32. 『シルヴァヌスの子』脱出
「とりあえず、なんか言っとくこと、ある?」
ナイジェルが聞いた。
「ないよ。……僕が助からなかったら弟をよろしく、くらいかな。あいつが次の王になるんだし」
「それだけ?」
拍子抜けしたようにナイジェルが言う。
「他に何があるんだよ? ナイジェルだったらなんかあるのか?」
「……ないけど、僕だったら嫌だな。今死ぬの。彼女もいないままで、キスもしたことないのに――」
その言葉にリュカが吹き出し、ウィリアムは眉を寄せた。
「ナイジェル、僕だってそうだ。嫌がっていないとでも思うのか?」
渋い顔のままで話す。
「だって、随分淡々としてるから」
「バカだな。そうでないと取り込まれるのが早くなるんだよ――」
笑いたいのを精一杯抑えた様子でリュカが言うと「そうか、ごめん」とナイジェルが謝った。
「だけどそういうことなら、僕が一歩リードだな」
にやっと笑ってリュカが言うと、ナイジェルが目を見開いた。
「なんだよ、それ、リュカ。いつの間にお前――」
「ま、お前は取り込まれてないんだし、のんびりがんばればいいさ」
死の縁にいるとも思えないような会話をする三人に、すっかり取り残された感じの下級生三人……。
エリザベスもあっけにとられた感じで三人を見つめていた。
乙女ゲー攻略対象者の『ファーストキス話』なんて、ありなの?
ありなのか。
まだゲームも始まらない、そんな時期の少年たち。
彼らもちゃんと十代前半を謳歌する少年なんだ。
そんなことに初めて気づかされたエリザベスだった。
自分と何ら変わらない――未来で待ち受ける恋に期待する時期の彼ら。
そしてそのうち二人の命はギリギリのところだ――助けられるものなら助けたい。
今の自分にできることは。
リュカがあげつらった『シルヴァヌスの子』の情報を頭の中でリピートする。
『弱点は炎と聖属性の攻撃』
そう言っていた。
『聖属性の攻撃』
――今の、自分にできることは。
静かに立ち上がったエリザべスの前に、使い魔が立ち塞がった。
責めるような瞳。
今までの努力を無駄にするつもりか、と。
「だけど、私が、やらないといけないのよ」
金の瞳が懇願するような哀しみを帯びて訴えかけるように小さく鳴く。
そんなことはして欲しくない、と。
「だけど、どうしても、やらないと――」
鼻先をぐいぐいと当てて押し戻そうとする力に抗った。
「ごめんね、ナイト。でも、どうにかなるかもしれないし。いざとなったら家出とか、ほら、トリスタンみたいに失踪とかでもいいし――あなたは離れてて」
陽だまりの方に一歩ずつ進む。
「エリー!? 何やってるの! 近づいたらダメだって言われたのに」
跳ねるように立ち上がったリディアが伸ばした手をきっぱり断った。
「これは、私がやらないといけないの」
助けはまだ来ない。来たとしても、助けられるのか――たぶん、無理。間に合わない。王太子を縛ったロープはピンと張りつめ、木の枝は今にも折れてしまいそうに傾いでいる。
だから。
「エリザベス?」
驚愕に目を見開いている上級生たちと背後の二人の視線を感じながら一歩ずつ進んだ。
これまで精一杯の努力で避けていたウィリアム王太子のところまで。
エリザベスを取り込もうとした触手は、まるでエリザベスの肌が猛毒であるかのように、触れることもできずに一定の距離をあけて蠢くだけだった。
もう首まで埋まっているウィリアムの側に膝をつくとそこだけ地面が露出する。
「エリザベス……君は?」
困惑の表情の王太子に手を伸ばす。首のまわりで彼を地面に取り込もうとしていた触手がうねうねと逃げた。
これでもうのんびりライフは望めそうにないけれど、仕方ない。
両手でそっと頬を撫で、さらにゆっくりと近づく。
『この人が自由になりますように』
瞳を閉じてそう強く祈りながら額に額を寄せる。
どのくらいそうしていただろう。おずおずと頬を撫でる手と引き寄せるように後頭部に回されたもう一方の手の感触に、はっとして目を開いて身体を引いた。
目の前には今までで一番優しい笑みを浮かべた王太子――その両腕が自由になっている。
「助けてくれてありがとう」
声まで極上に優しい――耳が溶けそう。
「あ、ああの、ど、どういたしまして……!」
うひゃー。
これは、ダメだ。
この至近距離でそれは、無理。
もっと離れようとしてバランスを崩し、尻もちをついてさらにわたわたと取り乱すエリザベスを見て、ウィリアムは笑みを深め、土から這い出した。
「エリザベス、今のは……」
「ごめんなさいっ! すみませんっ! 他にどうしていいかわからなくて。出てるとこが他になかったし! なかったことにして下さいっ!」
俯いたまま立ち上がって、さらに距離を取り、今度はリュカの方を向いた。
呆気にとられた顔の黒髪の少年に近づいて、片方の手を取る。
「あの、えっと、失礼します……」
その手を押戴くように額をつけて、同じように祈る。
身体に巻き付いていた触手が早回しの逆再生フィルムのような勢いでシュルシュルと解けて行った。
「すご……」
呟くと、リュカは王太子と同じように地面から這い出し、両脚を引き抜いた。
二人が木陰に移動して座ったのを確認してから、ナイジェルとジョナサンと一緒に陽だまりに残されていた生徒たちを運ぶ。
触手は新たに入って来たナイジェルとジョナサンを狙いつつ、他の生徒たちのことも諦めたくないようだった。けれど、エリザベスが手を伸ばすとあっさりと退散する。問題なく日陰に運び出すことができた。
先に捕らわれていた子たちは眠ったままだったけれど、とにかく全員が無事触手の出てこない場所に落ち着き、黙ったまま石に座った。
穏やかに日の光が降り注ぐ空間を見つめる。
地面も草も元通りで、甘い香りのする花をつけた木が穏やかにこちらを誘っている。そこが恐怖のアリジゴクであることを示すのは木の枝から垂れた一本のロープだけだ。
「は~」
誰ともなく息を吐いた。
視線が刺さるような気がして、エリザベスは俯いて肩を落とした。
これでもう逃げられない。
だけど、あのまま王太子やリュカが死んでもいいとは思えなかった。
膝に乗った黒豹の頭をひたすら撫でながら、けして顔を上げようとしないエリザベスを、周りは不思議そうに見つめているのだが、エリザベス本人は酷く打ちひしがれていて、注がれている視線の意味まで考える余裕はなかった。
その頭の中には『悪役令嬢』で『断罪』で『追放』の三つの単語が延々と回っている。
こんな世界に転生したことを心から悔やむ。
自分のやったことに後悔はないけれど、全てがシナリオ通りに進むなら、なんのために自分はエリザベスとして転生したんだ――。
心配そうに自分を見上げてくるナイトに情けない笑みを返すことさえ今はできない。
と、思いがけない言葉が聞こえた。
「さっきのことは他言無用だ。誰も何も見なかった、それでいいね?」
きっぱりと言い切ったのは王太子の声――。
驚いてぱっと顔を上げて見回せば、リュカとナイジェルとジョナサンとリディアが同意の印にはっきりと頷いたのが見えた。
「説明は後でいいから――してくれるだろ?」
ちょっと困ったような優しい笑顔――それに抗えるだけの気力はエリザベスには残っていなかった。




