98. 伯父
なんで、この人が水面に映ったのか。
角度が全然違うのに。
不思議な泉では不思議なことがあるんだな――。
そんなことを考えながら、エリザベスは男性に声をかけた。
「こんにちは。どこかで会ってますよね? ソロの冒険者ですか?」
声をかけられた男性は少しだけ俯いて、二歩退いた。
退かれるなんて、心外だった。
自分よりずっと年齢も上で――たぶん三十代後半か四十代前半――背も高い。
「いや、私は――いいや、君は?」
聞こえた声は穏やかで、敵意はなさそう。
どこで会ったのかは思い出せないけれど、優しそうな人だと思った。
「私はエリザベス――エリザベス・ローレン・シュヘルです」
「シュヘル性――だと?」
二歩、男性が近づいた。
「はい。ここの次期領主トリスタンの妻です」
小さくおじぎをすると、なぜか男性はぎょっとしたように顔を上げて一瞬目を見開き、すぐにまた俯いた。
「トリスタンの、妻!?」
もう二歩近づいて、一歩下がっって、慌てたように顔の前で手を振る。
「あ、いや、失礼かもしれないけど、とても妻なんて年齢には見えなかったから――だけど、本当の話なのか!?」
酷く驚いた様子がなぜかかわいらしく見えた。
「はい。といっても、ここには来たばかりで――まだ三カ月にもならないんですけど」
「そうなのか――次期領主って言ったか。トリスタンは今、何歳だ?」
「十七歳です。私も」
それを聞いて、男性はぎくりと動きを止めた。
「十七! って、君はともかく、あいつの成人は十八だろう!? なんで――あのジジイ――ホルストに何かあったのか!?」
もう二歩近づいて、なぜかまた一歩離れる。
祖父をジジイ呼び――ということは祖父とはかなり親しいのだろう。
「いえ――お祖父様は元気ですけど――そこはちょっといろいろあって、トリスタンは飛び級で卒業して私とここに来る羽目になってしまって」
「元気で、飛び級で――え? ここに来る『羽目』? それはダンジョンが浅くなっていることに関係があるのか? それに、低層が様変わりしたことにも――」
男性の眉が心配そうに寄った。
「あ、ええっと、それはまた別で――ダンジョンが浅くなってるのは、私たちの友人たちが潜って戦っているのと、お祖父様が頑張ってくれているからで、低層が様変わりしたのは、たぶんですけど、私が入ったせい、かと……」
「は? 君が? ああ、妻だからか?」
男性がまた二歩近づいた。
さっきから驚きまくりだ。実はおもしろい人なのかもしれない。
「そこはたぶん、なんですけど、お祖父様がそう言ってたから……私が望んだせいだって。温泉とか、お菓子とか、羊とか、海とか。すみません、冒険者の方からしたら、急にダンジョン内に変化が出たらびっくりしますよね」
迷惑をかけたのかもしれない。
潜り慣れたダンジョンが様変わりしてしまったのだから。
「ああ、いや、それは別に――低層だし、明るくなったし、歩きやすい、し? だけど、本当に君のせいなのか? 他に潜ってる人はいないのか?」
迷惑でなかったのならよかった――そう思いながら答える。
「いますよ? 私も一人じゃないし――すぐ向こうに友人が二人と、今日もお祖父様とマリーがもっと下の方に行っているし」
「マリー!? それは――彼女の影響もあるかもしれないのか?」
「マリーは私の侍女で――影響があるのかどうかはわかりません。ただ、マリーはいつも私のことを助けてくれているので、同じようなことを望んでくれているのかもしれないってそう思います」
「……侍女。……『マリー』」
男性はしばらく黙ったまま何かを考えている様子だった。
「もし知っているなら教えてくれ――あのジジイはなんでまたここに潜ってるんだ? もう潜るには限界だったはずだ。君の友人たちも潜ってるって言ったね? だけどこれだけの速さでダンジョンが埋まってるからには相当無理してるはず――そうか、あのジジイそろそろ死ぬんだな!? それでトリスタンを呼び寄せて、自分はできる限りダンジョンを浅くしようとした――そういうことか」
一人で納得している。おもしろい人なのかと思ったら、なんだか失礼な人だ。
「詳しいんですね。誰も死にませんけど」
「死なないのか? それはよかった――だけど、だったらなんで」
気が抜けた声になって、もう二歩近づく。さっきから前へ後ろへと落ち着きのないことだ――。
「そこは、まあ、いろいろありまして。本人に直接聞いたほうがいいかと」
「そう――だな。まあ、機会があったらそうするよ」
男性はそのまま口を噤んだ。
またしてもじっと何か考える様子。
「あの、もし道がわからないなら、この小川沿いに下れば小道に出ますよ? そこからなら一本道だから、ダンジョンを下るにしろ上るにしろすぐに――」
「ああ、いいんだ。私は別に道に迷ったわけじゃなくて、下層の変化を見に来ただけだから、すぐ戻るし。ところで、もう一つ聞かせて欲しいんだけど、君は――いや、トリスタンは――ここの領地を継ぐってことがどういうことか、知っているのか?」
何気ない様子でそう聞かれたけれど、返答に詰まった。
その質問には裏があるかもしれないから。
それになんだか様子が――距離が近づいたせいで、感じる。なんとなく男性の周囲の空気が揺らいでいる。それに伏せたままの目が気になる。
そして今の質問。
この人は何を知っていて、何を聞いているのか――まさか『魔王』のことを聞いているわけじゃないと思うけれど。
どうにもできずに沈黙で答えたエリザベスに男性はちょっとだけ笑って言葉を続けた。
「もちろんダンジョンには調整が必要でそれは領主の仕事だ。ここにいるってことは君も冒険者登録は済んでいるんだし、ダンジョンに潜ると呪いを受ける可能性があることも知っている――だよね?
だが私が聞いてるのはそこじゃない。君はちゃんと聞いているのかい? それともあのジジイが隠している? ――逃げるなら今のうちだ」
それはつまり、この人は知っているってことで。
そして聞かれているのはトリスタンの将来がどこに向かうのかを知っているのか、ということ――。
そして、それを知っている人は。
「あなたは――誰?」
それを聞くのは、知っている人なんてものすごく限られているはず。
「知っているのか!?」
その言葉と共に男性がパッと顔を上げた。
辛そうに歪んだ顔には、金の瞳。
つまり。
「あなた……ルーク伯父様……なのね?」
今度は驚きの顔をするのはエリザベスの方だった。
見覚えがあると思ったのは、トリスタンに似ているからだ。
あの、断罪イベントの時に迎えに来てくれた十年後のトリスタンに。
「なんで、こんな低層に――お祖父様があんなに探してたのに――って、私が海なんか出したからですか!? もしかして小部屋がないからダンジョンとしてなってない、とか嫁失格だとか言いに来た――」
「違う! そんなことはどうでもいい! それより、トリスタンはそれを知っていて、それでも君を連れて来たのか!? 君たちはそんなに若いのに――あのジジイはどうして――ここにどんな危険があるのか、ちゃんとわかりもしないで――愛があれば大丈夫だとかそんな生ぬるいことを考えているのならすぐに目を覚ますんだ。
ダンジョンの呪いはそんな人間の想いなんて簡単に壊してしまう――人生をめちゃくちゃにされてしまうような呪いをもらうことさえあるんだぞ。
いいか、一つだけ言っておく――トリスタンを、何があっても絶対にあの子を深部に入れるな。戦わせるな。一つもらっただけで、二度と愛する人を腕に抱けない――そんな呪いもここにはあるんだ」
すごい勢いでまくしたてられて、どう反応を返せばいいかもわからないけれど、一つだけわかったことがあった。
「あなたは、ここでそんな呪いをもらったのね」
エリザベスの声は問いかけではなかったけれど。
「――そうだ」
苦痛に押し潰されそうな声に、返せる言葉が見つからない。
「だから彼女を追い返した。何度も会いに来た最愛の人に、二度と来るな、と言った。そして魔獣をけしかけて追い出したんだ。他にできることなんかなかった。
いいか、ここはそういう場所なんだ。私はできるだけ長く、自分の時間を引き延ばすようにする――だからあいつをここに入れるな」
頼むから――そう続けた瞳に、悲しみと甥を心配する気持ち以外の感情はなかった。
「トリスタンは入れないわ。お祖父様が冒険者登録をさせてくれないから。私たちに子どもがいないからだめだって――それにトリスタンは知らないのよ――お祖父様があなたに会って確認するまでは代替わりのことは話さないって言ってたし、私も今知る必要はないって思ったから。
あの、伯父様は、ここから出られないんですか? お祖父様は交代で出ることもできるって言ってたわ――そうすれば、もしかしたら」
今のまま、この人の側に行くのは危険――そう感じる。
ダンジョン内の『魔王』、つまりラスボスなのだと思えば当然かもしれないけど、周囲の空間が歪んでいるような感覚は圧倒的な魔力のせいか、それともその身体に受けた数々の呪いのせいだろうか。
だけど人として地上に出て来てくれさえすれば、もしかしたらホルストのように少しずつ解呪することだってできるかも――そう続けようとした言葉を重々しい言葉が遮った。
「私は危険なんだ。それに外に出ることに意味がない――それよりあいつが知らないのに何で君が――」
言葉を切って、あたりを見回す。
「この階にいる二人は友人たちだと言ったね? こっちに来るみたいだ。もう少し君に聞きたいことはあるけど今日のところはここまで――私に会ったことは秘密に。甥にも、もちろんあのジジイにも」
急に早口になった伯父は、人差し指を自分の唇に寄せて小さく笑った。
「ええっ、そんな約束なんて――」
「できるだけ長い間トリスタンを魔王にしなくて済むようにがんばるから」
優しい顔でそんなことを頼まないで欲しい。
「それはずるいです。それにお祖父様は伯父様のこと、ものすごく心配してるんですよ? せめて話すだけでも――」
「考えておく。久しぶりに人と話せて楽しかった。じゃあ――」
そういうなり、黒髪の男性の姿は煙のように掻き消えた。




