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アフターストーリー1

閲覧ありがとうございます。

最後までお付き合いいただければ幸いです。

春の風が街を撫でる午後。

サロンの扉を開けると、甘い香水と焼き菓子の匂いが鼻をくすぐる。

奥のカウンターから聞こえてくるエレナの声が、自然とルイの視線を誘った。


「そのまま、もう少し優しく混ぜてみて。ほら、力入れすぎると気泡が潰れちゃうからね。」


隣には新人のカイが、真剣な顔つきでエレナの手元を見つめていた。

彼はこのサロンに入ってきたばかりの、素直で愛嬌のある後輩だ。

サロンのリーダーがエレナをカイの指導役を任命した。

だから、カイとエレナがサロンで2人でいる時間が増えるのは必然だ。

それはルイ自身も分かっていたはずなのだが、最近、カイがエレナに向ける眼差しに、ルイは妙なざわつきを覚えていた。


「エレナさん、教え方ほんと丁寧でわかりやすいです!」


「ありがとう。じゃあ、次の手順もきちんと覚えてね?」


「はいっ!」


エレナがふわりと笑うと、カイの顔がぱっと明るくなった。

その様子を見て、ルイは手にしていたトレイを思わず強く握っていた。


(……なんなんだよ、俺。)


別に、カイがエレナに気があるってわけじゃない。

わかっている。

けれど、彼女の笑顔を独占されているようで、落ち着かなかった。


横で同僚のアイラが、にやにやしながら声をかけてくる。


「ルイくん、顔。めっちゃ嫉妬してる顔してる。かわいいー。」


「してません。」


「うそだぁ。この店じゃもう有名なんだから。ルイくんがエレナさんに夢中って。」


「……仕事中ですよ、アイラさん。」


苦い顔をして、踵を返し、ルイは掃除に戻る。

背後でアイラが面白そうに、くすくすと笑うのが聞こえたがルイは無視をした。


エレナの指導姿は美しい。

自分なんかよりずっと落ち着いていて、堂々としていて、子供っぽい感情を抱いている自分と比べて、少しだけ、遠く感じた。


その日の閉店間際。

カイがぽつりと漏らした。


「俺、エレナさんみたいな人と、ずっと一緒に働けたら幸せだろうなあ……」


(……聞こえてんだぞ、それ。)


そう思いつつ、何も言えず、ただトレイを片付ける手に力を込める。どんな返事をしても棘のある嫌味な言葉しか返せないような気がしたからだ。


エレナを信じていないわけじゃない。

けれど、自分の未熟さや、エレナの成長した背中を見るたび、不安になる。


その夜、帰り道でエレナがふと見上げてくる。


「ねえ、今日……ヤキモチ妬いてた?」


「……別に。」


「ふふっ、わかりやすいなあ。それに、アイラさんがさっき、ルイのこと教えてくれたよ。」


「アイラさんはいつも、余計なことを……」


エレナは笑って、そっと腕に寄り添った。


「私が異性として好きで、誰よりも特別なのは、ルイだけだよ。」


その言葉だけで、世界の色が変わる気がした。


「……オマエ、本当にずるい。」


「なにが?」


「そんなこと言われたら……もっと好きになっちまうだろ。」


エレナは照れもせず、微笑んで言った。


「じゃあ、もっと好きにさせてあげる!」


風に揺れる髪。

茶目っ気たっぷりの可愛らしいエレナの表情。

春の夜道で、ルイは確かに自分の幸せを感じていた。


数日後。

その日の夜は、静かな夜だった。

サロンの閉店作業を終えたルイは、洗い物の終わったシンクにふっと息をつく。

明かりを落とし、戸締りをして、最後にもう一度だけ、誰もいないフロアを見渡す。


どこか、胸の奥がぽっかりと空いていた。


理由は分かっていた。

今日は、エレナが別店舗の応援要請があって、別店舗に行っていて会えなかったからだ。

今やエレナは店のエースだ。


つまらない日だった。

エレナがいないだけで。


「……なんだそれ。」


誰にともなく、苦笑する。

まるで、恋に浮かれる中学生みたいだ。

自分もエレナと同じで正社員なのに。

大人になりきれていない自分が嫌だった。

どうしようもない焦燥感に駆られる自分がいた。


その夜、家に戻り、湯に浸かりながら、うとうとしはじめたルイは、眠気に抗いながら、なんとかベッドに辿り着き、そのまま眠りにつき、不思議な夢を見た。



夢の中、ルイはサロンに立っていた。

けれど、そこにはエレナも、エミリエも、見知った誰の姿もない。


スタッフは無言で作業し、感情のない返答だけが飛び交う。


(……妙だな。こんな空気、知らないはずなのに、どこかで……)


そう思った瞬間、空中にふわりとウィンドウのようなものが現れた。


タッチパネルのような質感。

電子的に青白く発光する画面に、文字が浮かんでいた。


【ルイと話す】

【先生に声をかける】


(……なんだこれ。)


まるで“選択肢”のようなそれが、勝手に進んでいく。


そして――


【私は……先生が好き】


最後には、それしか表示されなくなった。


カチッというクリック音が響き、光が弾け、カードのようなものが花びらのように舞い上がる。


世界が塗り替わった。


白いチャペル。

幻想的なミュージックに包まれて、2人の姿が見えた。

ウェディングドレスを纏ったエミリエ。

その隣には、白衣姿の先生がいた。


「ルイ、今……幸せ?」


問いかけに、ザザッとノイズが走り、ルイは言葉を失った。


(……答えられない。)


何も思い出せなかった。

誰かを好きだった気もするのに、それが誰なのか、わからない。


エミリエは先生の手をそっと取り、柔らかく微笑む。


「私はちゃんと見つけたよ。世界で一番、大切な人を。」


それは祝福されるべき光景のはずだった。

けれど、ルイの胸の奥には、ぽっかりと空洞が広がっていた。


そのとき――ふと、後ろに気配を感じた。


振り返ると、そこに見知らぬ少女と目があった。

先ほどまではチャペルだったのに、振り返った先は、見知らぬ路地裏。


どこか懐かしい面影。けれど、どこか違う。


「……誰?」


彼女は、ルイを見てそう言った。


その瞬間、胸に鋭い痛みが走る。


(エレナ……?)


でも、その声は冷たく、瞳には感情の色がなかった。


まるで、無機質で、無関心で、他人を見つめるような瞳。


(……やめてくれ。そんな目で見るな。)


言いたかった。叫びたかった。

でも、口にしたいその言葉は何も紡ぐことができなかった。


(俺は、お前を知ってる!……なのに……!)


彼女の姿は音もなく遠ざかっていく。


街の雑踏に、光の粒子に、誰かの人生に、溶けていくように。


(待ってくれよ、行かないでくれ……!)


必死に手を伸ばす。けれど、その手は、何も掴めなかった。


「……っ!」


ルイはベッドの上で跳ね起きた。

汗ばんだシャツは気持ち悪く、肌にじんわりと張り付き、脈打つ鼓動が全身に走る。


窓の外は夜のまま。

夢だったと理解するのに、数秒かかった。


夢の中で感じた“喪失感”だけが、現実に染み残っていた。


そのとき、スマホに通知が入っていることに気がついた。


『今日は応援先でバタバタだったけど、ルイの顔思い出して頑張れたよ。明日は会えるよね?』


エレナからのメッセージ。


たった一文。

それだけなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。

先ほどの不快感は一気に拭えた。


『明日は迎えに行く。帰り、よかったら一緒に夕飯を食べよう。』


そう返信して、スマホを伏せた。


そして、思う。


(エレナがいなければ、俺は……)


あの空っぽの夢の中のように、誰かに選ばれることもなく、誰にも触れられずに、ただ無難な人生を終えていたかもしれない。


「エレナがいたから、俺はちゃんと生きている。」


誰に言うでもない呟きが、夜の静けさに溶けていった。


そして、再び目を閉じる。


明日、あの温かい笑顔が待っている。

それだけで、今日という一日が意味を持った気がした。


けれど、もう“それだけ”じゃ足りない。

エレナの隣にいる未来を、何ひとつ疑わずに願えるように。


大切な人と、この先も共に歩いていくために、ルイは静かに、ひとつの決意を胸に刻んでいた。

お読みいただきありがとうございます。

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