第16話 ついに届いた手
その後、僕は興奮冷めやらぬ騎士や兵士たちに散々もみくちゃにされ、息つく暇もないほどの怒涛の質問攻めにあってしまう。
「最後の一撃はどうやったんだ。見えなかったぞ!」
「あの独特の構えには、どんな意味があるんだ?」
などなどと、それこそ質問が山のように……。
思いのほか脇腹のダメージが酷そうだった対戦相手のミゲルさんに、申し訳ない気持ちで治癒魔法を施すと、今度は、
「なっ……怪我が一瞬で治っただと!?」
「おい、こいつ治癒魔法まで使えるのかよ!」
と、そこでまたもう一度、さらに大きな歓声と共に、今日何度目か分からない注目を浴びては、騒がれる羽目となってしまった。
このままでは、いつまで経っても騒ぎが収まりそうにない。そう察した父さんが、半ば強引に、しかしどこか誇らしげな顔で、僕とアンリエッタさんを練武場に隣接する小部屋へと連れて行ってくれたので、正直かなり助かったよ。
普段絵に描いたように穏やかで、牧歌的なコンスタンツェ領で暮らしている僕たちにとって、あの喧騒は、なんだかちょっと慣れないものがあったから。
父さんは厳しい顔つきのまま、その小部屋の扉をバタン! と勢いよく閉めた。その剣幕に、やっぱり稽古とはいえ、騎士見習いを打ち負かしたのはまずかったかな? と、僕が内心で反省しかけた、まさにその瞬間。くるりとこちらに振り返った父さんの顔は、もう既に満面の笑みでくしゃくしゃに破顔していた。
「ほらみたか! 言っただろ。やっぱり、うちの息子はすげーんだ!」
バンバン! と痛いくらいに何度も僕の肩を力強く叩き、しまいには、
「よくやった! フェリクス!」
と力いっぱい抱きしめられる。
ちょっ、父さん、嬉しいのは分かるけど、力が強すぎて痛いって!
「いやぁ、実に愉快、愉快! はっはっは、こんなに嬉しい日は無いぞ!」
まるで子供のようにはしゃぎ、喜びを爆発させる父。
そんな父子の様子をアンリエッタさんが、いつもの穏やかな、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、静かに見守ってくれていた。あの蒼い瞳が、とても優しく細められている。
「アンリエッタ、本当にありがとう。君が普段から、この息子のことを何かと気にかけてくれて……。時に厳しく、時に優しく、良く指導してくれていたのを、俺もちゃんと知っているぞ。本当に、心から感謝している。これでコンスタンツェ家は安泰だ。この子はきっと、大きく羽ばたいてくれるだろう」
父さんが、感極まったような声で、心からの感謝の気持ちと、アンリエッタさんへの最大限の信頼と賛辞を贈る。
「いいえ、ご主人様。私など、お礼を述べられるほどのことは、何も……。ぼっちゃまは、ご自身で弛まぬ努力を惜しまず、これほどの素晴らしい才能と力をお持ちでありながら、決して増長されることはなく、いつも誰に対してもお優しくて……。むしろ、そんな彼の側にこうしていられることを、私の方こそ、心から感謝しております」
少しはにかんだあと、とても真っ直ぐな瞳でそう答えていた。
なっ!? そ、そんな風に、アンリエッタさんが見てくれていたなんて……。嘘だとしても、いや、きっと嘘じゃない、彼女はそういう嘘は付かない。彼女の想いが嬉しくて、なんだか急にカッと顔が熱くなり、胸の奥までポカポカとしてくる。
「ふぅ……。まったく、父さんもアンリエッタさんも、ちょっと褒めすぎだよ。なんだかこっちが恥ずかしくなっちゃうじゃないか」
照れ隠しに、僕は少しぶっきらぼうに言ってしまう。
「そうか、そうか! ワハハハ! まあ、俺の自慢の息子だからな。許せ」
父さんは、どこまでも満足そうに、そして誇らしげに笑っていた。
さすがに仕事に戻らなければならない父さんと、いつまでもこの小部屋で油を売っている訳にもいかない。後ろ髪を強く引かれる思いもあったけれど、僕たちは父さんに別れを告げ、城館を後にした。
父さんは、よほど今日の出来事が嬉しかったのだろう。
「これで、帰り道に何か好きな物でも買って食べなさい」と言って、ずしりと重みのある銀貨を何枚か、僕の手にしっかりと握らせてくれたのだった。
先ほど上ってきた緩やかな坂道を、今度は晴れやかな気分で下っていく。
衛兵が守る門を過ぎたあたりから、アンリエッタさんはまた、あまり喋らなくなってしまった。そんな彼女が気になって、ちらりと横顔を盗み見てみると……あれ? 少しだけ鼻を高くして、小さな鼻孔が、ぷくりと誇らしげに膨らんでいるような? 心なしか、鼻息もフーフーと荒いような気がするぞ。
こ、これって、もしかして……もしかすると、彼女なりのドヤ顔ってやつ!? 全然ドヤりきれてない、その微妙な表情がなんだか無性に可愛くて、愛おしくてたまらない。
僕は衝動を抑えきれず。つい体の向きを変えて、彼女の名を呼んでしまった。
「アンリエッタさん!」
すると、彼女は驚いたようにこちらを向いて──次の瞬間、僕の目に信じられない光景が蘇える。
いつ以来だろう? 僕の背が伸びて、彼女の胸元に届くようになったあたりから、してもらえなくなった、あの懐かしいポーズ。
アンリエッタさんが微笑みながら、「おいで」と言うように両手を広げて、待っていてくれる! 夢にまで見たその懐かしい姿に、僕は理屈抜きで、吸い寄せられるように飛びこんでしまっていた。
ふわり、と。彼女の柔らかな感触と、陽だまりのような優しい香りが、僕の全身を包み込んでいく。頬に触れる彼女の艶やかな黒髪が、なんだか少しくすぐったい。
城館へと続く、人通りのまだ多い道端で僕たちは、世界に二人だけしかいないかのように、しっかりと抱き合っていた。
数年ぶりのこの暖かい抱擁。久しぶりに味わう、アンリエッタさんの双丘の、記憶していたよりもずっと柔らかな感触。ああ、だめだ……。込み上げてくる様々な感情に、もう何も言葉が出てこない。
「アンリエッタ、さん……」
ただ、想う人の名を呼ぶのが精一杯だった。
「良く、本当に良く、頑張りましたね。私の小さかった騎士様」
すぐ耳元で、囁くように聞こえる彼女の声が、僕の心を震わせる。
こんなにも近くで、彼女の声を聞いたのは初めてだったから。
幼い頃、何度も何度も抱きしめてもらったね。
いくら抱きしめ返しても、届くことが無かった短かい手は。
この手は、この手は、ついに、彼女の華奢な背中を、ちゃんと包み込むことができるまでに成長したんだ。
「……このまま、ずっと、時が止まればいいのに」
ぽつりと漏れた言葉は、僕の心からの本心だった。
もう、ここで時が止まってしまってもよかった。
そうすれば、二度と彼女を離さなくていいのだから。
しかし現実は、そう甘くはない。
通りすがりのおじさんが、僕たちのすぐ横を通り過ぎる際に、わざとらしくゴホン、と大きな咳払いをした。その無粋な音で、僕たちはハッと我に返る。
動いてほしくなかった時の歯車が、ついに再び、カチリと音を立てて回り始めてししまう。
そっと体を離したアンリエッタさんの頬も、その先の尖った可愛らしい耳も、夕焼け空のように真っ赤に染まりきっていたよ。きっと、僕も同じくらい真っ赤になっているに違いない。
いくら道の端とはいえ、こんな天下の往来で、人目も憚らず抱き合ってしまったのだから……。さすがに恥ずかしいよね。
不思議とその後は、言葉を交わすことも、特別な合図がなくても。
僕たちは自然と隣あって歩き出していた。道中辛かったあの気まずさは、嘘のようにどこかへと消え去っていた。
改めて、僕は心の中で天に感謝する。
何度も、何度も。
この世界に連れて来てくれて、本当にありがとう。
彼女と出会えた幸運に感謝しています。
いくら浮かれてるとはいえ。リヨンまで来ておいて、さすがに家の用事を済まさない訳にはいかない。
街を歩いて、少しの落ち着きを取り戻した僕は、彼女を伴い市場へと歩を進めた。塩やスパイスなどの調味料や、服の修繕に使うための糸や布を買わなければ。
活気のある市場を歩き、目的の店を見つける。
「すみません、塩をいただけますか?」
僕が声をかけると店の陽気そうなおじさんが、隣に立つアンリエッタさんを見て、目を輝かせた。
「へい、らっしゃい! おや、そちらのお姉さん、こりゃまた別嬪さんだねぇ。よし、お代は勉強してやるぜ。少しオマケも付けてやるよ!」
「わぁ、本当ですか? ありがとうございます!」
アンリエッタさんが、嬉しそうに微笑んでお礼を言う。
まったく……単純すぎて嫌になっちゃうね。自分が。
アンリエッタさんが褒められ、嬉しそうにしていると、
『なんだ、いい店じゃないか』なんて思ってしまうんだから、困ったものだ。
まあ、でも店長、アンタ見る目あるぜ。むふ。
ああ、許されるならこの店の塩、買い占めてやりたいぃぃ。
その後も二人で市場を歩き回り、必要な買い物を順調に済ませていく。時には道端の露店で切り売りの甘い果物を買って食べたりもした。そんな他愛のないことが、とても楽しくて、穏やかな時間だった。
途中で立ち寄った小さな手作りのアクセサリーを並べた店で、アンリエッタさんが、ふと足を止め、ある一点をじっと見つめているのに気が付く。
彼女の視線の先にあったのは、繊細な紋様を彫り込んだ木製の飾りを下げた、素朴な革紐の首飾りだった。
僕が「何か、気になるものでもあった?」と尋ねると、彼女は少し寂しそうな、それでいてどこか懐かしむような表情で、
「いえ、ただ、私が昔いた里で、よく使われていた紋様に似ているような気がしただけです」 と教えてくれた。
辛く、悲しい想いをしたはずなのに、やっぱり心のどこかでは、故郷の里が気になるんだね。貴女はそういう女性だよ。
もし、許されるなら……。いつか僕も、アンリエッタさんの生まれた里へ行ってみたいなぁ。彼女は許してくれるだろうか? 嫌な思いもしたはずだから、嫌がるかもしれないな。
そもそも、人族は立ち入り禁止だったりして……。
僕は、彼女が他の品物を見ている隙に、こっそりと店員さんに近づいて、「お釣りも、お礼も要りませんから」と小声で伝え、そっとその首飾りを買い求めた。後で帰り道にでも渡そう。喜んでくれるといいな。
僕が初めて、自分の力で掴み取った勝利。それで貰ったお金で買うのだからいいよね。
リヨンの町を散々歩き回り、心地よい疲労感と共に乗り込んだ帰りの馬車。僕たちは、いつの間にか隣同士で座ったまま、重なり合うようにして眠ってしまっていた。まだ彼女に比べて背の低い僕が、安心しきってアンリエッタさんの肩にもたれて眠ってしまい、そんな僕の頭に自分の頭をこてんと預けるようにして、安らかな寝息を立てるアンリエッタさん。
こんなにも穏やかで、温かくて、至って普通で。
誰もが、この先もずっと当たり前に続くだろうと、錯覚してしまうような、ささやかな幸せに満ちた時間。
これらの、ほんの小さな幸せの数々が、実はもう二度と訪れることのない、かけがえのない宝石のような瞬間だったなんて……。
その残酷な真実を、僕が知ることになるのはもう少しだけ、先の話だ。




