CASE:015-4 踏切向こうのドッペルゲンガー
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
4-1. 報告
雨があがり、朝方の薄明かりがまだ夜の余韻を引きずったままの街を静かに包み始めていた。井の頭線の軌道脇、住宅街の隙間で、湿ったアスファルトが薄氷色に濡れて光っている。踏切には、夜の名残を引きずる遮断機の赤ランプが、ひときわ長く点滅していた。その赤も、やがて朝の光に溶けて消えていく。
レールの上、湿った路面には、黒い細かな粉──まるで微細な炭素片のようなものが線を描くように──残されていた。ここで何があったのか、通り過ぎる人々は誰も気付かない。
特異事案対策室──その異端の組織の面々が、事件現場を離れる準備を進めていた。
午前五時過ぎ。住宅街はまだ眠りから覚めていない。現場検証を終えた透真と蜘手は、それぞれ手際よく道具を片付けている。透真は最後まで現場の痕跡を見逃すまいと、レールの細部や空気の澱みを静かに観察していた。蜘手は、靴裏で粉をひと蹴りして、「これも、現実か」と小さく呟いた。
一方、美優はぼんやりとその光景を見ていた。制服は雨に濡れたまま重く、髪もまた濡れたままだった。その手に握られているスマートフォンの画面が、青白い光を反射していた。彼女は無言で画面を操作し、別行動で捜索していた雷蔵と灯里へ連絡を入れる。
「踏切向こうのドッペルゲンガー、対処完了です」
その声はひどく静かで、どこか底の方が凍りついたような響きを残していた。
「了解、帰還ルートは?」、受話器の向こうで、雷蔵が短く応じる。美優は淡々と歩き出し、遮断機の脇に小さな痕跡を目で確認した。
十数年前──。この踏切で発生したドッペルゲンガー発生型怪異『踏切向こうのドッペルゲンガー』。記録は少なく、特対室の先人たちが最善を尽くし収束したとされていた。しかし時を経て、街の形も、住人の顔も変わっていくなかで、怪異もまた、静かに姿を変えて再び現れた。
『本人がドッペルゲンガーに直接触れることで、ドッペルゲンガーは消失する』
それが、先人たちが解き明かし確立した、唯一の対処法だった。
──消失。当人である美優にとってそれは、ただドッペルゲンガーが物理的に消えたという意味だけではなかった。怪異なのに、まるで人間のような──いや、自身としか思えない感情をむき出しにして消えていったもうひとりの自分。あるいは自分らしさという輪郭まで、薄紙のように剥がれ落ちていく感覚すら覚えた。
事件後の踏切は、すでに日常へと戻ろうとしている。早朝の犬の散歩をしている老人が、何事かとぼんやりと立ち止まって線路の向こうから眺めていた。特対室の面々も「すべてが終わった」顔ではなく、むしろ何か言い残したような曖昧な表情で、帰路へ散っていく。
美優はしばらく踏切の傍らに立ち尽くしていた。制服のポケットを無意識に握りしめ、目の奥で何度も昨夜の出来事をなぞる。
本物と偽物の境目は案外曖昧で、そして誰にも知られずに消えていくのかもしれない。ただ、湿ったレールと黒い粉だけが、その痕跡を静かに主張していた。
やがて彼女はスマートフォンをポケットに戻し、一度だけ雨上がりの空を見上げる。薄青い雲が、ほんのすこしだけ色を変え始めていた。
4-2. 推理
午前七時を回ったばかりの特対室のオフィス。照明がジジジと微かなノイズを吐きながら、いまだ夜を引きずるように微かに明滅していた。
壁沿いのファイルラック、散らかったデスク、紙コップの縁に乾いたコーヒーの痕。透真は、PCモニターの青白い光に顔を照らされながら、静かに、美優から経緯の詳細を聞き終えていた。
「……今回のドッペルゲンガーは、恩寵持ちの模倣だった。恩寵まで再現されているのか、それが一番の懸念だったが、実際には恩寵そのものは再現できなかったようだ」
マウスのクリック音が、空間に静かに跳ねる。美優はソファに腰を下ろし、濡れた制服の裾を指でつまみ、無意識に小さく握った。
「うん。あいつ、ずっと『分解』を使わなかった。もし使えるなら追ってる時に不意打ちみたいにして使ってきたはず。私ならそうするし。鉄パイプ、武器にしてたし、たぶん使えなかったんだと思う」
部屋の奥で、蜘手が椅子の背に片肘を乗せる。独特の飄々とした笑みを浮かべながらも、その目だけは何かを探るように鋭い。透真は、しばしPC画面のまま考え、やがて美優に目線を戻す。
「過去に発生した際の代は解析系の恩寵を持っている者がいなかったせいで詳しい特性は曖昧だが──、一般的にドッペルゲンガーは本人の記憶や思考、表層的な行動までは再現できても、その奥にある直感や恐怖のような根源的なものまでは辿り着けない。君が最後まで違和感を抱いていたのも、それが理由だろう」
美優は静かにうなずき、机の上の書類に視線を落とした。指先には、昨夜の泥と雨の痕がまだ残っている。
「今回の事案のドッペルゲンガー対処法自体は確立している以上、無理に精神的な部分がどの程度まで再現されているかを調査するのも、労力に見合わないがな。俺達の役割はあくまでも対処であって、度の過ぎた解明は要らない。それよりも再発の要因の調査だ」
透真の、まるで自身を戒めるようなつぶやきに、蜘手が肩をすくめる。
「まあ、変な模倣野郎が力まで持ってたら、相当面倒なことになってただろうな。下手すりゃ俺達全滅さ」
どこか冗談めかして言う。しかし空気の奥には、そのもしものリアルな重みが沈殿している。
しばらくの沈黙。蛍光灯のノイズと、遠くで誰かが書類をめくる音。外では朝の喧騒が目覚めはじめ、でもこの部屋の時間だけは、まだ夜を引きずったままだった。
透真が、PCの画面にもう一度目を戻しながら言う。
「たとえば昨日の夢や消せない後悔、心の中で密かに思っていること──そういう曖昧なものこそ、本当の自分にしか持てない領域。ドッペルゲンガーは、そこまでコピーできたケースは俺の知る限りでは、ない。だからこそ、必ず本物との間に齟齬が生まれる」
美優はそっと顔を上げた。
「でも、すごく似てた。自分が本物かどうか、途中で分からなくなりそうだった」
部屋の片隅で、雷蔵が缶コーヒーを開ける。
「お前はお前だよ。他人がどんなに真似しても、心の中のほんの僅かな揺れまではコピーできねぇ」
そう短く言い切り、美優の背中をバンと強く叩いた。
灯里はホワイトボードに記録をまとめながら、
「恩寵は、外側から模倣できるものじゃないわ。本物の苦しみや、積み重ねた恐れの上にしか芽生えない。だから、本物は必ず最後に残るの」
優しい声で、しかしどこか芯の通った響きだった。美優は、何も言わずにみんなの顔を順に見つめる。安心というより、まだどこか拭えない違和感。ただその違和感すら、今の彼女にとっては自分だけのものだと思えた。
ふと、デスクの隅のファイルの間から、昨夜までポケットに入れていた小さなレシートが滑り落ちた。コンビニの印字、何気ない日付と時刻。その細部が、なぜだかとても愛おしい現実だった。透真はそれを拾い上げ、美優に手渡す。「これは、君しか知らない証拠だな」と、少しだけ微笑む。
朝日が、ビルの壁越しにほんのり差し込み始めていた。蛍光灯の明滅が、ゆっくりと夜を追い出していった。
4-3. 違い
雷蔵は飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れ、デスクに肘をついたまま、天井を見上げて呟いた。
「そいつ、最後は何を思ったんだろうな」
報告書の紙をめくる微かな音と、コーヒーの残り香、蛍光灯の弱い明滅。それだけが、夜明けの街のざわめきから自分たちを隔てている。
美優は少しだけ黙り、膝の上に広げた過去の報告書に視線を落とす。そこに記された文字列は、どれも他人事のように淡々としていた。
「知らない。でも……もし、あいつの記憶が私と同じなら、違いってなんだろう。もしかしたら、私の方がドッペルゲンガーだったりして」
その言葉は冗談にしては重く、しかし悲観というより、静かな問いかけとして空気に落ちた。
しばしの沈黙。透真がモニターから顔を上げ、彼女の言葉をかみしめるように目を細める。
「──間違いなく君が本物だ。いくら見た目や記憶が同じでも、怪異には怪異のエネルギーの色がある。それに恩寵持ちには、特有の──無理やりとってつけたような精神的器官がある。あいつにはそれが無かった」
静かな確信、科学でも霊能でも説明しきれない領域の知覚。透真だけが持ちうる、曖昧だが決定的な「違い」についての確信。ふと、美優の肩に、どこからともなく白鼠の式神がちょこちょこと駆け上がる。ふわりと軽い小動物の重さが、制服の生地越しに伝わった。式神は、彼女の頬に小さな手をそっと乗せしばらくじっと見つめると「こっちが本物、保証するよ」、そんなふうに、くるりと身振りで伝える。
美優は、はじめ少し驚き、それから思わず小さく笑った。笑みはどこか遠く、ほんのわずかに心の内側へ向けられていた。
「……ありがとう」
誰にともなく、そうつぶやく。
灯里が席を立ち、ホワイトボードの前でペンをくるくると回しながら、
「違いが不安になるのは、あなたが本物だからよ。怪異は疑問も不安も抱かない。ただ与えられた形と記憶に従ってなりきるだけ。『私は私か?』って揺らぐこと──それこそが、人間である証拠よ」
その言葉に、誰もがしばし黙った。蛍光灯の光が少し強まり、オフィスの壁にうっすらと影が差す。蜘手はデスクに足を投げ出し、
「俺も、時々自分の記憶が偽物みたいに思えること、あるぜ。こんな風変わりな人生になっちまったからな。でもそれでいいんじゃねえか。お前さんが本物って自分で選べば、それが答えさ」
そうぼそりとつぶやき、その声の残響は部屋のどこかで、ぽたりと水滴のように消えた。
美優は、手帳の端を指でつまみ、ゆっくりと呼吸をした。
「私、これからも時々不安になると思う。でも、今は少しだけ安心した」
白鼠の式神は、彼女の肩の上で小さく背伸びし、やがてデスクへと降りていった。
報告書の余白、誰かの手書きの走り書きが目に留まる。
──「人はみな、どこかで自分が偽物じゃないかと怯えている」
その言葉が、朝の静けさと重なった。
都市の窓の向こうで、雲がゆっくりと流れていく。
オフィスの時計の針が、静かに新しい朝を刻み始めていた。
4-4. 日差し
夜の残り香を払う朝の光は都市の端々に静かにしみわたり、眠りから目覚めたばかりの踏切を、朝の色に塗り替えていった。先程の騒ぎが嘘のように、踏切を、部活の朝練に向かう学生の自転車や、早くも出勤するサラリーマン──が通り過ぎていく。ただ、黒い粉の細い線だけが、昨夜ここで何かがあったことを静かに物語っている。レールは、日光を浴びてわずかに鈍く反射し、その光は朝の空気に溶けていった。
そこに残ったものは、記憶なのか、感情なのか。それとも消えていったもうひとりの輪郭なのか。夜の終わりと朝の始まりが重なり合い、線路の上の痕跡だけが、ほんのわずかな抵抗のように、現実と過去を結び留めていた。
やがて、風がそっと吹き抜ける。レールの間にたまった水たまりを揺らし、黒い粉は、まるでたった今まで誰かがここにいたことを示す証人のように、ふわりと宙に舞い上がった。
粉は風に運ばれ、線路の上で一度だけきらりと光り、そのまま都市の空へと溶けて消えていく。そこには、もう何の痕跡も残らなかった。
都市の朝は、すべてを呑み込む。どんなに濃い闇も、悲しみも、あるいは悪夢のような一夜さえも。朝の光のなかで、何もなかった顔をして、世界はまた昨日の続きを始める。昨夜の出来事など、誰も知らず、誰も気にしない。踏切はいつものようにやがて喧騒に包まれていき、レールは遠くへと続いていくだけだった。
美優は、制服の胸元をそっと押さえる。そこには、どこかうずくまりたくなるような、消えた私が残した空白が、まだぽっかりとあった。日差しのなかでその空白だけが、妙に鮮やかだった。
彼女は何も言わず、ゆっくりと踏切を歩き出す。
レールを背にして、新しい一日へと、小さな足音を残していく。
振り返ることはしなかった。
都市は、何もなかった顔をして、静かにまた動き出していた。
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