081 TURNING POINT 転換点,分岐点
陽は沈みきらず、赤でも青でもない光が、岩肌を撫でている。
王都から西に進路を取りファルマを中継し、フェルギス王国南端、の、ほとんど誰も寄りつかない地。
疲れ果てた魔導士の男が二人、そして世界そのものにまだ馴染みきっていない女が一人、風に削られた岩塊が並び、草の代わりに白い砂が漂う場所を、とぼとぼと歩いている。
ユウはマントの裾を押さえ、足元の影を見つめていた。
影が薄い。陽が歪んでいるのだ。
空気が、まるで呼吸そのものを拒むように乾いていた。
「……ここ、本当に道あるんですか」
息の合間に問うと、前を歩くルクスが肩をすくめた。
「一応、交易路の名残なんだけどね。馬車の轍が埋まったまま、砂の下にある。けどもう、誰も使ってないんだろうなあ」
その隣で、ファルマで合流したもう一人の魔導士が黙々と歩いていた。
魔術国家カーネリアから逃げてきた男――シェルダンである。
歳の割に疲れの影が濃く、何かを見続けてきた者の目をしていた。
「……風が、変化してます」
呟くようにそう言うと、彼は立ち止まり蹲った。
砂の上に掌を押し付けるとかすかに、地が鳴った。
裂け目から、何かが漏れている。
ただの陽の反射ではない。
淡い紫光――魔力の残滓だった。
ユウは思わず身を乗り出した。
倣うようにルクスが、シェルダンの背後から地を覗き込む。
「うーん、陣形の断片かな。それも……相当古い。誰かがこの地に門を設けようとした名残っぽい」
「門って書架の門的な、転移の?」
シェルダンは顔を上げ、遠い空を見た。
そこには、風に滲むような残影――まるで空そのものが、縫い合わせの糸を引き裂こうとしているような歪みがほんの僅か見える。
「カーネリアでは近年、古の転移門の再現実験が行われていましたが、三カ月前にすべての実験記録が消えたのです……似た歪みが各地で観測されましたが、まさか、こんな所にまで」
ユウは無意識に、アイテムポーチを押さえつける。
――書架の門も何か、関係しているのだろうか。
「もしこれ……誰かが今も門を使おうとして、何かしてるとかじゃ」
ユウの問いに、男は短く目を伏せた。
突風が吹きつける。
砂が視界を覆い、遠くの空の裂け目が一瞬、紅に染まった。
ユウは目を細め、思わず声を漏らした。
蜃気楼というべきなのか、陽炎というべきなのか。
アスファルトの炎天下を歩き続けた先に見える、揺らぐ世界のような光景。
「……二人とも、あそこに何か見えます?」
岩稜の向こうに、瞬く柱。
それは灯火のようでもあり、何か巨大なものがうごめく目のようでもあった。
直後、空が鳴った。
風と砂と光が絡み合い、遠くで岩が裂ける音がした。
地の底から響くような低い唸り――
それはまるで、誰かが長い眠りから覚めるときの声のようだった。
風は、言葉のように鳴り響く。
砂の粒が舞うたびに、ひとつひとつの岩がわずかに共鳴していた。
丘の上に、石が並んでいる。
円を描くように、大小の石柱が立ち並び、その表面には風化した刻印があった。
言葉ではない――けれど、読めてしまう気がする。
見上げているだけで、胸の奥がざわめいた。
「……これが、星環遺構か」
ルクスが低く呟いた。
「古い時代に天と地をつなぐ祭儀が行われていたという、曰くつきの場所。魔術がまだ祈りと呼ばれていたころのものって話だけど」
円環の中心には黒い鏡面のような窪みがあった。
陽光を反射するでもなく、ただ深く、底の見えぬ影をたたえている。
シェルダンが注意深く一歩前に出て、石のひとつに触れ、目を閉じる。
「……古い系譜の魔力が、残っているようです。この地が干からびずに形を保っているのは、これらのお陰かもしれません」
ユウは膝をつき、足元の砂を指で掬った。
砂の下には、黒ずんだ石の破片――それも、明らかに何かが焼けた痕跡。
「……これ、焦げてる?」
ルクスは周囲に簡易障壁を張り、ユウの前に立つ。
「結界の焼き切れ……かな? うーん、内側から破壊された違う……誰かが、こじ開けようとした……」
空が、微かに鳴った。
風ではない。
耳の奥に直接響くような音――ユウは思わず胸元を押さえた。
石柱のあいだから、ひと筋の光が差し込んだ。
陽ではない。
それはまるで、空の裂け目から覗く異空の色。
ルクスが短く息を呑む。
「……これは、すこし、まずそうな気がします」
光が円環の中心に集まり、砂が逆流を始めた。まるで地の底が呼吸を始めたような錯覚――
空気が震える。
「一歩でも踏み込めば、転位反応が起こるかもしれません気を付けて」
だが、その言葉より早く、ユウのポーチの中で緋色の書が自ら頁を開いた。
――何も記されていない白い頁がひらめく。
風が、形を持つ。
音が、名を呼ぶ。
「……っユウさん!」
ルクスが手を伸ばす。
光が爆ぜた。
視界が反転する。
彼女はほんの一瞬、誰かの影を見た。
石の上に立つ、少女のような輪郭。
だがその顔は風に溶け、消えた。
空間の歪みがひときわ大きく波打つ。
転移の光が収まったとき、風の匂いが変わっていた。
灰の地が泡立ち、過去と現在が混じり合うような不協和音が響く。
ユウは喉の奥に残る痺れを噛み潰しながら、中央を見つめた。
そこに、ひっつめ髪をしたスーツ姿の女性がビジネスバッグを片手に立っていた。
姿は三十代半ばほどに見える。
女の身に纏うスーツは明らかに、ユウが元の世界で来ていたような代物だ。
ヒールの靴もストッキングも。
焦げたスカートの裾を払いながら、女はゆっくりと息を吸いこむ。
その瞳は硝子のように澄んでいて、どこか懐かしい知性を帯びている。
「あは……ここが、まだ残ってるとはね」
呟く声は低く、乾いていた。
笑っているようで、笑っていない。
ルクスが思わず口を開く。
「な、なんだ……生きてる……?」
女は彼を一瞥し、指先で空気を払った。
彼の身体が一瞬だけ凍りついたように硬直し、次の瞬間、全身の空気が抜けるように座り込む。
「悪いけど、驚かせるんじゃないよ。いま、脳の再同期中」
崩れた石の上に、女は軽やかに腰をかけ足を組んだ。
ユウはおそるおそる、問いかけた。
「……あなた、もしかして……」
女の視線がこちらを向いた。
その瞬間、心臓が一拍、遅れる。
まるで旧友に挨拶するように「正解。あんたを座標にしたところあっちこっち動き回るもんだから、ここに指定してみたんだが」
「……エミールさん!?」
女は嫣然と微笑んだ。
その笑みには、長い時間を超えた諦念と、わずかな誇りがあった。
「出迎えてくれるとはねユウ」
その言葉に、ユウは目を瞬かせた。
女は立ち上がり、掌をかざした。
空気がわずかに揺れ、光の糸が彼女の指先に絡みつく。
「ん、同期完了。ま、あんたのおかげでこうして戻ってこれた」
「戻って……これた?」
「完全に。もう身体も魂も、此処に」
風が強くなった。遺跡の環の向こうで、灰色の空がうねる。
エミールは髪をかき上げながら、遠くの方角を見つめた。
「さて。色んなツケを払いに行くとするかね」
言葉の調子は淡々としていた。
「私も、あんたも、あんた達も、あの子等も、あの人もやることが多すぎるな。――邂逅の余韻に浸るのは、後回しだ。力と力を結ぶ、理解する、そして試行しよう。魔女が同じ時代同じ場所に三人揃って肩を並べる、なんて。そうそう起きることじゃないよ」
完全に思考停止している二人の男の横で、曖昧に頷くユウに女は「ほら、土産だ」とクラフト製の袋を押し付けると、履いていたヒールを投げ捨て、飄々とした調子で、暁の世界へ一歩足を踏み下ろした。




