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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第1部

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第20話

灯籠祭りの夜、漢陽が光に溺れていた。


橋の上、路地の軒先、川面に映る揺れる光。年に一度、身分を問わず人が街に出る夜だった。


ヨジョン王女が扇を持って早足で歩いていた。チニョンが後ろを追っていた。クァンは更にその後ろを、状況が飲み込めないまま歩いていた。


「クァン。今夜は特別な夜ですわよ」


王女が振り返った。


「特別、というのは」


「灯籠祭りの夜に想いを告げると、その想いは届くと言われているのです」


「それは」


「つまり」


「はい」


「貴方に用があると言っているの」


チニョンが前を向いたまま、わずかに肩が動いた。


クァンが何か言おうとした瞬間、人の波が割れた。


仁宣大妃が来た。明聖王妃も一緒だった。


王宮の最高権力者が二人、灯籠の光の中に立っていた。


ヨジョンが石になった。告白の言葉が、どこかへ消えた。


クァンは平伏した。頭を上げられなかった。大妃と王妃が言葉を交わす声が、頭上で流れた。王女が連れて行かれた。


気づいた時、雨が降り始めていた。


---


軒下に二人で入った。


チニョンが震えていた。濡れた衣が冷たいのか、王宮の空気に当てられたのか、あるいは両方か。


クァンは官服の片袖を外して、チニョンの肩に掛けた。


「すみません」


「何がですか」


「王女様に巻き込んで」


「私は医女ですから。王女様に付き合うのは仕事の内です」


雨の音が、軒を打った。


黙っていた。黙ることが、おかしくなかった。この二人の間では、沈黙が邪魔をしなかった。


クァンは足元を見た。雨水で濡れた藁が落ちていた。


手に取った。


考えて取ったのではなかった。指が動いていた。


「……父と島にいた頃」


話しながら、手が動いた。


「暇があると、こうして遊んでいました。父は馬医でしたから、馬ばかり作っていました。俺もそれを真似て」


数分後、掌の上に小さな藁の馬が立っていた。


チニョンに差し出した。


「よければ」


チニョンが受け取ろうとした。


受け取れなかった。


手が止まっていた。


クァンが気づいた。


「どうしましたか」


チニョンは答えなかった。


藁の馬を見ていた。首の角度。足の折り方。胴体の編み方。雨の音が遠くなった。


幼い頃のことを思った。暗い穴蔵の中。泥棒市の隅で、膝を抱えていた夜。少年が来て、隣に座った。怖くないと言った。名前を聞いた。


別れる時、少年が藁の馬をくれた。


*お前の名前をつけてやる。ヨンダルだ。*


同じだった。


編み方が、同じだった。首の傾きが、同じだった。


「クァンさん」


声が出た。自分でも気づかなかった。


「幼い頃に……漢陽にいたことはありますか」


クァンが少し考えた。


「少しだけ。あまり良い思い出ではありません。父と離ればなれになった夜でしたから」


チニョンは藁の馬を見た。


まさか、と思った。死んだはずだ、と思った。八年前、海に消えた。それは事実だった。


だが、この馬が。この編み方が。


「クァンさん」


「はい」


「その時……漢陽の南、泥棒市の近くにいましたか」


クァンが顔を向けた。


何かが変わった。表情が変わったのではなかった。目の奥の何かが、動いた。


「……なぜ」


一言だった。


チニョンは藁の馬を握った。


「廃屋がありました。子供たちが集まっていた場所です。そこに、一人の少年が来て……馬を診て、治して、これを作ってくれました」


雨の音が、戻ってきた。


クァンは前を向いた。


雨を見た。軒から落ちる雨水を、しばらく見ていた。


「……名前を、聞かせてもらえますか」


チニョンが言った。


「その少年の名前を、覚えていますか」


「覚えています」


クァンの声が、少し低くなった。


「ヨンダルと、呼んでいました」


チニョンの息が、止まった。


クァンが振り向いた。


二人が、向かい合った。


雨の音だけがあった。灯籠の光が、雨の向こうで揺れていた。


「まさか」


クァンが言った。


チニョンは何も言えなかった。


「あの廃屋の、あの子が」


チニョンの目から、何かが伝った。


クァンは手を伸ばしかけた。止めた。伸ばした手が、宙に残った。


「チニョン、さん」


「クァン、さん」


名前だけだった。


それだけで、十二年が戻ってきた。泥棒市の廃屋、死にかけた馬、初めて名前を呼ばれた夜、漢陽の南大門、市場の人波。全部が、この雨の軒下に集まってきた。


藁の馬が、チニョンの掌の中にあった。


---


同じ夜、恵民署の奥でチャン・クネが一人、文書を広げていた。


灯りが揺れていた。


長い時間がかかった。長い年月をかけて集めた記録だった。ソックの過去の書類。クァンが馬医として登録された時の人相書き。そして、クァンの首筋にある痣の目撃情報。


三つが揃った時、クネの手が震えた。


「……すり替えられていた」


声に出した。


十二年前の夜を思った。嵐の中の産声。兵の声。死んだ女児の布。生き残った男児の泣き声。自分の指が、震えながら動いた夜。


あの夜、自分が泥の中に隠した命が、今、典医監の廊下を歩いている。


「カン・ドジュ様の」


息を吸った。


「たった一人の血筋だ」


文書を伏せた。


告げるべきか。


告げればクァンが「逆賊の子」として追われる。ミョンファンに知られれば、今度こそ殺される。知らなければ、クァンは知らないまま生き続ける。


だが、いつまで知らないままでいられるか。


クネは立ち上がった。


灯りを持った。


歩き始めた。どこへ向かうか、まだ決まっていなかった。足だけが動いていた。


---


雨が上がった。


月が出た。


軒下の二人は、まだ向かい合っていた。


クァンがチニョンの名を呼んだ。ヨンダルと呼ばなかった。チニョンと呼んだ。


「今の名前で呼んでほしいですか」


チニョンは少し考えた。


「どちらでも」


「では」


クァンが、もう一度、小さく言った。


「ヨンダル」


チニョンが目を閉じた。


十二年ぶりに、その名前で呼ばれた。


開いた時、月が出ていた。


二人は並んで、月を見た。


この再会が何を意味するか、まだ誰も知らなかった。クネが何を知ったか、まだ誰も知らなかった。


ただ、月だけが全部を見ていた。


---


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