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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第1部

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第16話

ウンソの部屋は、夏の夜なのに冷たかった。


窓が閉まっていた。灯りが少なかった。長いこと、誰も開けていない部屋の匂いがした。


ジャンバクの紹介で来た。影の実力者ソ・ドゥシクの妹。若くして夫を亡くし、今は屋敷の奥に押し込められていた。烈女として、夫の後を追うべきだという無言の圧力を、周囲から受け続けていた。


クァンは脈を取った。弱かった。だが、繋がっていた。


処置した。薬を調合した。一晩かかった。


朝、ウンソが目を開けた。


「……なぜ、助けたのです」


声に力がなかった。怒っているのでも、泣いているのでもなかった。


「生きていても、死に損ないと指を差されるだけです」


クァンは器具を片付けながら聞いていた。


「それでも、生きていたい気持ちがありますか」と聞こうとした。やめた。そういう問いが、今この人に意味をなさないと感じた。


「馬医だった頃」


クァンは手を止めずに言った。


「死にかけた馬を何頭も診ました。馬は、最後の一息まで立ち上がろうとします。諦めない。諦めるという発想が、ないみたいに」


ウンソは答えなかった。


「命を捨てようとする人間は、その馬より先に諦めていると思います。……家門の体面より、自分の息の方が軽いですか」


厳しい言葉だと分かっていた。だが、優しい言葉を並べる時間が、今夜はなかった。


ウンソが初めてクァンを見た。


何かが、その目の奥で動いた。光ではなかった。光の前に来る、暗闇の揺らぎだった。


クァンは頭を下げて、部屋を出た。


---


恵民署に戻ったのは、夜が深い時刻だった。


掃除の当番が残っていた。廊下を拭き、書庫を整えた。


最後の部屋へ向かおうとした時、後ろから押された。


廊下ではなかった。気づいた時には、別の場所にいた。


遺体室だった。


扉が閉まった。鍵がかかる音がした。


「開けろ」


返事がなかった。


「誰だ」


返事がなかった。足音が遠ざかった。


クァンは扉を叩いた。石の扉だった。手が痛かった。叩いても音が響かなかった。


しばらく叩いて、やめた。


暗かった。窓がない部屋だった。死臭と線香の匂い。目が慣れてきた。並んでいる袋の形が、うっすら見えた。


壁に背をつけて、膝を抱えた。


朝まで待てばいい。宿直の者が扉を開ける。それまでここにいるしかない。


冷たかった。夏なのに、床が冷たかった。石の冷たさが、座骨から上がってきた。


目を閉じた。


音がした。


息を止めた。


もう一度、聞こえた。


コホッ、という音だった。水が詰まったような音だった。怪談ではなかった。クァンは即座に分かった。気道が塞がった人間が、意識を失う直前に出す音だった。


立ち上がった。


手探りで袋を確かめた。一つ、二つ。冷たかった。三つ目、冷たかった。奥へ進んだ。


一番奥の袋に触れた。


冷たかった。


だが、首筋に指を当てた時、かすかに何かがあった。脈ではなかった。脈の残響だった。心臓が止まりかけて、まだ完全には止まっていない、その境目の感触だった。


「生きている」


暗闇に向かって言った。


道具がなかった。明かりがなかった。


関係なかった。


男の口に指を入れた。喉の奥に、固まった痰が詰まっていた。掻き出した。嘔吐反射が起きた。構わず続けた。


気道が開いた。


胸に両手を置いた。圧迫した。馬の心臓を動かす時と同じリズムで。馬より小さい胸だった。力を調整した。強すぎれば骨が折れる。弱ければ意味がない。


圧迫した。口を当てて、息を送った。また圧迫した。


どれくらい続けたか、分からなかった。


暗闇の中で、ただリズムを刻み続けた。


「戻ってこい」


声に出した。


「ここはまだお前の場所じゃない」


馬に言う時と同じ言葉だった。馬に言っても、分かるかどうか分からなかった。だが言い続けた。言葉は自分のためでもあった。手を動かし続けるための、自分への命令だった。


男が動いた。


クァンの衣を掴んだ。細い力だったが、確かな力だった。


「ハァッ」という息が、暗闇に広がった。


クァンは動きを止めた。脈を取った。


戻っていた。


弱かった。だが、戻っていた。


「よかった」


それだけ言った。


男の頭を、自分の膝の上に乗せた。冷たい床よりは、少し温かかった。それだけでいい。朝まで、ここで待つ。


目を閉じた。


---


扉が開いた時、宿直の役人が叫んだ。


死体が歩いていた。クァンに支えられながら、男が自分の足で立っていた。


役人が腰を抜かした。廊下に声が広がった。人が集まってきた。


クァンは男を壁に預けて、手を離した。


「この人は、昨夜から生きていました」


周囲の医官たちを見回した。


「死を確認した者は誰ですか」


誰も答えなかった。


「生きている人間を遺体室に入れた。医師の怠慢です」


声を荒げなかった。怒りではなかった。事実の確認だった。


---


噂が広がった。


死人を生き返らせた。遺体室の男が蘇った。神の手を持つ馬医だ。


クァンはその言葉が好きではなかった。神の手ではない。暗闇で脈を探し、気道を開けて、心臓を叩き続けただけだった。それだけのことを、誰もやっていなかっただけだった。


チニョンが来た。


騒ぎの中でクァンを見つけて、近づいてきた。何も言わなかった。クァンの顔を見て、それから手を見た。


「怪我は」


「ないです」


「眠れましたか」


「少し」


チニョンは頷いた。それ以上聞かなかった。


---


ソ・ウンソが、恵民署の外に立っていた。


騒ぎを聞いて来たのか、あるいは昨夜から来ていたのか、分からなかった。


クァンを見ていた。


クァンが何かを感じて振り向いた時、ウンソは視線を逸らさなかった。逃げなかった。


昨夜と目の色が違った。


暗闇の揺らぎが、少しだけ、別のものになっていた。


クァンは頭を下げた。ウンソも、かすかに頭を下げた。


---


典医監の執務室。


報告がミョンファンの前に置かれた。


遺体室の男。ミョンファンが死を確認した者だった。確認したはずだった。確認が間違っていたのか、それとも死の間際だったのか。どちらにせよ、クァンが蘇らせた事実が残った。


ミョンファンは報告書を伏せた。


折った腕が動いた。遺体室から出た。次は何が起きる。


この男は、準備した罠をことごとく踏み外す。踏み外すのではなく、罠の中で何かを拾ってくる。


「ペク・クァン」


呟いた。


窓の外で、夏の蝉が鳴いていた。


---


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