甘く、溺れる
「花々は咲いているだけですよ」
風が吹く岡の上で、傘を差した一人の女が薄く微笑む。咲き誇り、いつしか枯れてゆく花々の中心でただ立っている。そこには一つの墓標があった。その言葉は立ち尽くす僕に向けているのだろうか。
「この子も、同じ」
しなやかな手が優しく碑石を撫でる。花畑、そこにはきっと毒も隠れているのだろう。美しい花には毒があるとは、誰が言ったことだろうか。
毒持ちは他と変わらず咲き誇る。稀代の悪女として君臨したあの国崩しのように。皆が彼女を恨み、そしてその甘やかな言葉と策略に溺れた。
「欲しがることは、悪いことなのかしら?やはり、欲しがったものが悪かったのかしら?」
傘の下に隠れる柔らかな髪が風に流れる。国崩しの影をどこかで感じる淡い髪色。僕はもう何も知れない、何もわからない。
稀代の悪女、そう呼ばれていた女はもういない。
「あの女が欲しがったものは、罪だと言われても仕方がないだろう」
彼女はあの国を、ひいては世界を奪いたいとすら言っていたという。それは、罪だろう。世界は、国は、一人のものではないというのに。
風に舞う花弁が僕の頬をそっと撫でる。
「わたくしとしては、一人を欲しがることも罪だと思いますわ」
あの女に狂わされた者は数多くいた。男でも、女でも。人を惹きつけ、破滅させる何かがあるようにすらも見えた。
「人を狂わせたのが、彼女の罪だと?みな、人を一人くらいは狂わせ、狂わされてきたでしょうに」
穏やかな声色だった。ただの世間話のような声色だった。何も気にも留めず、ただそれだけだというように。
「夾竹桃、という花があるだろう」
こぼれ落ちる言葉は、いつの間にか紡がれていく。自分の中にあった何かがぽろぽろと零れていく。
「あの花は確かに美しい。でもその見た目に反して毒があるではないか。それは、そうだったとしてもその美しさは、褪せない。だから、あの女はずっと……」
「求められ続けた、とでも言いたいのでしょうか?」
求められ、その姿を一目見たいと思われ、疎まれる出自だったにも関わらずあそこまで成り上がった。なのに成り上がって得た物の使い方を間違えた女。
「美しい花はいつか枯れるものです。そして枯れたなら見向きもされない。そのはずだったのですけどね」
求められ、そして疎まれ、自分の全てを支配しようとした人間を出し抜き、全てを手中に収め、尚もここ一帯の国々を釘付けにした女。
「追い求められるのは必ずしも幸せと言えるのでしょうか?」
傘の下から覗く深い瞳に落ちていくような感覚がする。瞳の主は、わたくしはそうは思いません、とだけ言って頭を振る。
「でもここには、誰も来ない」
「でも、民衆は、国の頭領は、彼女のことを覚えていますよ」
いっそ鬱陶しいほどに、とでも言いたげだった。強い風が吹いてとりどりの花弁が舞い上がる。桃が舞い散り、その香りがくゆりと香る。
世界は覚えている。あの女の罪を、その姿を、求めた物を。
「国崩しは、忘れられたかったのか?」
「さぁ、わたくしには分かりませんね。今のわたくしと彼女とは、なんの繋がりもありませんから」
墓前に居るのにも関わらず、悲嘆に暮れることもなく、僕の言葉に憤るのでもなく、ただ立っていた。誰かがいないと着れないような上質な服を着て、一人で立っていた。
悲劇的な過去。忌々しい過去。国崩しはそれすら諸共せずに成り上がった。
「国崩し……いや、鏡華后は何が欲しかったのだろうな」
鏡の華の妃。双子の姉と母の命を犠牲に生まれた傾国。麗しく、誰もが目を奪われ、そして命を、財産を奪われた。
「それも分からないことです。でも、誰かに奪われたくなかったのではないでしょうか?」
「自分を、か」
「そうかもしれませんわね」
女がくす、と笑う。
鏡写しの華のことは誰も知らない。みな彼女の妃としての、悪女としての名だけ知り、彼女を見ない。
「花は見られたいなど、初めから思ってなどいないのでしょう。ただあるがままに咲くのです」
女は袖から小瓶を取り出した。そしてその中の液体を墓標に掛けた。透明なのか桃色なのかは、分からなかった。遠く、光に照らされた硝子は誰のためでもなく輝く。
「気になりますか?」
小瓶を軽く振って僕を見る。
「どうでも良い、というのが本心だ」
「そうでしょうね。鏡華……いえ、華翠はとても美しかった。周囲の者の生気を奪って輝いているように見えた。彼女の周囲にいた女は皆死んでいきましたから」
ある者は嫉妬した妾に毒殺され、ある者は夫もろとも連座となって殺された。
それでも鏡華は佇んでいた。なんの傷を負うこともなく。
程なくして彼女の父も死んだ。彼女には庇護が無くなる前からずっと売り先が見繕われていた。
愛する妻の影の見える、愛する妻を殺した娘を置いておきたくなかったからか、それは最早分からない。だが、鏡華はそれを決して甘んじて受け入れなかった。
「華翠は買い手に、賭けをしようと申し出たのです。父すらも失った彼女の家に残された兵と財産で戦おうと言ったのです」
結果は勝ちだったのだろう。容姿だけでなく策略にも優れ、どれほどの劣勢でも何度だって覆して見せたのだろう。そして彼女は再び身分を得たのだろう。
「勝った、勝った、勝った。彼女は勝ち続けました。誰にも奪われぬように」
貴族に返り咲き、王に嫁ぎ、そして事実上の王配にまで上り詰め、世界を思うままに引きずり回した。
悪女は、そうとしか覚えられなかった。
「罪だけ覚えられても、何も嬉しくはないとは思いませんか?」
「きっと、そうだろうとは思うな」
だからといって、罪を覚える人々に罪があるのだろうか。
桃の花の甘い香りは相も変わらずに辺りに漂う。静かに時は過ぎていく。夕闇は追いかけてくる。
「だが、悪女として、国崩しとして、傾国として、鏡華后として、それしか人々は覚えられない。それ以外を知らないから」
僕が零した言葉に傘から微かに見える口許がはっとしたように僅かに開かれた。
「確かに、そうですね」
ファム・ファタール的な物語が書きたいと思って衝動書きしただけです。続きはありません。ただの悪女じゃなくって、何かがあった悪女であり、彼女の中ではその何かを守りきれた。何かを守り、誰かにとっての何かを根こそぎ奪った。自分が奪われないように。




