CASE:015-2 踏切向こうのドッペルゲンガー
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
2-1. 夜の器
夜明けまで、あとどれだけの時間が残っているんだろう。もしかしたら、もう夜は明けないのかもしれない──そんなことを、頭のどこかで思っていた。
私は自分の腕時計を確認する余裕もなく、ただ無我夢中で夜の都市を彷徨い続けていた。暗闇は、容赦なく全身を舐めていく。夜の空気はどこまでも重たく、足を前に出すだけで体力を削られていく気がする。
遠くで、車のブレーキ音が軋んでいる。誰かの怒鳴り声──それも駅前の雑踏の中で、どこか跳ね返るように響いていた。だが、そのどちらも現実感がない。音だけがまるでガラス越しのように届き、私だけ別の時間帯に閉じ込められたまま動けなくなっていた。
気づけば、駅前のコインロッカーの一角に逃げ込んでいた。普段の私なら、こんな場所、絶対に使わない。金属の扉はじっとりと冷たく、近づくとカビと洗剤の臭いが鼻を突いた。ロッカーの前にしゃがみ込んで、膝を胸に抱える。頭のてっぺんから足の指先まで、全身の感覚がどんどん摩耗していく。
ロッカーの奥から漂う鉄と洗剤のにおい。それだけが、かろうじて「今ここにいる」という現実を繋ぎとめていた。夜明けなんて、永遠に来ないんじゃないか──そんな漠然とした絶望が、じわじわと内側から染み出してくる。
コインロッカーの並ぶ通路を、サラリーマンの革靴がコツコツと音を立てて過ぎていく。その音にだけ、私は息をひそめる。辺りに私の姿は見当たらない。でも、背中のすぐ後ろ──皮膚の下、神経の奥底──そこにもうひとりの私が立っている錯覚が、絡みついて離れない。
呼吸が浅くなる。
胸が苦しい。
しばらく、ただそれだけを繰り返していた。
やがて、ほんのわずかに意識が明瞭になる瞬間があった。
(このまま、ここにいても仕方ない……)
私は、じっとしていられなくなって、ふらふらとロッカー前を離れ、駅構内の自動改札へと向かった。
帰れる場所は、もう特対室しかなかった。できるだけ遠くへ──私から、この怪異から、とにかく離れなければならない。そう思いながらポケットから財布を取り出そうとした瞬間──何も、なかった。
指先が空を掴む。
もう一度、制服のポケット、鞄の奥、全身を探る。
どこにも、ない。
財布が、消えていた。
さっきまで握っていたはずの現実的な重みが、忽然と消えている。
血の気が引く。
自動改札の光だけが、無表情に私を照らしている。
駅員のいる窓口も、誰も見ていないのに、何も持たない自分が、世界から切り離されたことを突きつけてくる。
唇が小さく震えた。
(どうしよう……電車に乗れない)
焦りと絶望が、じわじわと肺を締め付ける。このまま改札を抜けてしまいたい衝動と、それでも「できない」現実との板挟み。ほんの一歩だけ改札の前で立ち尽くしたのち、私は静かに背を向けて駅を出るしかなかった。
何分、何秒──
感覚が途切れる。
すぐに私は、たまらず屋外へ飛び出した。誰にも見つかっていないはずなのに、じっとしていられなかった。何かに背中を押されている。自分が自分でないような感覚が、どんどん強くなっていく。
駅前はガランとして、人工的な光ばかりが虚しく降り注いでいた。歩道橋の階段の下までたどり着くと、膝が突然がくりと折れて、その場に座り込んでしまう。
金属の手すりが湿気でじんわり冷たく、手のひらが汗でべたつく。
目の奥がじんじんと痛い。
息を整えようとしても、肺がうまく膨らまない。
鼓動の音だけが、頭の中で響き続ける。
ふとスマートフォンを取り出す。液晶の画面は、夜の光を反射して異様に冷たい。
圏外の表示。
どこにも繋がらない。LINEも、電話も、何も。世界から切り離されるって、こういうことなのかな──そんな言葉が喉の奥で反芻される。
私は、声にならない声で何度も呟く。
(……特対室……灯里先輩、透真先輩、誰でもいい、助けて……)
けれど、誰も応えてくれなかった。
ほんの数時間前までは、この街のひとつひとつが『知っているもの』で埋め尽くされていたはずなのに。今は、自分がどこにいるのかも分からない。自分の指紋や、靴の匂いまでもが、誰かのものみたいに思える。
私は、街の端っこに投げ出された、薄汚れたコインみたいだった。誰にも拾われず、誰にも気づかれず、ただ転がり、夜の器の底に沈んでいく。孤独や恐怖よりも、圧倒的な無力さだけが、ゆっくりと全身を満たしていく。
夜の器は、まだ満ち足りていなかった。
私は、その底で、しずかに息を殺していた。
2-2. 影と踊る
夜気は獣みたいに形を変えながら、都市のすみずみを這い回る。私は、そんな夜の呼吸にまぎれて、ほとんど無意識に歩き続けていた。路地裏をすり抜けたとき、足元に伸びる自分の影が、不自然にねじれ、妙に長く引きずられて見えた。
光のはずれ、色のない世界。
夜の街灯は、私を照らしているはずなのに、私の影だけは異様なほど濃く、どこまでもついてきた。
ふと、振り返る。
誰もいない。
住宅街の暗い道、アスファルトの匂い、湿ったコンクリートの冷たさ。
しかし、私は確信していた。
追われているという感覚だけが、脳みそをギリギリと締め付けていた。
鼓動が、耳の奥でひどく大きい。
胸の内側を冷たい指がなぞる。
何も見えないのに、皮膚の裏側を爪で引っ掻かれるような、ぞわぞわした不安。
夜の住宅街の裏手に、小さな公園がある。昼間なら子どもの声で賑やかな場所も、今は別世界だった。金網フェンスの一部が破れていて、外灯は半分切れている。ブランコは錆びて、微かに風で軋む音を立てていた。滑り台の下には、砂と、濡れた草と、誰かが捨てたガムの包み紙。
私はそこで、ふいに足を止めた。
こんなところに身を隠すなんて、いつもの私らしくない。
でも、今夜は私らしさなんて構っていられなかった。
滑り台の下──
草の匂いと土の湿気。
私は身体を小さく丸め、息を殺す。
指先は泥で冷たく、制服の袖口がじっとりと湿っていく。
外では、誰かの足音が近づいてくる。
カツ、カツ、コツ──
靴の底で湿った砂利を踏みしめる音。
息をひそめて、闇の奥を窺う。
公園の外を歩いていくのは、制服姿の私。
月の光も、街灯も、その姿の細部をはっきり照らしてくる。
その一瞬、心臓が氷の粒になって、全身の血管を砕いて流れていく気がした。
自分がどちらなのか、一瞬わからなくなった。
あと、ほんの数歩。その私がほんの少しでも滑り台の下を覗いていれば、すべてが終わっていたかもしれない。私は両手で口元を必死に押さえ、鼻先から汗ばんだ頬に土の匂いが移る。土と汗と、自分の体温が混じり合って、身体の境目が曖昧になっていく。気配が遠ざかるまで、私は石になったみたいに微動だにしなかった。
ようやく、ゆっくりと息を吐く。
全身の筋肉が、一気に緩んだ。
自分の存在が、闇の中にぼんやりと浮かんでいるような、奇妙な無重力感。
しばらくして、恐る恐る身を起こす。公園のあたりは、不自然なほど静まり返っていた。さっきまで軋んでいたブランコも、今はぴたりと沈黙している。
心臓は、まだ全身の血管に打ち鳴らされている。
耳の奥で、ごうん、ごうん、と鈍い音が響く。
私は、自分の影と踊っている──
なぜかそんな思いが、不意に頭をよぎった。
2-3. 記憶の境界線
歩き続けているうちに、だんだん記憶が曖昧になっていくのを感じた。ここはどこだったっけ。さっきまでいた公園の遊具の赤錆の匂いも、路地裏で見上げた電線の黒い影も、全部が遠い昔の夢みたいに滲んでいく。足元に転がる空き缶、コンクリートの隙間からはみ出す雑草、ゴミ集積所のネット──今の私は、普段の自分なら絶対に近寄らない場所ばかりに、どうしようもなく引き寄せられていた。私から逃げるには、私が普段考えない行動をしなければいけない。
電柱の陰。廃屋の隣。どこも夜の湿気が染みこんでいて、わずかに腐った紙くずやカビの臭いが鼻を突く。カラオケ店の非常階段までたどり着いたとき、私はとうとう、その金属の冷たさに膝を折った。
膝を抱えてしゃがみこむ。
階段の鉄板がスカート越しに体温を奪っていく。
壁に染みついたタバコの匂いが、息を吸うたびに肺をざらつかせる。
口の中はひどく乾いて、舌先で奥歯の裏を何度もなぞってしまう。
(もうダメかもしれない……)
ふっと、思わず呟いた。その声は、自分でも驚くほど細く、頼りなく、どこか他人のものみたいだった。あたりはしんと静まり返り、非常階段の向こう、ガラス戸の奥の明かりの消えたフロアに、誰かがじっとこちらを見ている気がした。けれど私は、もう動けなかった。
……今まで、こんなふうに誰かから必死で逃げ回ったことがあっただろうか。そう思った瞬間、自分の過去すら本当に自分のものだったのか分からなくなる。これまでの記憶が、黒い油膜みたいに表面を流れていき、心の底にあるはずの自分が、どこか遠くへ離れてしまう。
自分の輪郭が、どんどん薄れていく。
「この弱気はきっと、あの怪異の精神的な影響なんだ」
私は、必死に自分で自分を励まそうとした。
──そのとき、背後の路地で、微かな足音。私は反射的に身を低くし、階段下から、さらに建物の裏手へ回る。そこは大きなゴミ箱が並ぶ、ごみ収集所の死角だった。腐った果物や残飯の、どこか甘ったるい生温かい匂いがむっと鼻を突く。
ゴミ箱の陰に身体を押し込む。
ゴミ袋に混じって、足元がじっとり濡れていた。
制服の裾に汚れが付き、息を殺して身を小さく丸める。
心臓が、さっきから止まる寸前みたいに小さく速く鳴っている。
そのとき──
通りの方から、コツ、コツ、と乾いた足音が近づいてくる。
それは私の足音だ。
自分のものじゃないのに、確かに知っている歩き方、リズム。
私は、息を止めて動けなくなった。
──捕まる。
ここにいるのがバレたら、絶対に。
闇の中、耳だけが異様に冴えてくる。
ゴミ箱越しに感じるもうひとりの私の気配。
思考が、ぴりぴりと焼き付く。
その時、『分解』──あの能力を使おうとする、何かの気配が伝わってきた。
目に見えない感覚。皮膚の上に、空気のひずみみたいなものが走る。
すぐそこ、ほんの数歩手前。
『私』が、ゴミ箱の金属の表面に手を当てているのが分かった。
次の瞬間──
音もなく、ゴミ箱の一部がざらりと分解され、崩れ落ちる。
私は反射的に奥へ身体を滑り込ませた。
もし、さっきのまま真正面に隠れていたら、完全に見つかっていた。
汗が額を流れ落ち、泥と混じって目尻がしみる。
すぐ横を、『私』が通り過ぎる。
鋭い目、張り詰めた気配。
私は両手で口を押さえ、肩を震わせながら息を殺した。
──危なかった。
あと数秒でも動くのが遅れていたら、終わっていた。
世界が、何重にも重なって軋んでいる気がした。
自分の輪郭が、ますます揺らぎ、溶けていく。
私は、ごみ袋と金属の陰で、じっと震えていた。
外では、また夜風がぬるく流れていく。
(……このままじゃ、いずれ捕まる)
皮膚の下を流れる冷たい汗とともに、焦燥がじわじわと腹の底を締めつける。
そっと身を起こして、路地の出口から辺りを窺う。
人の気配も、車の音も、世界から消えてしまったみたいだ。
そのとき目の端に、放置された自転車が映り込んだ。サビついたフレーム。破れたサドル。けれどタイヤは生きてる──鍵も外されている。多分、誰かが乗り捨てたまま忘れていったものだろう。
私はしばらく、自転車を前に立ち尽くした。
(盗み……いや、違う。これは生き残るため──)
罪悪感と焦りが、頭の中で何度もぶつかる。けれど、躊躇している余裕なんてなかった。
「ごめん……」
声にならない言葉を呟きながら、私はそっとハンドルを握り、足をかけた。
音を立てないように慎重に押しながら、ひとまず物陰に自転車を運ぶ。
錆びたチェーンが弱々しく鳴る音だけが、夜に溶けていく。
どこまでも逃げなきゃ。
あいつから、怪異から、『私』から──
都市の夜を貫く細い道を、自転車で突き抜けていくしかなかった。
2-4. 帰る場所
どれだけの時間が過ぎただろう。夜が濃くなったのか、それとも自分の心の奥が暗くなったのか、もう分からない。気づけば、警視庁の建物が視界の先にあった。
昼間は私にとってはどこか慣れ親しんだ空気すら漂わせていたはずなのに、今夜のその巨塊は、見知らぬ無機質な装置のようにしか思えなかった。遠くから眺めるコンクリートの壁は光を吸い込み、静かに街の音をはね返している。そこは帰る場所だったはずなのに、今は近寄りがたい気配だけをまとっている。
私は近くのビルの外階段の陰に身を沈め、ただじっと様子を窺った。
冷たい夜気が、制服の袖を湿らせてくる。
指先がじんじんと痺れて、胸の奥ではまた鼓動が荒ぶり出す。
そのときだった。
四つの人影が、夜の街に浮かび上がる。
雷蔵さん──分厚い肩越しに、あたりを睨み据える影。
創次郎さんは、癖となっているニヤリとした笑みを口元に宿している。
透真先輩は、無表情に周囲を見回している。
そして、その隣にもう一人──
『私』だった。
彼女は、いつもの制服、いつもの髪型、歩き方さえ寸分違わない。まるで、私がここにいることが当然だと言わんばかりの態度で、堂々と皆の中心に立っていた。
四人は、迷いなく周囲の捜索を始める。隊列の呼吸も、言葉のやりとりも、何もかもがスムーズで、そこに異物は存在しない。
雷蔵さんが低い声で言う。
「見つけたら即接触だ。逃がすなよ」
創次郎さんは目を細め、
「さて、どこに隠れてるかね」
軽く指を鳴らしながら、楽しげなようでいて、その視線は抜け目なく路地の奥まで射抜いていた。
透真先輩は、ほとんど機械のような無機質な目つきで、ビルの窓、階段、物陰……すべてを冷静にスキャンしている。
私は、息を止めたまま、それを見ていた。
(うそ……みんな、あいつに騙されてる……!)
私が本物だ。なのに、『私』が当然のようにそこにいて、皆もまた、『私』を疑いもしない。
心臓の音が、また一段と大きくなる。
あそこは、私にとって帰る場所だったはずなのに。
今は、逃げ場がどこにもない。
ほんの少し前まで絶対の安全圏だったところが、こんなにも遠く、冷たく、ただの障壁でしかなくなっている。
気づけば、雨粒が一つ、頬を打った。
冷たい雫は、まるで夜そのものが私に触れたみたいに、
肌の奥まで沁みていく。
私は小さく身を縮め、再び闇の奥に息を潜めるしかなかった。
2-5. 夜を歩く
空の奥が一瞬光り、鈍い音が響いた。雲がうねるように唸り、ぽつり、ぽつりと雨粒が夜に混じり始める。私は、コンクリートの壁の陰に身を寄せたままじっと見つめていた。
ほんのさっきまで帰る場所だった建物。今はその輪郭も、夜気の中でぼんやりと滲み、光も影も区別がつかなくなっている。誰も自分に気づかず、誰も呼んでくれない。私は、息を呑んで世界の端にへばりついていた。
制服の袖に雨が染み込みはじめる。はじめは、ただ生ぬるい滴が、静かに布を濡らすだけだった。そのうちにじわじわと広がり、冷たさが骨の芯まで沁みてくる。
髪の毛も、鞄も、スカートの裾も──すべてが水を吸って、ずっしりと重くなる。足元の小さな水たまりに、街灯の明かりが歪んで映り、踏み出すたびにさざ波が立つ。
(私は、本当に私なんだろうか)
その思考が、夜の底から静かに浮かんでくる。自分の感じているこの冷たさも、心臓の音も、「痛い」「苦しい」と思う感覚さえ、本物かどうか分からなくなっていた。私自身の輪郭が、雨粒といっしょに溶けていくような錯覚。
雨脚は、気づけばずいぶん強くなっていた。街のざわめきも、遠くの車の音も、すべて雨音に塗りつぶされて、聞こえなくなった。
なんだか、腹の底から怒りがこみあげてくる。
どうして、こんなにも必死で逃げなければならない?
なぜ私が、あの『私』に追い詰められ、仲間からも締め出され、孤立しなければならない?
ふと、近くに落ちていた鉄パイプに手を伸ばした。
ずぶ濡れの手が、鉄の冷たさに小さく震える。
唇をきつくしめ、奥歯が軋んだ。
(……やるしかない。もう、誰も信じられなくてもいい)
小さく、心の底で叫ぶ。その声は誰にも届かないが、せめて自分自身には、しっかり届いてほしかった。私は、パイプを握りしめたまま、雨粒を弾きながら、夜の舗道に足を踏み出した。ずぶ濡れになりながら歩くたび、濡れたアスファルトの匂いと鉄の味が、呼吸の奥まで染みこんでくる。
この夜を──私自身の力で、生き延びるために。
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