CASE:010-2 マナババ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
2-1. 命名
特対室の無機質な白壁には、蛍光灯の青白い光が静かに落ちていた。いつもなら事務的に書類や資料が貼り並べられているホワイトボードには、今日はひときわ目立つ形で、妙にふざけた調子のマグネットタイトルが貼りつけられている。
『スイカ傘ババア(仮)』
美優はそれを見た瞬間、疲れた眉間にさらに深い皺を寄せた。
「ちょっと、私の傘に変なあだ名つけないでください!」
デスクに腰掛けていた蜘手は、気だるげに煙草を灰皿に押し付けながら軽く肩をすくめてみせた。いつも通りどこか掴みどころのない、そのくせ軽薄な笑みが口元に滲んでいる。
「仮だから仮。ちゃんと正式名称は後で考えるって」
彼の言葉に納得などできるはずもないが、美優にはこれ以上議論する気力もなかった。気がつけば彼女自身、あのお気に入りだったスイカ柄の傘のことを極力考えないよう努めていた。しかし、傘は相変わらず部屋の片隅で存在感を放ち続けている。もはや彼女が何か行儀の悪いことをするたびに「パサッ」と音がしているような錯覚すら感じていた。
部屋の奥では透真が分厚いファイルをめくりながら、慎重にメモを取っている。彼はこの怪異が発生した地下道周辺の地域住民への聞き込み調査と、自治体の交通管理資料、そして地域の苦情記録の洗い出しに余念がなかった。その緻密な横顔には、いつものような冷静な探究心が浮かんでいる。
一方、灯里もまた街の変化を調査していた。街を歩きながら物理世界と不可視の世界の狭間にある曖昧な輪郭を、指先が繊細に探り当てていく。彼女のまつげがかすかに震え、何かを感じ取ったことを示していた。いまだ境界とは言えないほどの曖昧な膜が街に発生していたのだ。
「恐らくここ最近ね。街のそこかしこに弱い境界──いえ、境界ともいえない弱いものだけれど──が生じていたわ」
彼女の声は、特対室の薄暗い空気に溶けるように響いた。
「境界には、生々しい感情というより、むしろ『残留思念』のような、乾いて固まった感覚が満ちていたわ」
2-2. 噂話
夕暮れ時、小学校から下校中の子どもたちが雨宿りがてら、公園の遊具の下に集まっている。彼らは傘を剣のように振り回したり、長靴で水たまりを踏み潰したりしながら、笑ったり声をあげたりしていた。その無邪気さがかえって美優の胸を締めつける。特対室の調査として聞き込みに来たはずが、どうにも言葉が切り出しにくく、彼女は逡巡していた。
しかし子どもたちは、見知らぬ年上の少女が急に話しかけてきても特に警戒する素振りもなく、すぐに懐いてきた。美優がさりげなく「あそこの地下道、傘開いたまま通ると怒られるって噂、本当?」と尋ねると、すぐに口々に答え始めた。
「うん、本当だよ。怒られてるの見てた!」
「変なおばあさんに!」
無邪気な響きにまぎれて、美優の背筋にはわずかながら不穏な冷気が走る。子どもたちは、まるで昨日あったことでも話すように笑顔のままだ。
「でもね、そのおばあさん、もう死んじゃったんだって。心臓でぽっくりってママが言ってた」
(……まさか)
子どもの声に何の悪意もなかったが、美優は軽いめまいを感じた。彼女は慎重に言葉を続ける。
「そのおばあさんさ、どんな傘の子に怒ってたか、覚えてる?」
「すいか? メロンだったかもー?」
「あ、いや赤かったからすいかだ!」
「おばあさん、なんか怒ってたけど怖かったー」
その瞬間、美優の脳裏にはあの老婆の怒りの視線が鮮明に蘇った。胸の奥で苦々しく呟く。
──それだよ。
2-3. 老婆
薄暗い特対室に戻った美優が報告を済ませると、透真が資料の束を抱えながら淡々と口を開いた。その声は冷静でありながらも、どこか微かな疲れを滲ませているようだった。
「地域で一ヶ月前に亡くなった女性を特定した。寺田三枝子、享年七十二歳。自宅で心臓発作による急死だったらしい」
ホワイトボードには、『寺田三枝子』という名前が追記される。その文字がなぜか冷たい圧迫感を放っていた。透真が続ける。
「生前の寺田三枝子は、地域では悪い意味で有名だったらしい。元々茶道の講師で礼儀には厳しかったらしいが、晩年は軽度の認知症の影響もあってか、より悪化して『マナーばあさん』と呼ばれるほど小学校や地域会合にも頻繁にクレームを寄せていた」
「認知症の患者にはよく見られることね。気になり始めると執着し、しかも自分が絶対に正しい。むしろ叱る相手がいないと自我が保てなくなっていたのかもね」
灯里の呟きを聞きながら透真がさらにメモを一枚めくる。彼の眉間に僅かに皺が寄る。
「歩道橋で左側を通らないと烈火の如く怒られる、横断歩道の端側を歩いていると、停まってくれた車に失礼だと怒鳴られる──」
透真はそこでいったん言葉を切った。その内容に目を通しながら、彼の眉間の皺がさらに深まった。
「カバンを持ったまま相手と話すのは失礼と買い物帰りの主婦を三十分説教した、玄関のチャイムは二回押すのが礼儀だと宅配業者を叱責した、相手の前で許可を得ずコーヒーに砂糖を入れるのは失礼と怒鳴りつけたなど、もはや意味がわからない事例も多くある」
「そして──死の二、三日前、雨の日に地下道を傘を差したまま通る子どもを特に厳しく叱責していたようだ」
美優は無言のまま、口の中に湧き上がった苦い後味を噛みしめていた。寺田三枝子がなぜ地下道の傘差し歩行に固執したのか、それはどうでもいい。だがあの老婆が、死後もなお自分のマナーを押しつけようと、まるでこの街に絡みつくように存在し続けているのだと思うと、美優の心に言いようのない不快感がじわりと滲み出してきた。
ふと視線を感じ、オフィスの隅を見る。傘はまだそこにあり、美優の視線を待っていたかのように、沈黙を保っていた。
2-4. 条件
特対室の壁掛け時計が無機質に時を刻む音が響いていた。その針音がどこか普段よりも鋭く美優の鼓膜を打つのは、室内に沈黙が垂れ込めているせいだろうか。デスク上には透真が丁寧にまとめた調査報告書が置かれ、薄く光を反射している。透真は眼鏡の奥に冷静な瞳を隠しながら、静かに口を開いた。
「発動条件はほぼ特定できたと思う」
彼の指先が、報告書の箇条書き部分を軽くなぞる。
「まず、『地下道』という場所が重要だった。ここは、寺田が生前最後に叱責した場所だったからだ。次に、『傘を開いたまま通る』という行動。寺田にとってこれは明らかなマナー違反、つまり許容できない行為だった」
そして透真はわずかに眉間を寄せ、三つ目の項目を指した。
「最後に、『スイカ柄の傘』。これが決定的だった。叱責されていた子どもが持っていた傘と同じ柄。これらすべてが一致したことによって、南雲が対象として選ばれた」
透真の口調は淡々としているが、その冷静さが美優にはむしろ残酷に感じられた。まるで条件が揃ったから仕方ない、とでも言われているような気分だ。お気に入りの傘だっただけに美優の胸の奥にわずかな苛立ちが芽生える。灯里が指先を顎に添え、ゆっくりと考えるように口を開いた。
「これはおそらく、『生前最後に叱った記憶』が強く固定されてしまい、その記憶を呼び覚ます条件が揃った瞬間に表出した、『妖怪化』でしょうね。強烈な執着が記憶とともに残り続けてしまった結果、特定のパターンに従って現れるようになったのでしょう」
灯里の静かな説明が終わると、再び沈黙が訪れた。その沈黙の底に、美優は静かに自分の運の悪さを呪っていた。
2-5. 理不尽
ゆっくりと怒りが恐怖を押しのけてゆくのがわかった。身体の奥で沸騰するような熱がじわりと広がり、美優は拳をぎゅっと握り締めた。
「つまり、私はスイカ柄の傘を使って、地下道でズボラをやったからロックオンされたってこと?」
透真は一瞬言葉を探した後、小さく頷く。
「まあ、端的に言えばそういうことになるな」
部屋の隅で煙草を燻らせていた蜘手が、面白そうに唇を歪める。
「傘の柄が地雷だったってパターンは、俺も初めて聞いたよ」
美優は苛立ちを隠せず、思わず地団駄を踏んだ。部屋の床に軽い振動が響き渡る。
「何それ、じゃあ次にまた同じ柄の傘を使った人がターゲットになるってことですか? とんだ迷惑婆じゃん! もう!」
透真がゆっくりと視線を逸らしながら、小声で付け足した。
「……まあ、正直あんな傘を使う人間は滅多にいないと思うがな」
美優は寺田に対する苛立ちにさらに拳を固く握りしめながら、この理不尽すぎる状況を心の底から呪っていた。
2-6. 執着
特対室のデスクに向かった透真が淡々とキーボードを叩く音が、静かな部屋に響いていた。報告書を仕上げる彼の指先は機械的なリズムを刻んでいる。完成した書類の冒頭には『対象:マナー婆(仮称)』と打ち込まれていたが、彼は少し考え込むように指を止め、タイトル部分を修正した。
『対象:マナババ』
スクリーンに映し出されたその奇妙な名称に、美優は無言で頭を抱えたが、もう文句を言う気力は失われていた。灯里は資料を読みながら淡い瞳を細め、報告書の文章を指で静かになぞった。
「害意は持っていないけれど、非常に執着が強い妖怪的存在、と仮定するのが妥当でしょうね。危険性は低いけれど、明確な対処法がなければ何度も同じ現象が発生する可能性があるわ」
灯里の静かな口調に、美優は一層気分が重くなる。透真はため息を小さくつき、報告書の結論部分を再び読み返して確認するように口に出した。
「当面の対処法としては、この『執着』の正体を探り、何らかの方法で意識を満足させることが必要だな」
灯里が頷きながら付け加える。
「ええ。マナババの目的は、独自のマナーを周囲に押しつけること──言い換えれば『独自の正しさの実現』にあるはず。それが達成されれば、この現象は収束するかもしれない」
美優は机に突っ伏した。彼女自身の常識や価値観をはるかに超えた理不尽なマナーに振り回される日々を思うと、ひどく憂鬱になった。何より、あの傘を使い続ける限り、彼女自身が「執着」を満足させる役目を負い続けることになってしまう。蛍光灯がチカチカと瞬いた。その光が美優の白いシャツの襟元に反射し、彼女の横顔に疲れ切った影を落としていた。
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