第37話
【1590年 秋・漢陽 内医院から世子の東宮殿へ】
ペク・クァンが医官として復帰し、外科手術で数々の難病を救っているという噂は、瞬く間に漢陽を駆け巡った。しかし、光が強ければ影もまた深い。
「あそこの息子は、脚を切って命は助かったが、その後『引きつけ(破傷風)』で死んだそうだ……」
「やはり、人の体に刃を当てるのは天理に背くことなのだ」
ミョンファンはこの不安を巧みに利用した。施療庁を通じて「外科は死を招く魔術だ」という流言を広め、手術を必要とする民たちが治療を拒否し始める事態に陥る。
クァンは、救えるはずの命が目の前で消えていく口惜しさに唇を噛んだ。
(……破傷風。この目に見えぬ死神を退治しなければ、外科に未来はない)
クァンは、キム道人が清国で集めた「毒草の配合」に賭けた。だが、人体への影響が未知数の薬を、患者に試すことはできない。
「クァン! 何をするつもりだ!」
クネの叫びも虚しく、クァンは自らの左腕に、腐敗した組織から抽出した「腫気の毒」を注入した。
数時間後、クァンの腕はどす黒く腫れ上がり、意識を失うほどの高熱が彼を襲う。
「……これを、この薬を……試してくれ……」
朦朧とする意識の中で、クァンは自ら開発した「中和剤」を打つようサアムに頼む。己の命を実験台にするその姿は、狂気と紙一重の、純粋な「医の執念」であった。
翌朝、腫れが引き、熱が下がったクァンの腕には、破傷風の毒に打ち勝った新しい皮膚が芽生えていた。
そんな折、王宮に激震が走る。次期国王となる世子の顔に、巨大な腫気が発生したのだ。
顔面という繊細な部位、かつ一国の世継ぎ。内医院の重臣たちは責任を恐れて萎縮するが、ミョンファンは不敵な笑みを浮かべてクァンを指名した。
「ペク医官こそ、この手術に相応しい。彼の『神の手』なら、世子様の玉体に傷を残さず救えるでしょう」
それは、失敗すれば即座に反逆罪で処刑できる、ミョンファンが仕掛けた完璧な死の罠だった。
顕宗の不安そうな眼差しを受け、クァンは静かに応えた。
「……お任せください。私の命に代えても、世子様をお救いいたします」
手術当日。東宮殿には重苦しい空気が流れていた。
その頃、ミョンファンの密室には、ボロボロの衣服を纏いながらも、底知れぬ眼光を放つ老人が座っていた。かつて王室の禁忌に触れ、闇に消えた「死を操る医師」イ・ヒョンイクである。
「……ミョンファンよ。案ずるな。あの若造のメスが、世子の顔に触れた瞬間、地獄の蓋が開く」
老人は不気味に笑った。
「顔面は血管の迷宮だ。一度溢れ出せば、どんな鍼も、どんな薬も、その奔流を止めることはできぬ。……ペク・クァンヒョンは、自らの自信に溺れて死ぬのだ」
手術は、序盤は驚くほど順調に進んだ。
クァンの精密なメス捌きによって、腫気は綺麗に取り除かれ、残るは縫合のみ。見守る医官たちからも安堵の溜息が漏れた。
しかし、最後の一針を入れようとした、その時。
世子の頬の奥から、噴水のように鮮血が噴き出した。
「……!? なぜだ、主要な血管はすべて結んだはずだ!」
拭っても、拭っても、血は止まらない。世子の顔は瞬く間に青白くなり、脈拍が弱まっていく。
「止血鍼だ! 急げ!」
クァンの叫びが虚しく響く。だが、どのツボを突いても、血の勢いは収まらない。
正殿の外では、ミョンファンが空を見上げ、勝利を確信していた。
そして、手術室の片隅で。クァンは、自分の腕の傷跡を見つめた。
(……まだだ。俺が、自分を実験台にしたのは、この瞬間のためにあったはずだ!)
絶体絶命の危機。
世子の命の灯火が消えようとする中、クァンは「禁忌」を超えた、さらなる一手に打って出ようとしていた。




