第13話
書物が、地面に落ちた。
クァンが拾おうとした時、足で踏まれた。
「泥のついた手で触るな」
医学生だった。名家の子弟だと、顔を見れば分かった。そういう顔の作りをしていた。生まれた時から、自分が正しい場所にいると知っている顔だった。
「馬医が医学書に触れるとは。紙が汚れる」
もう一人が笑った。
「お前が目指すべきは医師ではなく、屠殺場の門番だろう」
クァンは黙っていた。
拳が固まっていた。殴れば終わりだと分かっていた。この場で終わりになるだけでなく、試験も、コ・ジュマンへの義理も、全部終わりになる。それが分かっていたから、動かなかった。動けなかったのではない。動かなかった。
「知識の深さは、身分の高さでは決まりません」
声がした。
チニョンだった。書庫の入口に立っていた。
「嘲笑っているその手は、既に多くの命を救ってきた手です」
医学生たちが顔を見合わせた。ミョンファンの養女だと知っている顔だった。それ以上は言わず、散っていった。
チニョンは踏まれた書物を拾い上げ、砂を払って渡した。
クァンは受け取った。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。続きを読みなさい」
それだけ言って、自分の席に戻った。
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夜の恵民署。
人がいなくなってから、クァンは正直に言った。
「無理かもしれない」
チニョンは筆を止めなかった。
「馬の筋肉なら目を閉じても描ける。だが人の経絡図は迷路だ。文字を追うだけで頭が痛くなる。俺には向いていない」
「向き不向きの話をしているの」
チニョンが顔を上げた。
「試験まで何日あると思っているの。向いているかどうかは、終わってから言いなさい」
「…………」
「悔しいなら、実力で口を封じる。それだけ考えなさい。怒る力があるなら、覚える力もある」
クァンは黙った。反論がなかった。
チニョンは紙を一枚、クァンの前に置いた。
「人の脈診は、季節によって変化します。春の脈は弦。弓の弦のように張る。夏は洪、水が溢れるように大きくなる」
「……馬も季節で脈が変わる」
「同じです。根は同じ。覚え方を変えればいい」
クァンは筆を取った。
それから毎晩、二人は書庫に残った。チニョンが説明し、クァンが自分の言葉に置き換えた。肺は風箱、腎は水甕、心臓は厩舎の中心にある柱。馬で覚えてきたことが、人に繋がった。感覚に言葉が追いついてきた。
言葉に追いつかれた感覚は、もっと遠くまで行こうとした。
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試験前夜。
積み上げた書物の前で、クァンは止まっていた。
覚えた。確かに覚えた。だが試験会場に数百人並んだ時、この全部が飛ぶかもしれない。飛んだ時に残るものが、自分にあるかどうか。
足音がした。
チニョンが風呂敷を持って来た。中から紙の束を出した。
「出題傾向を調べました。過去十年分です」
びっしりと書き込まれていた。重要箇所に印がついていた。チニョンの字だった。いつ書いたのか。自分が寝ている間か、自分より早く起きてか。
「経絡と臓器の相互作用が、ここ数年で頻出しています。特にこの三つの組み合わせを押さえれば——」
「チニョンさん」
「なに」
「……なぜ、ここまでするんですか」
チニョンは手を止めた。
少し間があった。
「貴方が合格するからです」
それだけ言った。それ以上は言わなかった。
クァンは紙の束を受け取った。チニョンの指先が、クァンの手に触れた。一瞬だけ。触れてから、離れた。
「明日は自分の手を信じなさい。救ってきた命の重さを信じなさい」
チニョンは立ち上がった。
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
足音が遠ざかった。
クァンは紙の束を広げた。読んだ。読みながら、この字を書いた手のことを考えた。何時間かけて調べたのか。何枚書き直したのか。自分のために、この人がここまでした。
その重さを、明日持っていけばいい。
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試験会場。
数百人が並んでいた。
クァンは端の席だった。周囲の医学生たちが、ちらちらとこちらを見た。見せ物を見る目だった。慣れていた。慣れていても、消えない重さがあった。それを飲み込んで、前を向いた。
鐘が鳴った。
問題が配られた。
クァンは一行目を読んだ。
経絡と臓器の相互作用。昨夜チニョンが「必ず出る」と言っていた箇所だった。
二行目。同じ領域だった。
三行目。また同じだった。
*貴方の言う通りだった。*
筆を取った。
書いた。馬の体で覚えたことが、人の言葉になって出てきた。感覚が文字になった。夜ごと書庫で繰り返したことが、手が覚えていた。頭が飛んでも、手が動いた。
隣で止まっている者がいた。見なかった。
周りで溜息が聞こえた。聞かなかった。
自分の紙だけを見た。自分の手だけを動かした。
終了の鐘が鳴った。最後の一文字を書き終えた直後だった。
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数日後。
掲示板に人が群れていた。
クァンは後ろから見た。前に進めなかった。進んでから名前がなかった時のことを考えると、足が止まった。
「ペク・クァン」
隣で声がした。
チニョンが掲示板を見ていた。
「あります」
クァンは動けなかった。
「中位より上です」
チニョンの声が、少しだけ変わった。震えてはいなかった。だが、普段より低かった。こらえている時の声だった。
クァンは掲示板を見た。
自分の名前があった。
「ペク・クァン」と書いてあった。ただそれだけだった。墨で書かれた四文字だった。
それだけのことが、見た瞬間から目が離せなかった。
「……受かった」
「受かりました」
チニョンは前を向いたまま言った。涙を見せなかった。見せないようにしていた。
クァンも前を向いていた。
二人並んで、掲示板を見ていた。
人が周りを流れていった。おめでとうと言う者は、いなかった。それでよかった。この四文字は、この二人のものだった。
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遠くにミョンファンがいた。
供を連れて、掲示板の前を通り過ぎた。足を止めなかった。だが目だけが、一瞬そこに向いた。
「……しぶとい」
呟いた。供には聞こえなかった。
足音が遠ざかった。




