第32話 マリアンヌ
僕たちの息の合った連携の前に、視界内のゴブリンたちは全て地に伏し、ピクリとも動かなくなった。
辺りには夥しい量の血と、むせ返るような臓物の生臭い匂いが立ち込めている。
……勝った。アンさんとの初のパーティーは及第点どころか、満点と言って良い出来と思えた。おっと、こういう戦闘が終わった瞬間の、緊張が緩んだ時間帯が一番危ないのだと、父さんが口を酸っぱくして教えてくれていたのを思い出す。
僕は気を引き締め直し、まだ息のある残敵がどこかに潜んでいないかどうか、周囲の茂みや、集落の中に点在する数棟のボロ小屋の中などを、念入りに調べていく。
うわぁ、この小屋、中は絶対に酷い臭いがするよ……。
それはもう確認するまでもない。まだ外だというのに、既にとんでもない異臭が漂っているのだから。
現代日本人であった僕が、この異世界へ来てから一番嫌だと感じる要素ランキングの、間違いなく上位には、この耐え難い「匂い」が入ると思う。
風呂(この世界では湯浴み、水浴びか)に毎日どころか全く入らない奴、そもそも顔を洗っているのかすら怪しい者。一体いつ洗濯したんだそれ? というレベルの汚れた服を平気で着る輩が、この世界には残念ながらいるんだよ。
はぁ……。でも、確認しないわけにはいかないよな。
泣く泣く覚悟を決め、一番大きな、扉さえも無い小屋の中へと足を踏み入れる。
──すると、やはりいた!
奥の薄暗い隅に息を潜めて隠れていたゴブリンが!
「ギャアアア!」
僕の姿を認めると、そのゴブリンは最後の抵抗とばかりに、錆びついたナイフを手に、甲高い奇声を上げて、今にも僕に飛びかからんとする。
その必死な形相のゴブリンの後ろには、怯えたように互いに身を寄せ合う、さらに小さなゴブリン……おそらく、奴の子供たちの姿が見えた。
「子供か……」
「フェリクス君、どうしたの?」
僕が小屋の入り口で立ち止まり、逡巡しているのに気づいたのか、アンさんが心配そうに声をかけてくれる。
彼女は既に他の小屋の確認を終えたようだった。
「いえ、その……どうやら奥に、子連れのゴブリンがいるようなんです」
僕がそう言うと、アンさんは何も言わずそっと僕の隣に立って、静かに弓に矢を番えた。そして、僕が反応するよりも早く、番えた矢を躊躇うことなく立て続けに放っていく。
それは通常の、狙いを定めた射撃とは違う、所謂速射という高等技術。
ヒュヒュン、という短い風切り音と共に、僕に襲い掛かろうとしていた親ゴブリンと、その背後で怯えていた子供たちの胸を、正確に矢が貫いた。
ドスン、という音と共に、彼らは声もなく床へと崩れ落ちる。
「…………」
僕はそのあまりにも迅速で、冷徹な一連の動作に言葉を失ってしまう。
「……冷たい女だって、思わないでほしいの」
静寂の中、アンさんがぽつりと呟いた。その横顔はどこまでも美しく、けれど深い哀しみと諦観を湛えているように見えた。
「ここで生かしておいても、彼らは結局、人を襲うことを覚えて育つわ。親を殺された恨みを抱いてね。そうなったらいずれ、今よりもっと大きな脅威となって、またどこかで誰かを不幸にするの」
彼女の言う通りだった。
人に害をなす以上、子供であろうと容赦はできない。
「むしろ、僕が自分でやるべきことでした。僕が躊躇ったせいで、アンさんに、こんな嫌な役回りをさせてしまって、本当にごめんなさい」
「フェリクスくん……」
そうだ。嫌なことから目を背けて、それを人に押し付けてしまうなんて最低だよ。
アンリエッタさんと再会できた時、胸を張れるように。僕は、もっと強く、そして時には非情になれる覚悟を持って、この世界を生きていかなければいけない。
パキッ──
不意に、小屋の外から誰かが小枝を踏みしめたような、乾いた音が聞こえた。
「!?」
生き残りがまだいた?
あるいは、別の新たな敵でも現れたのか?
瞬時に気持ちを切り替えて、僕とアンさんは警戒しながら小屋を飛び出し、音のした方向へ鋭く視線を向ける。
どこだ? どこにいる?
「誰だ! えっ……」
「どこ? 相手は? 敵なの?」
なんだ今のは?
一瞬、木々の間に人影のようなものが見えた気がした。
それが、まるで陽炎のようにゆらりと輪郭を揺らめかせたかと思うと、次の瞬間にはふっと黒い靄と化し、周りの影に同化するように消え失せてしまったのだ。
用心深く、辺りをもう一度見回しても、そこにはもう何も存在せず、ただ不気味なほどの静寂が、森の中に広がっているばかりだった。
「フェリクス君?」
「あの……人影が見えた気がしたんです。だけど、すぐに消えてしまって。どうやら、気のせいだったみたいです」
アンさんが、少し首を傾げながら言った。
「そう、何だか気になるわね……。でも私には、人がいるようには見えなかった。まあ、森には色々な動物もいることだし、その類だったのかもしれないわね」
なら、いいのだけど。なんだろう。
この妙に胸騒ぎがするような、すっきりしない感覚は。
結果残敵もおらず、新たな敵も現れないと知ったいま、僕たちは黙々と戦後処理を始めていた。先ほどまでの戦闘の興奮と緊張が冷め、今はただ、この陰鬱な作業に集中している。
気分を少しでも紛らわすためなのか、作業の最中、アンさんが突拍子もないことを僕に聞き始めた。
「ねえ、フェリクス君。昨日、応接室で話してくれた、キミのとても大事な女性のことなんだけど。差し支えなければ、名前教えてくれる?」
アンさんの言葉に、魔石を取り出す作業の手が思わず止まってしまう。
僕はすぐに、彼女へ問い返した。
「名前、ですか?」
「うん」
まあ、名前くらい、別に教えても問題はないよね。
この世界に、個人情報保護法案なんて気の利いたものがあるとも思えないし。
「えっと、アンリエッタさん、と言います」
「アンリエッタさん。そう、素敵な名前ね。ありがとう、覚えておくわ」
そう言うと、アンさんは一瞬、何かを深く思案するような表情を見せる。
「ふふ、なんだか私の愛称と似ているわね」
「え? 何がですか?」
「だからね、フェリクス君とは、なんだかこれから長いお付き合いになるような気がするし、この際だから、私の呼び方を変えてもらおうかな~、なんて」
あ、これって、もしかして前に僕も一人で勝手に考えていた、アンリエッタさんと、アンさんの名前が似てるって、あのことかな?
ぷっ、まさか彼女も同じようなことを考えたなんて。なんだかおかしいや。
「でも、アンさん以外に何て呼べば」
もしかして、アンって僕のコンスタンツェと同じで、家名だったりするのかな?
はっ!? まさか『たわわさん』と呼べと??
いや、さすがにそれは無理でしょ。むりむりむり、呼べません。
「こ、断っておくけど、別にアンリエッタさん? に取って代わろうとか、二人の邪魔をしようだとか、そういうつもりは全く無いから、安心して頂戴」
アンさんが、少し慌てたように付け加える。
「はぁ、それはわかってますけど」
そりゃまあ、そうなんでしょうし、当然そうあるべきだとは思う。
それでも、いざ面と向かってそう言われると、期待していたわけでもないのに、ちょっとだけ心が曇るような気分にはなるよ。
待って、そもそも何を落ち込んでいるんだろう、僕は。
前世でただの一度もモテたことがない男が、異世界に来たからといって急にモテる訳がないのだ! ふっ、 そうさ、これが僕クオリティ。
「あれ? ちょっと残念だったりするの?」
「そ、そんなこと、ありませんよ!」
「照れちゃって、もう」
アンさんが、心底楽しそうに笑っている。
なぜ僕の周りの素敵な女性たちは、いつも僕を揶揄うのだろうか……。
誰か教えてぇぇぇ。
「実はね、私の名は、マリアンヌと言うのよ」
「ええっ!? アンさんが、名前じゃなかったのですか!?」
まさかの、衝撃的なカミングアウト。
これは、本当に驚いた。「アン」がまさかの愛称だったなんて、露ほども思っていなかったよ。
「そうなのよ~。アンっていうのはね、ギルドの皆がいつの間にか言い出して、それがなんとなく定着しちゃっただけの、ただの愛称なのよ」
アン……いや、マリアンヌさんは、少し申し訳なさそうに、ぺろっと舌を出して苦笑いする。
「そうだったんですね……全然知りませんでした」
「そりゃそうよ、キミ、最近ギルドに来たばかりじゃないの。ふふ」
「では、これからはマリアンヌさん、と、呼ばせていただきますね」
僕が改めてそう言うと、彼女はまた少し考える素振りを見せる。
「うーん、マリアンヌかぁ。それだと、なんだか少し堅苦しい感じがするし、それにちょっとだけ、長くない?」
「そう、ですかね?」
「ええ、そうよ。だからね、もっと気軽に、マリーって呼んじゃってよ」
……これは、あれかな? 女性にありがちな、実は既に自分の中では結論はきっちり出ていて、ただ相手には同意だけを求めているという、あの黄金パターン?
マリアンヌは五文字で、アンリエッタは六文字なのだから、「長い」どころか気持ち「短い」気がするのだけど……。まあ、本人が「マリー」と呼んでほしい、そういうことなんだろうな。郷に入っては郷に従え、だ。
「わかりました、マリーさん」
僕が、少しだけ照れくささを感じながらも、そう呼んでみると、
「改めて、よろしくね」
アンさん、もといマリーさんが、ぱあっと花が咲いたように、何とも嬉しそうに微笑んでくれた。
今日この時から、僕は彼女のことを「マリーさん」と呼ぶことになるのだろうけど。うーん、これはこれで、一つ大きな問題が……。
冒険者ギルドに戻った時、どうすればいいのだろう。
うっかり皆の前で「マリーさん」なんて呼んでしまった日には……ゴクリ。
あの、マリーさんファン倶楽部(仮称)の、熱狂的な男たちの嫉妬と怨嗟の視線が、今から目に浮かぶよ。
僕はほんの少しだけ、自分の未来に一抹の不安を覚えるのだった。




