46. トリスタン
とりあえずの方向性は定まったものの、王太子の(見せかけ)婚約者として始まったエリザベスの新学期は、曇ったガラスの水槽の内側から見る景色のようにぼんやりとくすんでいた。
それはウィリアムの婚約者になったことがショックだったわけでもなければ、実際は自分が『魔王』の嫁に行くらしいことがわかったせいでもなかった。
ナイトがいなくなったせいだ。
七歳の頃から八年間、お風呂や着替えなど、ものすごく個人的な時間以外はどこに行くにも側を離れずにいた使い魔がいない。
状況に納得が行かず壁に額を打ち付けても、誰も止めてはくれない。愚痴も聞いてくれないし、やる気を取り戻しても一緒に拳を突き上げてはくれない――喪失感。
本当に酷い目に遭っていないのか、ちゃんと食事をしているだろうか、夜は一人ぼっちで寂しがっていないだろうか――特に夜は寂しくて、らしくないと思いつつもふとした拍子に涙がこぼれた。今すぐ魔王のところに押しかけて行きたいくらいに、寂しい。
水槽から脱出する転機が訪れたのは、新学期が始まってひと月が過ぎようというころで、学院の付属図書館での出来事がきっかけだった。
その日のエリザベスはひどく疲れていた。
夢見が悪い日が続いていて、前の晩も地下牢のようなところに鎖で繋がれたナイトがろくに食事も与えられずに弱っている夢を見たのだ。それから朝まで一睡もできず、ぼんやりした頭には授業もろくに入って来なかった。
それで午後は一人で図書館に向かった。
少しは今後のためになるかと棚から食材に関する本を抜き出して開いてはみたものの、夢のことが気になって内容が入って来ない。
エリザベスは本を持ったままであまり人の来ない閲覧室奥の隅にあるソファに向かった。
図書館ではあまり人気のない本が多いその場所には大きな窓があって、外の木々がよく見える。明るい日差しを受ける植物を見れば少しは心が慰められるかもしれない。
そう思ってのことだったけれど、エリザベスがよく眠れていなかったのは一晩だけのことではなく、日差しに温められた身体は自然と眠りを求め、そのまま昏々と眠りこんでしまった。
そして。
目が覚めた時は既に真っ暗――。
大きな窓から月明かりが煌々と差し込んでいるので真っ暗というのは適切ではないけれど、間違っても夕方とはいえない、むしろ夜中といえそうな時間帯のようだ。
どうやら閉館のチャイムもアナウンスもすべて聞こえないほどぐっすりと眠り込んでいたらしい。図書館員は奥の隅にいたエリザベスに気づかず、帰宅したのだろう。
むむむ。
出ることはできるかもしれないが、施錠はできない。このまま一晩ここにいて午前中に何食わぬ顔で出て行った方がいいかも――なんて一瞬のんきなことを考えたエリザベスだったが、その頃には学院内がちょっとした騒ぎになっていた。
女子寮長が帰寮時間になってもエリザベスが戻っていないことを学院長に報告し、学院の職員総出での捜索が行われようとしていたのだ。
エリザベスが学院から出た形跡はなかったものの、王太子の婚約者が事件に巻き込まれでもしていたら大変なので、すぐさまウィルベリー公爵家に連絡が入り、父親からパートリッジ公爵家の祖父にも連絡が行ったところで、捜索開始が一時中断された。
連絡を受けた直後、王都のパートリッジ公爵家別邸から魔法で助手と一緒に転移してきた祖父が、学院の応接室に入るなり「エリザベスは学院内におる。居場所はわかっておるし、危険な目には遭っとらん。寝過ごしただけじゃから心配はいらん。騒がんでよい。ウィルベリー公爵も来ん。来なくていい、と言ったのでな」と、あっさり事件説を否定してくれたからだ。
「学院図書館の解錠を三十分ばかり許可してくれるか? トリスタン、わしの代わりに連れて来てくれ。わしはここで待っておるでのう」
『寝過ごしただけ』という不名誉な事実をバラされたわけだが、居場所は『図書館』で『三十分』もあれば余裕で連れ帰れるという指定と、まったく焦りのない祖父の様子に、学院長も寮長も胸を撫でおろした。
そんなことは知らないエリザベスの方は、しばらくソファに座ったままで外の暗闇を見つめていた。
午後中ずっと眠っていたせいで眠くはない。
せっかくだからテーブル席に移って明かりをつけて本でも読もうか――そう思って立ち上がった時だった。
ドアが開いた音がした。
誰かが歩いて来る音も。
そして、暗闇の中に見えたのは金色の瞳――。
息を呑んで、次の瞬間には足が走り出していた。
手にしていた本が床に落ちたことにも気づかないまま、両手を伸ばして抱きしめる。
「ナイト……!」
が。
もちろんきつく抱きしめたのは懐かしい艶々した毛の黒豹ではなかったわけで。
そこに気づくまで、約五秒。
「ナイト?」
じゃ、ない。
頭の位置が高すぎるし、服も着ている。
これは、人間?
わしゃわしゃと撫でてみればずっと毛が長いし、クルクルとうねったくせ毛――。身長もエリザベスより高い。骨格も、随分――。
「きゃあああああっ! ごめんなさいっ!!!!!」
ばっ! と手を離し、飛び跳ねるように距離を開けた――。
勘違い、した。眼の色が綺麗な金色だったから。
かーっと頬に血が上って、その場にしゃがみ込む。
「ごめんなさいっ! あの、知り合いと勘違い、しました。すみません、突然。私、いつもならこんなこと、しないんですけど。ごめんなさい、今のはなかったことにしていただけませんか――」
どうにかした言い訳に、反応は返ってこなかった。
羞恥心の塊の下からそーっと顔を上げて相手の様子を窺うと、相手は学院の制服を着た男の子だ。
呆然とした様子で、立ち尽くしている。
よほど驚いたらしい。
当然だ。夜中の図書館でいきなり見ず知らずの女生徒に抱きつかれるなんて、どんなドッキリ肝試し大会だ。
「本当にごめんなさい。あの、驚かせてすみません。私はお化けとかじゃなくて、ちゃんと学院の生徒です。今日はちょっとうっかり寝過ごしてここに閉じ込められてしまって――四年生のエリザベス・ローレン・ウィルベリーです。失礼ですけど、あなたはどなた?」
精一杯あやしくないように言い訳をすると、相手はようやく身体の力を抜いた。
それでも返ってきた言葉はかなりぎこちなかったけれど。
「僕、は。僕はトリスタン・トルクアルタ・パートリッジ。祖父に――ええと、君の祖父でもあるけど――に言われて、君を迎えに来たんだ。みんな心配してる。行こう」




