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『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第1部

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第15話

意識が戻った時、天井があった。


恵民署の天井だった。薬の匂い。遠くで誰かが話している声。右腕が重かった。動かそうとした。動かなかった。


「起きたか」


コ・ジュマンが傍らにいた。


「腕は戻る。神経は死んでいない」


それだけ言った。それで十分だった。クァンは目を閉じた。


---


数日、動けなかった。


右腕を固定したまま、天井を見ていた。眠れない夜は、銅人経のことを考えた。水が出た瞬間の音を思い出した。カツッという金属の音。それからピシャッという水音。何度思い出しても、夢のようだった。夢ではなかった。腕の痛みが証拠だった。


チニョンは毎日来た。何も言わずに来て、傍らに座って、帰った。言っていた通りだった。クァンは何も言わなかった。言う必要がなかった。


コ・ジュマンが書を持ってきた日もあった。置いて帰った。クァンは片手で開いた。


寝ながら読んだ。


---


退院の日、クァンはミョンファンの執務室へ行った。


コ・ジュマンには何も言わなかった。チニョンにも言わなかった。一人で行った。


護衛が剣を抜いた。ミョンファンが手で止めた。


「何をしに来た」


声に温度がなかった。いつもと同じ声だった。


「言いに来ました」


クァンは右腕を前に出した。包帯が巻かれていた。まだ腫れていた。


「折っても、無駄でした」


ミョンファンは動かなかった。


「貴方がどれだけ闇を動かしても、私は医師として貴方の前に立ち続けます」


言い切った。宣言ではなかった。事実の確認だった。自分自身への確認でもあった。


ミョンファンの頬が、かすかに動いた。


この男を見ていると、クァンは時々、何かを探している自分に気づいた。この顔の中に、何があるのか。父マファンを死に追いやった男の顔に、何が残っているのか。悪意だけなら、楽だった。だが、この男の目の奥に、時折、別のものが見える気がした。


「消え失せろ」


ミョンファンが背を向けた。


「次はないぞ」


クァンは頭を下げた。礼ではなかった。ただの動作だった。それから出て行った。


廊下を歩きながら、右腕が疼いた。疼きながら、まだ動いていた。それで十分だった。


---


典医監から呼び出しが来たのは、翌週だった。


教授が書類を見ながら言った。顔は上げなかった。


「実技は認める。だが経典の理解が著しく欠けている。このような者と他の学生を同席させるのは侮辱だ」


「では」


「十日間、医女の詰め所で薬草の洗浄と看護の基礎を学び直せ」


クァンは一拍置いた。


「分かりました」


教授が顔を上げた。反論を待っていた顔だった。


クァンは頭を下げて出て行った。廊下で、同僚の医学生たちが笑っていた。


「馬医が女の仲間入りだ」


聞こえていた。聞き流した。


牧場に来た初日、老医師は言った。糞を片付けて馬の世話をしろ、と。あの場所から始まった。あの場所で覚えたことが、今の自分を作っている。始まりの場所を恥じる気になれなかった。


---


医女の詰め所に入った時、チニョンがいた。


顔を見て、何かを言おうとした。クァンが先に言った。


「怒ってないですよ」


チニョンが止まった。


「馬医の頃は糞掃除から始まりました。薬草を洗うのは贅沢すぎるくらいです」


チニョンは一拍置いた。


「……座りなさい」


---


薬草を洗った。


初日は、他の医女たちが見ていた。馬医上がりの男を、値踏みする目だった。


クァンは気にしなかった。薬草を手に取り、匂いを嗅いだ。艾葉がいようだった。乾燥が足りない株が混じっていた。匂いで分かった。傷んだ部分を指で確かめ、切り分けた。


「……どうして分かったの」


医女の一人が言った。


「匂いです。馬の飼料も、悪くなると匂いが変わる。薬草も同じでした」


その日の午後、別の医女が桂皮けいひの束を持ってきた。


「これはどう」


クァンは手に取った。嗅いだ。


「少し古い。でもまだ使える。煎じる前に水で戻せば問題ない」


医女が頷いた。


翌日から、持ってくる者が増えた。


---


病人の看護も学んだ。


熱を測り、脈を取り、処方に従って薬を届ける。知っていることと知らないことが混じっていた。知らないことは聞いた。チニョンに聞いた。他の医女にも聞いた。恥ずかしくなかった。知らないことを知らないと言えない人間が、命を扱う場所に立つ方が恥ずかしかった。


三日目の夜、クァンはチニョンに言った。


「気づきました」


チニョンが顔を上げた。


「教本の文字より、こうして薬草を触って、病人の声を聞いている場所の方が、俺には合っている」


「最初からそうだったでしょう」


「そうですね」


クァンは少し笑った。


「でも、言葉を覚えたことで、感覚が整理された。感覚だけでは人に伝えられない。感覚を言葉にする方法を、試験の準備で初めて学んだ気がします」


チニョンはしばらくクァンを見ていた。


「貴方を医女の詰め所に送った人たちは」


「ええ」


「間違えましたね」


「ええ」


二人とも、それ以上は言わなかった。


薬草の匂いが部屋に漂っていた。


---


七日目の朝、コ・ジュマンが来た。


珍しかった。この場所に署長が来ることは、滅多にない。


クァンの手元を見た。薬草を仕分けている手を、しばらく見ていた。


「クァン」


「はい」


「漢陽の南側で、発熱の患者が増えている。今のところ散発的だが、似た症状が複数出ている」


クァンは手を止めた。


「どんな症状ですか」


「高熱。発疹。だが、痘瘡とは違う出方だ」


利川の時を思った。あの時も最初は散発的だった。共通点を探す前に、疫病だと決めつけられた。


「見に行っていいですか」


コ・ジュマンは少し間を置いた。


「十日の期限まで、三日ある」


「三日あれば」


「医女の詰め所を離れれば、典医監への説明が必要になる」


「構いません」


コ・ジュマンはクァンを見た。それから頷いた。


「行け」


クァンは立ち上がった。右腕はまだ完全ではなかった。薬草を仕分けていた手で、銀鍼の入った箱を取った。


チニョンが立ち上がっていた。


「私も行きます」


「危ないかもしれない」


「知っています」


クァンは止めなかった。止める言葉が出なかった。この女を止めようとして止められたことが、一度もなかった。


二人で詰め所を出た。


漢陽の南側へ、向かった。


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― 新着の感想 ―
最新話まで一気読みいたしました! 馬医という、なかなか斬新な切り口で、どのように展開していくのかと不思議に思いながら読み進めたのですが、馬だけでなく、羊や牛、そしてついに人間を相手にする医者へと… 残…
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