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CASE:010-4 マナババ

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -

4-1. 余波


 六月の細かな雨粒が、傘を優しく叩いていた。梅雨空の淡い灰色のヴェールが街を静かに覆い、足元の水たまりは空の鈍い色を映している。だが今日の彼女にとって、このじめじめとした季節すら、爽やかで心地よいものに感じられた。

 久しぶりに使ったスイカ柄の傘は、雨粒を受けて鮮やかな赤と緑の色彩をさらに際立たせている。もうマナババが姿を見せないと確信したときから、美優の心は羽が生えたように軽やかだった。

 彼女は雨のリズムに合わせて、ほとんどミュージカルの登場人物めいた足取りで軽快に歩いていた。まわりの通行人がその奇妙に機嫌よく雨の中を進む少女の姿を見て、思わず二度見するほどだったが、美優はまったく気にならなかった。それどころか、むしろその驚いた視線すら彼女の小さな勝利を祝福する歓声のように感じていた。


 だが、その高揚感は長くは続かなかった。放課後、特対室へ向かう途中。小学生たちが、傘の先で道路の柵をカンカンと鳴らしながら歩いていた。

「何あれ、うるさ……ちょっと、注意したほうが……」

 口が勝手に動きかけて、美優は息を呑んだ。「はっ」と喉から洩れた声に、自分がゾッとした。今、自分は何を考えたのか。マナババとの奇妙な生活で変な影響を受けていないか。別に誰にも大した迷惑なんてかかっていないじゃないか、マナーばあさんになんかなりたくない。美優は頭を振った。


 特待室に着いた美優を待ち構えていたのは、いつも通り冷静で事務的な透真の声だった。

「傘についていたエネルギーの痕跡は完全に消えている。少なくとも南雲に関しては執着が終わったと見ていい」

 彼の言葉に美優は頷いたが、透真の眉間にはまだわずかな影が残っていることに気づいた。

「寺田が生前、他に『誰を』『どこで』『どう叱っていたのか』は、完全には把握しきれていない。つまり、まだ発現リスクのある場所が街のどこかに潜んでいる可能性が高い」

 透真の低く抑えられた声は、じわじわと美優の心に重くのしかかってくる。完全な勝利だと思っていたが、怪異の影はまだ完全に消えてはいなかったのだ。彼女のまだ少しばかり残っていた高揚感は、冷たい雨に打たれたように静かに沈んでいった。



4-2. 形式


 特対室の蛍光灯の下で、透真は再び資料をめくり、淡々と状況を整理していた。彼の淡い光を帯びた瞳が、慎重に紙面をなぞっている。

「怪異の性質を考えれば、自身のマナーが社会に受け入れられたと認識すれば、その存在が薄れていく可能性は高いな」

 その言葉を受けて、部屋の片隅でぼんやりと煙草の煙を燻らせていた蜘手が、さも当然のように提案した。

「じゃあ、形式的にでも受け入れられたことにしてやればいいんだろ? 街中に寺田の婆さんが主張してたマナーの張り紙でも貼ってこようか」

 蜘手の提案はいつものように軽く、さらりと口にされた。そのあまりにも地味で淡泊なアイデアに、美優は思わず眉を寄せた。

「え、地味……」

 蜘手は肩を軽くすくめて、苦笑とも微笑ともつかない表情を浮かべる。

「怪異相手に派手なことばかりしても仕方ないだろ、お子様向けのバトル漫画じゃねえんだからさ。意外と地味な解決法が一番効果的だったりするんだよ」


 美優はため息をついた。怪異が社会に溶け込み、いつの間にか受け入れられてしまうという発想は、どこか薄ら寒いものを感じさせる。その一方で、蜘手の淡々とした言葉に妙な説得力を感じてしまう自分もいた。

 ふと部屋の片隅を見ると、今はただの傘に戻ったスイカ柄がぼんやりと室内の照明を反射している。美優は胸の奥に複雑な気持ちを抱えながら、ぼんやりとその派手な模様を見つめていた。



4-3. 掲示


 雨はアスファルトを湿らせ、街路樹の緑を艶やかに輝かせていた。特対室の仕事にしてはあまりに地味すぎると美優は思ったが、蜘手は平然とその『作戦』を実行に移した。最初にその張り紙を見たのは、あの地下道だった。

『この地下道では傘を閉じてご通行ください』

 妙に丁寧な言い回しと清潔感のある印刷、整然と貼られたラミネート加工がかえって違和感を覚えるほど自然で、美優は思わず眉をひそめた。


 その後も、街のあちこちで奇妙な張り紙が増えていった。歩道橋の階段脇には『歩道橋では左側通行にご協力ください』という控えめな注意書き。横断歩道の電柱には『横断歩道の端は歩かないでください』と謎めいた文句が印刷され、駅前の地下階段には『階段の上り始めは左足から』という張り紙が貼られていた。

 街の住人たちは普段そこにそんなものがあったかなどという疑問すら持たず、気にすらしていない。しかし要は自分が正しいという執着を消す為に形式的であれ、自分のマナーが採用されたという雰囲気があればいいのだ。日常に溶け込んだその妙な張り紙を眺め、美優は怪訝な気持ちを抱かずにはいられなかった。


「……こんなので本当に大丈夫なの? 怪異的にはこれでオッケーなわけ?」

 灯里は美優の困惑を柔らかな微笑みで受け止め、静かに頷いた。

「意外と形式って大事なのよ。怪異というのは形式に強く縛られているものだから」

 その穏やかな声は、どこか遠い世界を見つめているようで、美優にはなんだか薄ら寒く響いた。怪異が形式を守ることに満足し、社会に溶け込んでいくことを想像すると、妙な気持ちになった。



4-4. 吸収


 特対室にはマナババの発生を報告する連絡は特に届いていない。透真は淡々と資料を整理し、冷静な口調でこう結論付けた。

「おそらく、『マナーを守らせる』という存在が、社会の仕組みに吸収されたことで、実体を持たなくなったのだろうな」

 美優はその言葉を聞きながら、小さくため息をついた。胸に残る奇妙な割り切れなさは消えないが、それ以上深く追求する気力もなかった。

「……なんか納得いかないけど……終わったなら、まあ、いいや」


 窓のない特対室の壁には、相変わらず蛍光灯の青白い光が無機質に落ちている。その光が、机に置かれたスイカ柄の傘のビニールに静かに反射していた。



4-5. 増殖


 数日後、雨はまた細やかに降り注いでいた。美優はすっかりお気に入りとなっているスイカ柄の傘を差し、特対室への道をゆっくりと歩いていた。元々映え狙いの安物、開閉の際にビニールが少しくっついてぎこちなくなっていたが、なぜか手放す気になれない。まるで『相棒』のように感じられて、美優自身その奇妙な愛着に自嘲的な笑みを浮かべた。

「こんな変な傘に馴染むとか……最悪」

 だがその表情は不思議と穏やかで、雨粒を受けながら特対室へと向かった。


 いつものように乱雑にノックをしながら特対室のドアを引いて入ると、室内にはいつもの空気が流れていた。蛍光灯の光が変わらず白く、無機質に机や書類を照らしている。美優は荷物を置こうとして、ふと足を止めた。ホワイトボードの隅に、見覚えのない注意書きがいくつか、きちんとラミネート加工されて貼られている。


 『カバンは机の脇に置きましょう』

 『デスク上ではお菓子を食べないように』

 『ノックの音は控えめに。ドアは静かに閉めてください』


 思わず眉がぴくりと跳ねた。誰がこんなものを──と一瞬考えて、美優は振り返る。

「……え? これ……なんですか?」

 その問いに、背後から低く返ってきた声。

 「俺だ」

 ソファに座ってコーヒーを啜っていた透真が、無造作に書類をめくりながら答えた。目線は一切上げないまま、続ける。

「南雲の机が混沌すぎて気になっていた。ちょうどいい機会だと思ってな、せめて社会人としての最低限の振る舞いくらいはな」

 背筋に冷たい何かが走った気がして、美優は引き攣った顔でホワイトボードを見直す。ラミネート加工の丁寧さ、フォントの整い方、貼り位置の完璧な直線──どれも恐ろしく几帳面で、まるで何かに取り憑かれてでもいるかのような念の入れようだった。

「……ちょっと待って、それって……」

 美優が口を開きかけたとき、部屋の隅──換気扇の下で煙草を燻らせていた蜘手が、くつくつと喉を鳴らすように笑った。

「寺田の婆さんも、後継者ができて満足だろうよ」


 煙草の先からゆっくりと立ち昇る煙が、静かな部屋の空気に溶けてゆく。その向こうで、透真は一切表情を崩さず、黙々と次の報告書の入力を続けていた。

 次は室内禁煙、だろうな。美優はそんなことを考えながらぼんやりとホワイトボードを見た。ホワイトボードの『注意書き』たちは、ぴたりと整列していた。まるでそこが、最初からそういう場所だったかのように。



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