴女が僕を、その資格がある人間だと認めてくれる日まで、いつまでも」
「貴方には、貴方に向いた……いえ、いいです」
「アンリエッタさん、続けてよ」
それきり、彼女からの返事はなかった。
僕は、何を間違えて、何が足りないというのだろう。
いいさ、分からなければ、分かるまで探し続けてみようじゃないか。
僕の前世と今世。
二世代かけて、やっと見つけた女性なのだから。




