表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第1部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/50

第13話

書物が、地面に落ちた。


クァンが拾おうとした時、足で踏まれた。


「泥のついた手で触るな」


医学生だった。名家の子弟だと、顔を見れば分かった。そういう顔の作りをしていた。生まれた時から、自分が正しい場所にいると知っている顔だった。


「馬医が医学書に触れるとは。紙が汚れる」


もう一人が笑った。


「お前が目指すべきは医師ではなく、屠殺場の門番だろう」


クァンは黙っていた。


拳が固まっていた。殴れば終わりだと分かっていた。この場で終わりになるだけでなく、試験も、コ・ジュマンへの義理も、全部終わりになる。それが分かっていたから、動かなかった。動けなかったのではない。動かなかった。


「知識の深さは、身分の高さでは決まりません」


声がした。


チニョンだった。書庫の入口に立っていた。


「嘲笑っているその手は、既に多くの命を救ってきた手です」


医学生たちが顔を見合わせた。ミョンファンの養女だと知っている顔だった。それ以上は言わず、散っていった。


チニョンは踏まれた書物を拾い上げ、砂を払って渡した。


クァンは受け取った。


「……ありがとうございます」


「礼はいい。続きを読みなさい」


それだけ言って、自分の席に戻った。


---


夜の恵民署。


人がいなくなってから、クァンは正直に言った。


「無理かもしれない」


チニョンは筆を止めなかった。


「馬の筋肉なら目を閉じても描ける。だが人の経絡図は迷路だ。文字を追うだけで頭が痛くなる。俺には向いていない」


「向き不向きの話をしているの」


チニョンが顔を上げた。


「試験まで何日あると思っているの。向いているかどうかは、終わってから言いなさい」


「…………」


「悔しいなら、実力で口を封じる。それだけ考えなさい。怒る力があるなら、覚える力もある」


クァンは黙った。反論がなかった。


チニョンは紙を一枚、クァンの前に置いた。


「人の脈診は、季節によって変化します。春の脈は弦。弓の弦のように張る。夏は洪、水が溢れるように大きくなる」


「……馬も季節で脈が変わる」


「同じです。根は同じ。覚え方を変えればいい」


クァンは筆を取った。


それから毎晩、二人は書庫に残った。チニョンが説明し、クァンが自分の言葉に置き換えた。肺は風箱、腎は水甕、心臓は厩舎の中心にある柱。馬で覚えてきたことが、人に繋がった。感覚に言葉が追いついてきた。


言葉に追いつかれた感覚は、もっと遠くまで行こうとした。


---


試験前夜。


積み上げた書物の前で、クァンは止まっていた。


覚えた。確かに覚えた。だが試験会場に数百人並んだ時、この全部が飛ぶかもしれない。飛んだ時に残るものが、自分にあるかどうか。


足音がした。


チニョンが風呂敷を持って来た。中から紙の束を出した。


「出題傾向を調べました。過去十年分です」


びっしりと書き込まれていた。重要箇所に印がついていた。チニョンの字だった。いつ書いたのか。自分が寝ている間か、自分より早く起きてか。


「経絡と臓器の相互作用が、ここ数年で頻出しています。特にこの三つの組み合わせを押さえれば——」


「チニョンさん」


「なに」


「……なぜ、ここまでするんですか」


チニョンは手を止めた。


少し間があった。


「貴方が合格するからです」


それだけ言った。それ以上は言わなかった。


クァンは紙の束を受け取った。チニョンの指先が、クァンの手に触れた。一瞬だけ。触れてから、離れた。


「明日は自分の手を信じなさい。救ってきた命の重さを信じなさい」


チニョンは立ち上がった。


「おやすみなさい」


「……おやすみなさい」


足音が遠ざかった。


クァンは紙の束を広げた。読んだ。読みながら、この字を書いた手のことを考えた。何時間かけて調べたのか。何枚書き直したのか。自分のために、この人がここまでした。


その重さを、明日持っていけばいい。


---


試験会場。


数百人が並んでいた。


クァンは端の席だった。周囲の医学生たちが、ちらちらとこちらを見た。見せ物を見る目だった。慣れていた。慣れていても、消えない重さがあった。それを飲み込んで、前を向いた。


鐘が鳴った。


問題が配られた。


クァンは一行目を読んだ。


経絡と臓器の相互作用。昨夜チニョンが「必ず出る」と言っていた箇所だった。


二行目。同じ領域だった。


三行目。また同じだった。


*貴方の言う通りだった。*


筆を取った。


書いた。馬の体で覚えたことが、人の言葉になって出てきた。感覚が文字になった。夜ごと書庫で繰り返したことが、手が覚えていた。頭が飛んでも、手が動いた。


隣で止まっている者がいた。見なかった。


周りで溜息が聞こえた。聞かなかった。


自分の紙だけを見た。自分の手だけを動かした。


終了の鐘が鳴った。最後の一文字を書き終えた直後だった。


---


数日後。


掲示板に人が群れていた。


クァンは後ろから見た。前に進めなかった。進んでから名前がなかった時のことを考えると、足が止まった。


「ペク・クァン」


隣で声がした。


チニョンが掲示板を見ていた。


「あります」


クァンは動けなかった。


「中位より上です」


チニョンの声が、少しだけ変わった。震えてはいなかった。だが、普段より低かった。こらえている時の声だった。


クァンは掲示板を見た。


自分の名前があった。


「ペク・クァン」と書いてあった。ただそれだけだった。墨で書かれた四文字だった。


それだけのことが、見た瞬間から目が離せなかった。


「……受かった」


「受かりました」


チニョンは前を向いたまま言った。涙を見せなかった。見せないようにしていた。


クァンも前を向いていた。


二人並んで、掲示板を見ていた。


人が周りを流れていった。おめでとうと言う者は、いなかった。それでよかった。この四文字は、この二人のものだった。


---


遠くにミョンファンがいた。


供を連れて、掲示板の前を通り過ぎた。足を止めなかった。だが目だけが、一瞬そこに向いた。


「……しぶとい」


呟いた。供には聞こえなかった。


足音が遠ざかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ