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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第1部

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第22話

棍棒が、また落ちた。


クァンは床に手をついた。立とうとした。膝が震えた。それでも立った。


「まだ口が動くか。打て」


義禁府の地下は、音が籠る。打つ音も、呻く音も、全部ここに残る。


「……治療だ」


クァンは血を床に吐いた。


「俺は、彼女を死なせたくなかっただけだ」


誰も聞いていなかった。聞いても意味がなかった。この場所では、証言より身分が重い。呼ばれて行った、という事実より、そこにいたという事実が重い。


棍棒が来た。


受けた。倒れた。


扉が開いた。


「待ってください」


女の声だった。


ウンソの使用人だった。震えていた。震えながら、入ってきた。


「このお方は、お嬢様の急病を救うために来られたのです。私が見ていました。一晩中、処置をしておられました。汚らわしいことなど、何もございませんでした」


部屋が静まった。


使用人は泣いていた。泣きながら、もう一度言った。


「このお方に、お嬢様は命を救われたのです」


---


釈放された。


泥まみれのまま、夜の路地に出た。体が痛かった。一歩歩くたびに、どこかが軋んだ。


それより先に、知らせが来た。


「ウンソ様の容態が急変した」


走った。


---


恵民署に着いた時、ウンソは意識がなかった。腹が板のように固くなっていた。熱が高かった。


コ・ジュマンが傍らに立っていた。


腸癰(ちょうよう)だ」


虫垂炎(ちゅうすいえん)だった。体内で内臓が腐り、膿が広がる。当時の医術では、手の打ちようがなかった。待つしかなかった。待てば、死ぬ。


「切る」


コ・ジュマンが言った。


医官たちがざわめいた。


「人の体に刃を入れるなど、儒教の教えに背きます」


「死を待つのが教えか」


「首医様——」


「私は生かすことが医だと信じている」


コ・ジュマンがクァンを見た。


「クァン。手を見せろ」


クァンは両手を出した。拷問で腫れていた。血が滲んでいた。


コ・ジュマンはその手を見た。


「お前は獣の腹を裂いてきた。馬も牛も、腹の中には同じ血が流れ、同じ臓器がある。そうではないか」


「はい」


「この国で、腹を裂く技を持っているのはお前だけだ。執刀しろ」


クァンは動かなかった。


人を切る。医師として名声を捨てるだけではない。この先、どこへ行っても後ろ指を差される。禁忌を犯した者として、記録に残る。


ウンソの顔を見た。


あの夜、生きていても死に損ないだと言った女だった。それでも、使用人が命懸けで証言した。その女が今、腹を固くして眠っていた。


「やらせてください」


声に出た。


迷った後ではなかった。迷い終わった後だった。


「この手が、命を救うためにあるなら」


---


深夜。


チニョンが湯を沸かした。器具を並べた。灯りを持った。


コ・ジュマンが反対派を廊下で押さえていた。


「馬医が人を切るか」「地獄に落ちるぞ」扉の向こうで声がしていた。


クァンには聞こえなかった。


ウンソの腹を見ていた。どこを切るか。どの深さで入るか。馬の腹とは違う。薄い。繊細だ。だが構造は同じだ。生き物の腹の中は、同じ理で動いている。


メスを持った。


指の震えを確かめた。震えていなかった。


いつから止まったか、分からなかった。構えた瞬間に止まっていた。手は、始まると決まれば震えない。震えるのは、始まる前だけだ。


息を吐いた。


切った。


血が出た。チニョンが拭いた。コ・ジュマンが灯りを近づけた。


奥を探った。腐敗した場所が見えた。黒ずんでいた。周囲との境界を確かめた。ここから、ここまで。


切り取った。


出した。


チニョンが受け取った。顔が白かった。だが手が動いていた。この女は、始まると決まれば手が動く。それをクァンは知っていた。


縫った。


一針ずつ。急がなかった。急げば雑になる。雑になれば膿が残る。馬を縫った時と同じ速さで、同じ力で、縫い合わせた。


最後の一針を引いた。


---


手を洗った。


水が赤くなった。もう一度洗った。また赤くなった。三度洗った。


部屋を出た。


東の空が白くなっていた。


コ・ジュマンが廊下にいた。何も言わなかった。クァンの肩に手を置いた。一度だけ、力を込めた。


それだけだった。


クァンは廊下に座った。壁に背をつけた。


夜通し立っていた。膝が、初めて折れた。


ウンソの部屋の中で、チニョンが脈を取り続けていた。数刻後、チニョンが出てきた。


「熱が下がり始めています」


クァンは目を閉じた。


「……よかった」


それだけ言った。


泣かなかった。叫ばなかった。


ただ、目を閉じたまま、しばらくそこにいた。


---


知らせがミョンファンに届いたのは、夜明けだった。


腸を切除した。縫合した。患者が生きている。


ミョンファンは文書を机に置いた。


切る、ということの意味を、ミョンファンは知っていた。医術の話ではなかった。この男が、禁忌という名の最後の壁を越えた、ということだった。


壁を越えた者は、止まらない。


マファンも、そうだった。一線を越えると決めた時、あの男は止まらなかった。だからあの時、処刑するしかなかった。


この男も、同じだ。


「ペク・クァン」


窓の外が明るくなっていた。


止める方法が、また一つ減った。


---


チニョンが廊下に来た。


クァンの傍らに座った。二人で、壁に背をつけていた。


「痛いですか」


「大丈夫です」


「嘘をついています」


「……はい」


しばらく黙っていた。


「恐ろしかったですか」


クァンは少し考えた。


「構えるまでは」


「構えてから」


「聞こえなくなりました。扉の声も、自分の心臓の音も」


チニョンは頷いた。


「私もそうでした。利川で薬を飲んだ時。飲むまでは怖かった。飲んでから、怖くなくなりました」


クァンはチニョンを見た。


「同じですね」


「同じです」


朝の光が廊下に入ってきた。


二人は並んで、その光を見ていた。



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