第21話 旅立ち
◆ ◆ ◆ ─ Anrietta side ─
──商人ギルド
有体に言えば、それは商売上の利益や相互扶助を目的として結成された、同業者たちのための組合である。
市場価格の安定化を図り、商品の品質や職人の技術水準を維持向上させること。時には、都市間の安全な交易路の確保や、必要とする者へは顧客を斡旋することも。
それらの一つ一つが、表向きには、このギルドに求められた社会的な役割とされている。
だが、光差すものには影がある。
明と暗、陰と陽。
使い古された感のあるこれら言葉こそ、いわば人間社会の摂理であり、それは、この商人ギルドにとっても決して例外ではなかったのだ。
——人の斡旋。これらは、一部の富裕層からの根強い需要(あるいは、時には圧力と呼ぶべきもの)に応じる形で、このギルドが古くから水面下で行ってきた、悪しき慣習の一つとなっていた。
彼らの主要な取引先である大商会や、貴族に、地方領主たち。時には、それらよりもさらに高位の大貴族や、果ては王族までもが、特別な技能や資質を持つ「優秀な人材」を求めて、彼らの門を密かに叩く。
求められる人材は様々だ。
学問に通じ、高い計算能力を持つ士君子。
家柄良く、深い教養を身につけたる者。人目を引くほどの類稀な美貌を持つ子女や、あるいは閨での奉仕に長けた女という事例もある。
元々のニーズに加え、顧客の歪んだ欲望や、倒錯した嗜好までもが複雑に絡み合い、求められる「人材」の要望は多岐に渡っていく。
ギルドは、そうした表沙汰にはできない様々な需要に応えるため、常に「商品」となりうる有望な人材を探し、求めていた。
時には幼い頃から目をつけ、養い、必要とされる教育を施し、望ましい形へと育て上げることも。そうして完成した「商品」を、「適正な価格」で売り捌くのだ。
それらは顧客との特別な関係、いわば太いパイプとなって、より大きな商機会へと繋がっていく。
彼ら(彼女ら)は、法的には決して「奴隷」ではない。
しかし、その実態は、自由意志を奪われ、売買や賃借の対象とされる「商品」であることに、何ら変わりはなかった。
奴隷ではないゆえ、手足に鎖を繋がれたり、薄汚い地下牢に閉じ込められたりすることはない。最低限の清潔な衣服と、健康を維持するための食事、そして雨風をしのぐ寝床は与えられる。
商品価値を高めるために必要とあらば、教育の機会すらも……。
ただし、その首には必ず、魔法の一切が使えないようにする特殊な魔道具の輪、所謂——魔封じの首輪を嵌められる。もし、その者が高い身体能力や剣技に長けている場合は、さらに弱化させる首輪を重ねて嵌められることもあった。
気の毒なことに、彼らはこのギルドが管理する、外見こそ立派だが実態は監獄同然の屋敷から、許可なく一歩たりとも外に出ることは叶わない。
万が一にも無断で外へ逃れようものなら、その場で捕らえられ、見せしめとして容赦なく殺される。ただ、それだけのこと。
それが、この場所に囚われた「商品」たちに課せられた、絶対の掟。
そこには、一切の情状酌量の余地など存在しなかった。
「この女、やっぱり何度見ても美人ですなぁ。なあ、ロルフさんよ、ゲハハハ」
「まあな。エルフの中でも、確かに上玉の部類だろうな」
「でしょう? こいつはなかなかの掘り出し物じゃねえですか。なあ、ロルフの旦那、たまにはいいじゃねえですか、ちっとくらい息抜きにハメを外してよぉ。こいつで憂さ晴らしでも、やっちまったらダメですかい? どうせ次の買い手が見つかるまでの間、ここに置いとくだけなんでしょ?」
すぐ側で交わされる、聞くに堪えない下卑た男の笑い声と、粘つくような視線。
その恐ろしい一言一句が、アンリエッタの耳に突き刺さり、彼女は全身の血が凍るような恐怖に襲われる。
コンスタンツェ家で使用人として働くことになる前にも、アンリエッタはこのギルドの施設に身を置いていたことがある。
かつて聖樹の守護者であった母が亡くなり、フィンデルの森を追放された彼女は、人間社会で生きていく術を持たなかった。そのため、メイド、あるいは貴族の護衛としての基本的な行儀作法や礼節、そこに軽度の家事を学ぶため、一時的にここに預けられていた時期があったのだ。
「あの頃は、こんなにも下品な方はいなかったのに……」
アンリエッタは誰にも聞かれないように、そっと小さく呟いた。
確かに、そうなのかもしれない。
ただ、彼女は、ある事実に気づいてはいなかった。
あの頃のアンリエッタは、エルフの里からも、そして人間社会からも拒絶され、世の中の全てを諦め生きる希望を失っていたことを。
今や、輝かんばかりの光を放つ蒼玉は翳り、くすみきり。彼女が「宝物」と言った、あの金髪の優しい少年が「神々が造りたもう芸術品」とまで評した、美しい肢体はかけらもなく、酷く痩せ細り、ぼろ切れのような服を纏う哀れな少女でしかなかったのだから。
つまり、あの頃のアンリエッタは、愚かで下卑た男たちの食指が動く対象とすら、なり得なかったということを……。
成長したアンリエッタは、その後、いくつかの奉公先を渡り歩く。
今の彼女を知る者は想像すらつかないだろうが、まだまだ若く、あらゆる面で未熟な、口数の少ないハーフエルフの使用人に世間はとても厳しく、辛くあたる。
それでも季節は巡り、時は移ろいゆく。
やがて、ついに……。彼女を一人の人間として、温かく迎え入れてくれる家が現れたのだ。
そこは、王国の最も北方。
どこまでも広がる魔の大森林と、険しい山々が連なる連峰との間に、僅かに広がる隣国との国境線。国境と魔の大森林への防衛の要として建てられし城砦リヨン。
そのさらに東部、まさに辺境の中の辺境といっていい土地にあった、小さな「コンスタンツェ騎士爵家」。
その家が彼女にとって、生涯初めて訪れる、心からの安息の地となったのだった。
長子フェリクスや、その両親であるアドリアンにエミリー。そして、優しい先輩オデット。決して裕福ではない、家人の少ない小さな家だったけれど、そこには……家族のような温かい優しさと、穏やかな時間が流れていた。
その地で、当たり前の、ささやかな幸せを知ってしまった彼女の心は、以前とは比べ物にならないほど、脆く、弱くなってしまっていた。
「おい、ハーフエルフ。いくらでなら、俺に『奉仕』してくれるんだ? なあ、聞いているのか?」
「…………」
男が、さらに下卑た笑みを浮かべて近づいてくる。
「いい加減にしろ、何をやってやがる。売り物に手を出そうとするのを、ただ許す商人がいると思うのか?」
「へっ、でもよぉ、ロルフの旦那。ちゃんと金は払いますぜ? ダメですかい?」
「ダメに決まってるだろ。いいか、そういうのはこいつの仕事じゃねえ。それにな、変なちょっかいを出してみろ。それこそ、あの坊主に本気で殺されるぞ?」
「あの小僧が俺を? 一体どうやって?」
「さあな。だが、あの坊主なら、全てを捨ててでもやるかもしれん」
ロルフと呼ばれた男性が呆れたように、でも、どこか真剣な眼差しで、下卑た男を諭している。
……ぼっちゃま、いいえ、フェリクス様との、先日のやり取りを見ていて感じたのだけれど、このロルフという男性はまだ少しだけ、話が通じる人間なのかもしれない。私は絶望的な状況の中で、その男性の横顔をただ見つめていた。
「あれはただの子供じゃねえぞ。相当やる奴とみたね。本気で斬り合うことになったら、お前みてえな半端者じゃ、まず勝てねえだろうな」
「……へっ、黒は縁起が悪ィって言いますしね。チッ、分かりましたよ。我慢しますよ、と」
「ああ、そうしろ。賢明な判断だ」
「あー、くそっ。つまんねえな、まったく」
男はじろりと、私を最後にもう一度、穢らわしい目つきで睨めつけると、近くにあった椅子を腹いせのように蹴り倒し、悪態をつきながら渋々と、この部屋から立ち去って行く。
はぁ。まるで欲に塗れた、獣みたいな……人。
……気持ち悪い。心の底から、吐き気がするほど気持ちが悪い。
ここ何年も、──コンスタンツェ家で過ごした穏やかな日々の中では、決して心に生まれることのなかった、強い嫌悪感と、身の毛もよだつような恐怖。それに全身を支配され、アンリエッタはただ、その場で力なく蹲るしかなかった。
──あの少年が、少しずつ成長していく中で。アンリエッタの胸元や脚に、時折、戸惑うような、それでいて隠しきれない純粋な好奇心に満ちた視線が向けられることがあるのを、彼女はちゃんと気づいていた。
女性とは、男性が思っているよりもずっと、そういう視線には敏感なものなのだ。(どうか、世の全ての男性諸君は、そのことをゆめゆめ忘れないように)
でも不思議と、あの子の視線は、ただの一度も嫌だと感じたことはなかったの。むしろ、少しだけ、胸の奥がくすぐったいような、不思議な気持ちになることさえあったの。
あの愛らしい少年には、さっきの男のような、いやらしさや下卑た欲望のかけらは、微塵もなかったから。
私の側にいて、いつも屈託なく、心の底から本当に幸せそうに笑ってくれる。純粋で、優しくて、そして少しだけ生意気で、ちょっぴり好奇心旺盛な少年。
こんな、エルフでもなく、人間でもない、汚れた混じり物の私でも知っている。年頃の男の子というものは、異性の体に興味を持って当たり前なのだと。
私の、大事な、大事な、宝もの。
あの、小さかった私の騎士様は、あの頃よりもまた少し頼もしくなっていた。
ぼっちゃま……。
……フェリクス様。
フェリクス……。
私の、可愛い……おとう、と……?
◆ ◆ ◆ ─ Felix side ─
放棄するように残された、数枚の簡素な仕事着と洋服。
急いでいた彼らは、彼女に自分の荷物をまとめる時間すらも与えず、無理やり馬車へと乗せて、連れ去ってしまったから。
情けない奴だと思いつつも、僕は昨夜、ただ彼女の温もりと安らぎを追い求め、残された服を胸に抱きしめて眠ってしまった。久しぶりに、深く、そして穏やかな眠りにつくことができたような……。
夜が明け、顔を洗い、冷たい水で気合を入れ直す。
それから僕は居間へと戻り、これから始まるであろう、先の見えない長い旅立ちの準備を始める。
物置の隅から、父さんが昔使っていたという、大きな背負い袋を取り出す。
そこへ、昨晩見つけたアンリエッタさんが残していった服を、一枚一枚丁寧に、彼女を想いながら、出来るだけコンパクトに畳んで、袋の奥の方へと大切に仕舞った。
これから先の厳しい旅で、荷物になるのは分かっているさ。
でも、これをこの家に置いていくことなんて、僕には到底できなかった。彼女の温もりが、まだこの布地に微かに残っているような気がしたから。そして、いつか必ず、この手で彼女を取り戻すという、僕自身の、決して揺らぐことのない誓いの証として。
それからは、家に残されていた僅かばかりの保存食と、子供の頃から少しずつ貯めてきた小遣いを革袋に入れて、父さんが若い頃に使っていたという、胸当てや籠手など、少し古びてはいるものの、まだ十分に僕の身を守ってくれるであろう防具を身につける。
そして最後に、生まれ変わった父の魂が宿る刀を腰に佩いた。
振り向くと、思い出の塊であった我が家が見える。
本当に、良い思い出ばかりだったよ。みんなありがとう。
でも、もうあの家に父は帰らず、焦がれるあの女性もいない。
ただ母に会いたくなれば、祖父のところに赴けばいい。
思い出に生きるにはまだ早い。
彼女を救うためなら、僕は何だってしてみせるさ。
乗合馬車の乗り場へ 向けて、フェリクスは一人歩き出す。
黒曜の髪 蒼玉の瞳 転生医師の異世界奮闘記
─ 第一章、転生で初めて人の温もりを知る完 ─
─あとがき─
第一章「転生で初めて人の温もりを知る」、お楽しみ頂けましたでしょうか。 ここまでお付き合い下さった皆様、本当にありがとうございます。
孤独だった主人公が、異世界で初めて人の温かさに触れる姿を描いた第一章でした。彼がこれからどのように、この世界で生きていくのか。彼はアンリエッタを取り戻すことができるのか、第二章でさらに深く描いていきたいと思っています。
十分に書き溜めておりますから、そうお待たせすることなく、二章も開始させて頂きますものの、誰の反応も得られませんと、この物語が面白いのかどうか悩んでしまいますし、モチベーションに繋がりません。
ですから、もし、この物語を「面白い」「続きが気になる」と感じていただけましたなら、★★★★★のご評価やブックマークー、レビューに感想など足跡を残していただけると嬉しいです。皆様の声が何よりのやる気に繋がります。
引き続き第二章も精一杯お届けしますので、どうぞ応援よろしくお願い致します。
─神崎 水花




