表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第1部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/50

第12話

棒が、落ちた。


一発目は、音だった。二発目から、音ではなくなった。


クァンは処刑台に括り付けられたまま、歯を食いしばっていた。叫ばなかった。叫ぶ気力を、意識を保つことに使った。雪の上に何かが落ちる音がするたびに、それが自分の血だと分かった。


十発。


二十発。


意識の端が、溶け始めた。父ソックの顔が来た。雨の夜、冷たくなった手の感触が戻った。俺は間違っていない、と思った。それだけを思い続けた。それだけが、この場所に残れる理由だった。


三十発目が落ちた。


中庭の雪が、赤くなっていた。


---


遠くでチニョンが見ていた。


唇を噛んでいた。掌に爪を立てていた。声を出さなかった。声を出せば、何もかも終わる。両班の娘が馬医のために叫べば、それはクァンをさらに深みに引きずり込む。だから動かなかった。動けなかった。


棒が三十回落ちる間、ただそこに立っていた。


---


恵民署の奥の部屋。


クァンが意識を取り戻した時、天井が見えた。


藁の匂いではなく、薬の匂いがした。


「……起きたか」


声がした。老いた女の声だった。傍らに座っていた。細い指が、クァンの脈を押さえていた。鍼の使い方を知っている指だった。


チャン・クネだった。


クァンはその名を知らなかった。後から聞いた。かつて父たちの盟友だった医女だと。それを聞いた時、何かが胸の奥で動いた。この女の指が、どこかで繋がっていると感じた。感じただけで、確かめる言葉がなかった。


枕元にチニョンがいた。


目が赤かった。泣いていたのか、眠れなかったのか、あるいは両方か。


「……気がついたのね」


声が震えていた。


「よかった。本当に」


クァンは天井を見たまま、少し間を置いた。


「……お気遣い、痛み入ります」


チニョンの動きが止まった。


「チニョン……お嬢様」


「やめて」


「司僕寺の馬医が、両班のお方に——」


「やめてと言った」


チニョンの声が低くなった。震えが消えた。


「ペク・クァン。私を誰だと思っているの」


クァンは黙っていた。


捕らえられていた間に知った。彼女がミョンファンの養女であること。典医監の最高権威の娘であること。自分とは、生きている場所が違う人間であること。頭では知っていた。だが、知らないふりをしていた。司僕寺の厩舎で隣に座って、夕暮れに馬を見ていた時は、知らないふりができた。


今はできなかった。


三十発の棒が、その距離を数字にして刻んだ。


「これまでの無礼をお許しください」


「無礼なんてない」


「あります」


「ない」


チニョンは立ち上がった。


「私はチニョンでも、お嬢様でも、どちらでもいい。貴方が何と呼ぼうと、私は変わらない。でも——」


声が割れた。


「貴方が距離を置くなら、私は毎日この部屋に来ます。来て、黙って座って、帰ります。それだけのことを、続けます」


クァンは何も言えなかった。


チニョンは頭を下げた。それから出て行った。


廊下に出た瞬間、壁に手をついた。膝が笑っていた。言えた、と思った。言ってしまった、とも思った。どちらが本当か、分からなかった。


---


コ・ジュマンが来たのは、翌日だった。


医学書を数冊、置いた。古かった。だが大切に扱われてきた本だった。頁の端に、何十年分かの書き込みがあった。


「読め。そして医師登用試験を受けろ」


クァンは本を見た。


「冗談はよしてください」


「冗談ではない」


「俺は馬医です。人に触れれば棒で叩かれる賤民だ。試験を受ける資格が——」


「いつまで泥の中に閉じこもるつもりだ」


コ・ジュマンの声が低くなった。


「お前は命を救った。その代償として打たれた。だがもしお前が医師であれば、あの島で打たれることはなかった。今こうして卑屈に笑うこともなかった」


クァンは自分の手を見た。


傷だらけだった。馬の蹄に踏まれた古い傷。鍼を持ち続けた指の変形。三十発の棒が残した痣。重なり合って、自分の手がどういう手なのか、もう分からなかった。


「世界は変わらんのですか」


「変わらん」


コ・ジュマンは即答した。


「だがお前が救える命の数は変わる。お前の手は、馬のためだけに授けられたものではあるまい」


それだけ言って、出て行った。


---


夜、クァンは一人だった。


月明かりが入っていた。医学書を開いた。


文字があった。図があった。経絡の走り方、臓腑の位置、脈の読み方。感覚でやってきたことが、言葉になっていた。感覚は正しかった。この本が、そう言っていた。


ページを繰る手が、止まらなかった。


馬医だから、と何度思っただろう。奴婢だから、と何度俯いただろう。その言葉を使うたびに、何かを諦めた。諦めれば楽だった。期待しなければ、傷つかなかった。


だが、ギテは生きている。


チニョンは生きている。


利川の村人たちは生きている。


馬医だからと俯いていれば、誰も生きていなかった。


クァンは本を閉じた。手を見た。


三十発の棒で刻まれた痣が、月明かりの中で黒く見えた。屈辱の色ではなかった。越えた証だった。引き返せない場所に来た証だった。


「なってやる」


声に出した。誰もいない部屋に向かって。


「医師に。誰にも、この手を否定させない」


---


翌朝、チニョンの部屋に行った。


扉を叩いた。開いた。チニョンが立っていた。昨日の続きを警戒している顔だった。


「試験を受けます」


チニョンの顔が、変わった。


「貴方の隣で、胸を張って医者と名乗れるようになるために」


チニョンは一拍置いた。それから笑った。泣きそうな笑い方だった。


「……遅い」


「すみません」


「謝らなくていい。早く治して」


「はい」


クァンは頭を下げた。


廊下に戻り、歩き始めた。体がまだ痛かった。動くたびに棒の跡が疼いた。それでも、歩くことはできた。


歩きながら、医学書のことを考えた。読み終えるまで、どれくらいかかるか。試験まで、何が足りないか。


痛みは、後でいい。


今は、前だけを見ていればいい。


-

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ