023 TORN 引き裂かれた
森はいつになく静まり返っていた。
鳥のさえずりも、風のざわめきも、ぴたりと止んだかのように。
妙な静けさが、ひそやかな足音の接近を告げていた。ロシュディは、その気配を捉え、すでに鞘から剣を引き抜いていた。刃が朝日を鈍く反射し、静かな決意を宿している。
ユウが立ち上がりかけた時、ロシュディの鋭い動きに気づき、動きを止めた。
確かこの建物は、登録者の命を脅かす危険を伴う生物には不可視となっているはずだ。それにロシュディの話によると、ちょっとした攻城戦にも耐えうる仕様の結界が張り巡らされているのだ。
だが、彼が剣を抜くほどの存在が、近づいている。ユウにとって命の危険が脅かされずとも、ロシュディにとってはそうではない可能性を示唆していた。
小道の端に、灰色の旅装に身を包んだ男が静かに立っていた。
剣を帯びているが、抜かれてはいない。その立ち姿は、練り上げられた武人のそれだった。男の視線がロシュディの姿を捉え、わずかに安堵の色を帯びたかと思うと、その視線は滑るようにロシュディの後ろに立つ若い女――ユウの姿に移った。
一瞬だけ、その瞳に微かな驚きと、そして警戒の色が閃く。だが、すぐに表情を引き締め、男はゆっくりと片膝を立てて姿勢を低くした。
「ご無沙汰をしております、殿下」
ロシュディに向けられた言葉には、敵意ではなく、紛れもない敬意と、そして懐かしさを含んでいた。その声を聞いたユウは、ハッと息を呑んだ。殿下。それは、彼が王子であることを明確に示す呼称だった。
反してロシュディは、剣の切っ先を男の喉元に向けたまま、やや剣呑な声で答える。
「探っていただろう、ずっと。まさか、お前がここまで来るとはな、グレイド」
ロシュディの言葉に、男――グレイドの表情に、微かな動揺がよぎる。しかし彼はそれを悟られぬよう、深く頭を下げた。
「黒龍の足跡を追い、辿り着いたのです。知らせも無いまま行方をくらまされたため、王都は混乱しております」
グレイドは視線を上げず、言葉を続ける。
「殿下が、かの禁書に触れて以来、そのご無事を知る者もなく、我々も苦慮しておりました」
ロシュディは剣の切っ先をわずかに下げたが、警戒は解かなかった。
「その恰好は、親衛隊か。王弟の」
吐き出すようなロシュディの言葉に、グレイドは微かに目を揺らし、再び頭を深く下げた。彼の言葉の端々から、彼が王弟の配下として動いていることが滲み出ていた。
「命じられるままに。ただ、それだけです」
グレイドのその言葉は、彼自身の意志を押し殺した、かつての忠実な副官とは異なる響きを持っていた。ロシュディは眉を顰め、何かを察したように口元を歪める。
「ほう。それが、お前が俺に送った追手の言い訳か? 黒龍を傷つけたのは、王弟の手の者か」
ロシュディの口から黒龍という言葉が出た瞬間、ユウは息を呑んだ。
ユウは、あの日ロシュディの体から滴り落ちていた血を思い出し、その場で凍り付いた。ロシュディの問いは、グレイドにとって決定的なものだった。
グレイドの肩が、微かに震える。
「……殿下は、あの時、我々を振り切って王都を後にされました。私としては、ただ、殿下の身を案じておりました。神獣黒龍も、我々の不本意な攻撃により、傷を負わせてしまったこと、深くお詫び申し上げます。殿下の行方を探す中で、止むを得ず、という判断が下されました」
その言葉は、王弟からの密命を受けてロシュディの行方を追っていたこと、そして、その過程で黒龍と遭遇し、戦闘になったことを認めるに等しかった。
王都側も、秘密を握って逃亡したままのロシュディの行方を、必死に探っていたのだ。グレイドは、王弟を掲げる王太后派の密命で、ロシュディを王都に連れ戻すために、ここまでやって来たのだった。
こんな道端で、部外者である自分の前で、何やら重たそうな、そして命の危険さえはらむ内容の会話が交わされていると、ユウは居た堪れない気持ちになってくる。自分の知らぬところで、とんでもない騒動の渦中にいることを実感させられた。
ユウは、軽く手を叩いて提案した。
「せっかくだからお茶しながらにしませんか? 私お邪魔だったらちょっと出掛けてきますし」
その言葉は、張り詰めていた空気をわずかに緩めた。ロシュディはグレイドをちらりと見て、剣を鞘に収めた。グレイドもまた、ユウの存在に再び意識を向けた。
「いえ、恐縮です。このような場所で立ち話も何ですので」
グレイドはユウに恭しく頭を下げ、その視線は一瞬、ユウの傍らに置かれた籠の中のトリアの花に留まった。彼の目は、その花が持つ本来の価値を瞬時に見抜いたかのようだった。
◇◇◇
室内には重い沈黙で満たされていた。
旧知の二人で何か話があるのかと思って、お茶の席を用意したまではいいが、ロシュディは両腕を組み、椅子に背を預け固く目を閉じている。その表情は、深い思索と、葛藤を秘めているかのようだ。
灰衣の男――グレイドは、背筋をぴしっと伸ばし、椅子に浅く腰掛け、両手は膝に置いていた。一分の隙もない姿勢は、彼が王弟の密命を帯びた騎士であることを物語っていた。
彼の視線は、時折、ユウにちらりと向けられていた。そして男の脳裏には、先ほど見たユウの、あの屈託のない笑顔が焼き付いている。
折角淹れたお茶もすっかり冷めてしまったし、パンケーキも蜜を吸いこみ過ぎて悲惨な状態になっている。ユウは、その重苦しい空気に耐えかね、洗濯物を取り込んだり、食糧庫の片付けをしたり、一通りの家事をこなしながら、時折二人の様子を盗み見た。
しかし、会話はあまり弾んでいるとは言えない。まるで、時間が止まってしまったかのようだ。
いつもテーブルの片隅で微睡んでいる黒龍は、この尋常ではない気配を感じ取ったのか、とっくに外に出てしまって、裏庭の温泉に逃げ込んでしまっていた。
ユウは、この沈黙に割り込むべく、大きく息を吐いてから、洗い終えたロシュディの服の入った籠を、彼に差し出した。二人とも、一度仕切りなおした方がいいだろう。
「ロシュディさんの服、洗っておきました。これ、もう乾いてるはずです」
ロシュディは目を開け、ユウの手から服を受け取った。その視線が、グレイドに向けられる。無言のまま、ロシュディは立ち上がり、別の部屋へと向かった。その間に、グレイドはゆっくりと息を吐き、静かにユウに向き直った。
「失礼ながら……」
グレイドの低く、しかし礼儀正しい声に、ユウは身構えた。
「先ほど、殿下は黒龍について言及されましたが、お嬢さんは、神獣黒龍が、あの方の使役する存在であるということを、ご存知でしたか?」
ユウは、曖昧に言葉を濁す。
「えっと……詳しくは、私もよく知らないんですけど、ロシュディさんと黒龍さんは、仲が良いのかなって……」
グレイドの視線が、ユウの右手に留まる。ユウは、無意識のうちに、火魔石を握りしめていた。そろそろ暖炉に火をいれようとおもっていた所だったのだ。その魔石から揺らぐ魔力を、グレイドは見逃さなかった。
「その手に持たれているのは……魔石。しかも、これほどの大きさで、これほどの魔力を宿しているものを、無造作に扱われるとは……」
グレイドの瞳に、深い警戒の色が宿った。かつてロシュディの配下であった彼は、王都で魔石の扱いや魔術の研究にも携わっていたため、ユウが持つ魔石の異常性を瞬時に理解した。
「……やはりお前がエオルトリア高地の魔女か」
その言葉に、ユウはハッと息を呑んだ。ロシュディが当初自分の事を魔女である認識していることは知っていたが、他の人間もそう思うのは、自分がこの地に居を構えている以上、自然の事だった。
「ち、違います! 私、魔女とかじゃないんです! 火を出すのに使ってるだけで……」
ユウは必死に否定しようとするが、グレイドの視線は疑念に満ちていた。彼の頭の中では、ロシュディが禁書に触れた挙句、魔女の力に引き寄せられ、この地に身を隠しているという空想のような物語が構築されつつあった。
その時、ロシュディが着替えを終え、部屋に戻ってきた。彼の表情は、先ほどよりも落ち着いていたが、その瞳には、グレイドに対する明確な警戒が残っていた。
「グレイド。ユウは、この場所の住人だ。それ以上でもそれ以下でもない」
ロシュディの言葉は、ユウを庇うと同時に、グレイドに対してこれ以上ユウを探るなという警告でもあった。しかし、グレイドの頭の中では、すでに疑念が深く根を下ろしている。
「殿下……。王都では、殿下の無事を案じております。王弟殿下も、殿下の帰還を心待ちにされております故、どうか、この地を離れ、王都へお戻りください」
グレイドの声には、切なる願いと、しかしその奥には、彼に与えられた任務の重さが感じられた。
王弟は、ロシュディが持つ秘密に、警戒を強めている筈だ。今更帰還とは。良くて軟禁、悪ければ処刑されるのがオチではないだろうか。
ロシュディの瞳には、複雑な感情が渦巻いていた。帰るべき場所。しかし、そこはもはや、彼がいた頃の王都ではないのかもしれない。そして、彼を追ってきたものが、グレイドだけではないという予感もあった。
「……いずれ、戻るつもりだった」
ロシュディの静かな、しかし断固たる言葉が、部屋に響いた。
「俺を襲撃した者の正体が、王都の中にあることを知るまではな」
グレイドの表情に、微かな動揺が走る。
ロシュディの言葉は、彼が知らない、あるいは知らされている以上の、王都の闇を示唆している。
部屋には、再び重い沈黙が満ちた。だが、その沈黙は、これまでよりもはるかに多くの、言葉にならない真実と、切迫した危機感を孕んでいた。




