CASE:002-3 きさらぎ駅
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
3-1. 喪失
五日目の夜。
新浜松駅のホームに、再び立っていた美優の指先に、夜風がひやりと触れる。夏の夜のはずなのに、微かに冷たい。温度ではなく、質感の問題だと直感した。
「……さて、これがラストチャンスかもね」
呟く声は誰にも届かず、空気の中にすっと溶けた。
22時40分発、西鹿島行き。
乗るのは何度目になるだろう。もう、駅員の制服の色も、案内アナウンスのイントネーションも、すっかり耳に馴染んでいた。
乗り込んだ車両は、見慣れた夜の空間だった。蛍光灯の明かりは白々と照らし、数人の乗客がスマートフォンの画面に目を落としている。会話もない。イヤホンから音漏れする低音が、唯一の生活の痕跡。
(本当に、このまま終わるのかな)
膝の上に置いた手をじっと見つめながら、美優はもう一方の手で、ポケットから小さな和紙の束を取り出す。
ネズミ式神の依代。
ここまで何の反応もなかった紙切れが、今夜だけは妙に重く感じられる。軽く撫でると、紙越しにわずかな温度が伝わってくる気がした。
車窓の外では、曳馬駅、上島駅、自動車学校前駅が規則正しく過ぎていく。電車の揺れが規則的なリズムを刻み、美優の心もそのテンポに合わせて静まっていく。
──さぎの宮駅手前。
夜の住宅街。
ガードレールの反射板が、ヘッドライトのような光で淡く照らし出される。
その中を通過するたび、ほんの一瞬だけ、世界が反転したように感じられた。
車内の窓に映る自分の顔を、美優はじっと見つめる。
疲れているのか、どこか他人のようにも見えた。
髪が少し乱れ、目の下にうっすらと影が差している。
ふと、スマホに通知が来ているのを見て、画面を開く。
──そして、顔を上げた瞬間。
「……えっ?」
声が出たのは、意識する前だった。
車内に──誰もいない。
ついさっきまで、たしかに存在していたはずの乗客たち。スマホをいじっていた青年、イヤホンの音漏れ。制服姿の女子高生も、窓際に座っていた老婦人も。
すべてが、音もなく、気配もなく、消えていた。
空席ばかりが並ぶ車内。
照明は変わらず白く灯っているのに、そこには人間の気配がまったくない。
時間が、あるいは"現実"そのものが、どこかで断ち切られたような静けさだった。
喉がカラカラに乾く。
鼓動の音が、やけに大きく響く。
異常だ。
異常なのに、どこにも"警報"が鳴っていないことが、かえって恐ろしい。
美優はゆっくりと背筋を伸ばし、もう一度、窓の外を見た。
──その先には、光のない闇が、すでにこちらへ染み込んできていた。
3-2. 出現
時間が遅ければ、乗客が少ないこともある──理屈ではそう思える。けれど、違った。
たしかに、乗ったときにはいたのだ。
すぐ隣の席にいたサラリーマンの鞄。
向かいの女子高生のスマホから漏れていた音楽。
車両の隅でうたた寝していた老人の姿──
それらが、すべて、痕跡ひとつ残さず消えていた。
──誰もいない。
「──なにこれ」
「ねぇ、いたよね……さっきまで……いたよね……?」
自分の声が、自分の声じゃないように響いた。答える声はない。
車内は、まるで密閉された真空のように静まり返っていた。
喉がひりつくように乾いていた。
動悸が、微細な音として鼓膜を打つ。
五感のどこかが、今この瞬間、"世界"そのものの質感が変わったと告げていた。ほんのさっきまでそこにあった"現実"の気配が、すっぽりと抜け落ちている。
電光掲示板──死んでいた。
光を発していたはずの文字列が、今は黒く沈黙している。
中吊り広告は完全に白紙となり、まるで記憶を消されたページのようだった。
違和感の重ね塗り。次第に、すべてが静かに狂っていく。
そして。
──窓の外が、闇に変わっていた。
暗いのではない。"無"だった。
街灯の反射も、踏切の明かりもない。
視界の奥行きが消え、光の層が一切存在しない、圧迫感のある空虚。
そのなかに。
ぼんやりと、浮かび上がっている。
──駅。
ホームのような形状。だが、それは“駅”と呼ぶにはどこか曖昧で、脆弱な輪郭しか持っていなかった。構造はある。柱と屋根もある。だが、それらは霧の中の像のように揺らいでいる。
人影は、ない。
だが、美優は確かに感じた。
何かが、こちらを見ている。
視線。
肉体を持たない、意志のような"凝視"。
それが、黒い空間の奥からじわじわと押し寄せてくる。
ホームに、駅名標があった。
だが、文字はにじみ、読めなかった。
水に溶けた墨のように、線が歪み、意味が定まらない。
──それでも、美優にはわかった。
「……きさらぎ駅」
言葉にした瞬間、なぜか確信が走った。これは"きさらぎ駅"だ。
名前を読めなくても、論理が追いつかなくても──"それ"は、彼女の感覚に直結していた。
電車は、ゆっくりと減速を始めた。
ブレーキの振動が、車体を伝って足元に広がる。
音は静かで、滑らかだった。
それがまた恐ろしかった。
あまりにも自然で、あまりにも"こちら側のもの"に似ていた。
──そしてついに、電車は異界のホームへと停車した。
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