第100話 追憶
◆ ◆ ◆ ─ Reminiscence & Lorienlala side ─
エルフの里フィンデルの夕暮れは早い。
天を覆う巨木たちの枝葉が、西に傾く陽を遮ってしまうからだ。家々の窓から漏れる灯りが、里の小径を頼りなく照らし始める頃。
そんな家並みの一つで。
幼い姉妹が二人、扉の前で母の帰りを待っていた。
「はぁ~疲れたぁ。ただいま、私の可愛い娘たち。お留守番、良い子にしてたかな?」
仕事から戻った母に、幼い姉妹が二人同時に駆け寄っていく。
「「おかえりなさい、母様!」」
「あのね、お姉ちゃんと一緒にお掃除もしたんだよ!」
「ふふ、えらいわね。二人ともありがとう」
そのあまりにも愛おしい二つの小さな体を、フルールドリスは力強い腕でぎゅっと抱きしめる。
食卓に並ぶのは、母の手作りの料理の数々だ。
茸と木の実がたっぷり入った温かいスープ。香ばしい樫パン。そして甘酸っぱい森の木苺のジュースに、姉妹たちは目を輝かせている。
色鮮やかな食卓も。
緑あふれるこの里も。
母娘三人で仲睦まじく暮らすこの光景も。
なにもかもが、森の恵みそのものだった。
自然と森を愛する『森人』、所謂エルフと言われる親子の穏やかな営みが、確かにここにはあった。
「母様、あのね、今日ね」
「まあ、そうなの。それで?」
他愛もない今日の出来事を一生懸命に話す娘たちに、母フルールドリスは優しく相槌を打つ。
彼女にとって、この何気ない食卓の時間こそが、聖樹や里を守るという過酷な使命を乗り越えるための、何にも代えがたい癒しだった。
「ねえ、母様。次はいつ頃、父様は来てくれるの?」
不意に、妹のロリエンララがそう尋ねた。
あまりにも無邪気な問いに、母フルールドリスの美しい顔がほんの僅かに、寂しげに歪む。
幼い妹にはわからない、ほんの僅かな歪み。
「……そうね。もうすぐ夏祭りの頃だから。きっとその時には、会いに来てくださるわ」
「ほんと? やったぁ」
満面の笑みを浮かべる妹の横で、姉のフィルシルフィアは小さく伏し目がちになる。
人族である姉妹の父は、このエルフの里で共に暮らすことはできない。
年に数回訪れるその僅かな時間だけが、家族四人が揃うことを許された、奇跡の時間なのだと。姉のフィルシルフィアはもう、そのどうしようもない世界の理を理解し始めていた。
だから、彼女は何も言えなかった。
ただ黙って、母のその寂しげな横顔をじっと見つめているだけ。
夜が更ける。
三人は一つの大きな寝台で、身を寄せ合って眠る。
母フルールドリスの、細くも逞しい、優しい腕の中で。
そこは二人の娘にとって、世界で一番安全で、そして温かい場所だった。
「……母様」
「なあに?」
「聖樹さまの、お話をして」
「ええ、いいわよ。……むかしむかし、この森がまだ冷たい闇に包まれていた頃。天から一粒の光の種が落ちてきました──」
フルールドリスは、静かに語り始める。
この里を、そして世界を見守る、偉大なる聖樹フィンデールの物語を。
その穏やかで優しい子守唄のような声に包まれて。
幼い姉妹はいつしか、幸せな寝息を立て始めた。
遠く、里の奥にそびえる聖樹フィンデールのシルエットが、闇夜に静かに蒼く煌めく。それはまるで、あまねく森人に安らぎをもたらし、この小さき姉妹の行く末を優しく見守るかのようだった。
あまりにも幸福で、二度と取り戻すことのできない日々の記憶。
その中心には、いつだって彼女らの母がいた。
里に選ばれし聖樹フィンデールの守護者、フルールドリス。美男美女ばかりが住まうこのエルフの里においても、誰よりも美しく、誰よりも強い私たちの母。
けれど、その幸福な記憶が、これから彼女たちが背負うことになる過酷な運命の、ほんの僅かな序章に過ぎないことを。
まだ誰も、知らない。
何よりも温かい記憶の最後の輝きを、私──妹であるロリエンララの魂は、今も決して忘れることができずにいる。
平和で輝かしい日々が過ぎ、私たちが少しばかり大きくなった頃。そう、あれは、雨が降り続ける薄暗い日だったと思う。
父様の知り合いと名乗る、見知らない男の人が訪ねてきたのは。
なにやら深刻そうな雰囲気に、私たち姉妹は不安でいっぱいになっていた。
「信じてもらえないだろうことは承知している。だが、これを見てくれ」
「なっ……それは、あの人の!」
「ああ、そうだ。あいつの剣の鞘だ。血塗れで倒れていたあいつから、これを託されたんだ」
「じゃあ、さっきの話は本当だというの?」
母と、父の友人だというその見知らぬ男との緊迫したやり取りが続く。
当時の私たちには、まだその言葉の本当の意味は分からなかった。
ただ、母様の美しい顔からすうっと血の気が引いていくのを見て、とてつもなく悪いことが起ころうとしているのだと、子供心に悟ったのを覚えている。
男の人は、母の前に深く頭を下げた。
「奴は言っていた。『うちの妻は綺麗で強いんだ』とな。その時はただの惚気だと思ったが、今は違う。どうか共に助けに向かってくれ。頼む!」
「でも、私には聖樹の守護者たる役目が……。ここを離れるわけには……」
「あいつを助けたら、すぐ戻ればいい。半月もかからん。あの可愛い姉妹を、父無し子にしてもいいのか? 今ならまだ間に合うかもしれないんだぞ!」
「……っ。わかったわ」
そこから母様の決断は早かった。
母様は一度だけ、私たち姉妹の顔を大きな瞳でじっと見つめ、何かを振り払うように立ち上がった。
「シルフィア」
母様は、私の大好きな姉の名前を呼び、引き出しから取り出した革袋を、その小さな両手に力強く握らせた。
「いま家にあるお金を、全て貴女に託します。これでララと二人、良い子にして待っているのよ」
「母様……? どこに行くの……?」
「大丈夫。すぐ戻るから。母様は強いのよ? ……二人でしっかりお留守番しているのよ」
私と姉をきつく抱きしめた、その言葉を最後に。
母様はもう二度と振り返らなかった。
降りしきる冷たい雨が、遠ざかっていく母の足跡を、一つ、また一つと泥の中に消していった。
それが、私たちの大好きだった母、フルールドリスとの最後の別れになるだなんて。
母様は二度と、私たちの元へは帰ってこなかった。
聖樹に選ばれた、里で最強の使い手であったあの母様が……。
今回の視点変更の表記について、少しだけ。
大きな視点変更の際には、読者様の混乱を避けるため─ [Character] side ─と表記することを、心がけています。
ですが、このエピソードは「追憶」の物語です。その夢のような時間の流れを、無粋に断ち切りたくないという想いから、冒頭にまとめて記載させていただきました。
そして、もう一つ。本作も、『百話』という大きな節目を迎えることができました。ここまで長く、物語と共に歩んでくださった全ての読者の皆様に、心より感謝申し上げます。
彼らの旅路はまだまだ続きます。これからも見守り続けてくださることを願って。
神崎 水花




