第39話
【1590年 秋・漢陽 王宮内医院から、疫病の煙上がる都へ】
「王様、この男こそが世子様を救う最後の鍵です」
イ・ミョンファンの傲慢な声が正殿に響く。彼の傍らには、不気味な笑みを浮かべたチェ・ヒョンウクが立っていた。
ヒョンウクが差し出したのは、古びた、しかし異様な殺気を放つ一冊の書物――「治腫指南」。かつてコ・ジュマンがその内容の過激さゆえに、この世から消し去ろうとした幻の医学書だ。
「ここには、破傷風の毒を中和する『龍胆』と『牛黄』の、神域と言われる配合比率が記されています。ペク・クァンヒョンのような独学の外科医には、一生かかっても到達できぬ領域です」
仁宣大妃は、ミョンファンの言葉に揺れた。母親として、一刻も早く世子を救いたい。その焦りが、闇の医術への門を開こうとしていた。
その頃、クァンは内医院の隅で、血走った眼を皿のようにして薬草の配合を繰り返していた。
サアム道人が清国から持ち帰った断片的な知識と、クァンが自らの腕を腐らせて得た経験。それが、一つの閃きとなって脳内で結びついた。
「……できた。これだ。……龍胆三、牛黄一、そして……」
クァンが叫んだその瞬間、正殿のヒョンウクもまた、同じ数字を口にしていた。
「龍胆三、牛黄一。これが命の均衡だ」
奇しくも、人を救うために泥を這ったクァンと、死体を切り刻んで真理を奪ったヒョンウク。正反対の道を歩んだ二人の天才が、医学の頂上で同じ「答え」に辿り着いたのだ。
治療は行われた。二人の到達した処方は完璧だった。
世子の高熱は引き、顎の強直は魔法のように解けた。呼吸は整い、幼い世子の顔に赤みが戻った。
顕宗は安堵の溜息を漏らし、クァンの功績を称えようとする。しかし、ヒョンウクの視線は王ではなく、ただ一人、ペク・クァンヒョンだけを射抜いていた。
「……面白い。コ・ジュマンの弟子風情が、あの『指南』も見ずにここへ辿り着くとはな」
ヒョンウクはクァンの耳元で囁いた。
「俺が倒すべき相手は、死んだコ・ジュマンではない。お前だ、ペク・クァンヒョン。……お前のその、甘っちょろい『仁術』という化けの皮を、俺の刃で剥いでやる」
クァンの背中に、かつてない冷たい悪寒が走った。ミョンファンが権力という毒なら、ヒョンウクは純粋な悪意という刃だった。
世子の快癒を祝うのも束の間、漢陽の空気が一変した。
市場の片隅で、一人の物乞いが道端に倒れた。その体には、燃えるような紅い発疹と、膿を含んだ水疱が広がっていた。
「……これは、まさか……」
知らせを受けて駆けつけたクァンの顔が、瞬時に強張った。
「……痘瘡(天然痘)だ。……ついに、死神が来た」
痘瘡。一度流行れば国を滅ぼすと恐れられる、治療法なき疫病。
クァンは即座に隔離を訴えるが、ミョンファンは「世子様の快癒を祝う時期に、不吉なことを申すな」と、その報告を握りつぶそうとする。
第五章:悲劇の爪痕
しかし、神の悪戯は残酷だった。
王宮の中で、最も明るく、誰からも愛されていた存在――ヨジョン王女の妹のスッキ王女が、突然の高熱で倒れたのだ。
「クァン……様……。体が、熱いの……。助けて……」
王女の白い首筋に、鮮やかな紅い斑点が浮かび上がる。
クァンは王女の手を握りしめ、愕然とした。彼女は、かつてクァンが卑しい身分だった頃も、死に追いやられた時も、常に自分を信じ、光を照らしてくれた恩人だった。
「……スッキ王女様」
クァンの背後で、ヒョンウクが冷ややかに笑う。
「痘瘡か。……外科のメスも、内科の鍼も、ウイルスという目に見えぬ軍勢には無力だぞ、ペク・クァンヒョン。……さあ、どうする? お前の大好きな『命』が、指の間から砂のように零れていくぞ」
絶望の紅い嵐が、漢陽を飲み込もうとしていた。
愛する人を救うために、クァンは人類史上、最も困難と言われる「疫病との戦い」に身を投じることになる。




