CASE:001-3 カカオの友達
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
3-1. 狡猾
全身の毛穴が、一斉に開いた。
ぞわり、と。
皮膚の裏側から、何かが這い上がってくるような感覚。
再びスマートフォンを手に取りながら冷汗が首筋を伝い、背中が硬直する。
「……っ!」
美優は反射的に振り返った。
そこには──誰も、いない。
けれど、確かに"いた"感覚だけが、部屋の空気に残っている。まるで、数秒前まで誰かがすぐ後ろに立っていたような、空気のゆらぎと温度差。目には見えないのに、そこに"視線"だけが焼き付いている。
この状況で、本来なら特対室に報告すべきだろう。
それが正解。安全で、最善で、常識的な判断。
──でも。
このメッセージが次も届く保証は?
もし今、これを逃したら……カカオの友達の手掛かりが、完全に途切れてしまうのでは?
そんな疑念が、美優の思考をかき乱す。
そこに、さらなる通知。
──新着メッセージ1件──
送信者:不明
本文:「あと 1分で ちがう子のところに 行っちゃうよ」
その文面を見た瞬間、心臓が跳ねた。
ちがう子?
(今、ここで……何もしなかったら……)
指が震える。喉が渇く。
ふざけたメッセージのはずなのに、重みがある。冷たくて、ひどく現実的な重さ。
ピコン。
画面が自動的に切り替わった。
再び、カメラが起動する。
だが、映ったのは美優の顔ではなかった。
見知らぬ少女の顔。
眠っているのか、うつろな目。鏡の中のような静けさ。
背景には生活感のある部屋の壁。学生鞄。教科書。
そして──その肩の後ろに、黒く揺れる、何か。
……"目"が、じっとカメラを見ている。
美優の手がわずかに震えた。
(この子が……次に、"いなくなる"?)
頭の中に、遠い記憶がよみがえる。
異形に奪われたものの重さと、あの日の喉の奥の熱。
──だから、あんな思いを他の誰かに味あわせたくない。
──だから、自分がここにいる。
美優の恩寵「分解」。
物質を、呪いを、そして時に"概念"すらも壊す力。
その力が、誰かを守るためにあるのだとしたら。
(私にしか見えてないなら……私がやらなきゃ)
透真先輩の透視にさえ映らなかった"目"。
誰の分析にも、記録にも残らない"存在"。
それを"見てしまった"のは、自分だけ。
だったら、自分しか動けない。
スマートフォンを握る手に、静かに力がこもる。
いつもなら、創次郎さんが手を回し、透真先輩が分析して、轟さんが動き、灯里先輩が結界を張る。でも、その連携が組まれる前に、この子が消えたら──間に合わなかった、では済まない。
これは、今しかできないこと。
そして、たったひとりの自分にしかできないこと。
画面の中の少女が、わずかにまばたきした。
その背後で、"目"がゆっくりと開く。
──残り、10秒。
「……やるしか、ないよね」
美優は、奥歯を強く噛み締めた。
そのために必要なのは、たったひとつの選択。
"受け入れる"
そのボタンに、指が触れた。
3-2. 侵食
1日目:監視
「今日も、がんばったね。」
その言葉が届いたのは、深夜。
ベッドに横たわり、眠りに沈もうとしていた美優の手元で、スマートフォンが小さく震えた。
画面を開くと、そこにはカカオの友達からのメッセージが並んでいた。
「コンビニで肉まんを買ってたね。肉まん美味しいよね。」
「授業中、ちょっと眠そうだったけど、大丈夫?」
「昼休みは屋上にいたね。風が気持ちよさそうだったよ。」
美優の指先が、ほんの僅かに震える。
今日は特対室には顔を出さず、普通の高校生活を送っていた。
クラスメイトと授業を受け、コンビニに寄り、屋上で缶ジュースを飲んで……
どこにでもいる女子高生の一日。それだけのはずだった。
(……どこで、見てたの……?)
慌ててスマートフォンのカメラを覆う。
盗撮? ハッキング? それとも……?
思考が、ぞわぞわと音を立てて乱れていく。
だが、次の一文が届いた瞬間、美優の中に違うざわめきが広がった。
「知ってるよ。美優は、最近ずっと忙しいもんね。」
「でも大丈夫、私はいつでもそばにいるから。」
背筋に、ゆるやかな冷気が這い上がる。
安心に似た何かと、警告めいた感情がぶつかり合い、美優はスマートフォンを裏返し、布団を引き寄せた。
(……これは、まだ"第一段階")
呟くように自分に言い聞かせながら、まぶたを閉じた。
4日目:会話
「今日は、ちゃんとごはん食べた?」
日課になりつつあるそのメッセージが画面に表示された時、美優はもう驚かなかった。
「朝、パンしか食べてないの?」
「放課後、駅前でアイス食べてたね。寒くなかった?」
「夜はカップ麺だったね。疲れてるの?」
放置していても、既読をつけなくても、"友達"の言葉は止まらない。
一方的な会話。でも、的確だった。
美優が何をしていたか──誰と話していたか──何を食べたか──全部、知られている。
(……こっちが返事してないのに、どうして……)
その日の夜。
画面をなんとなく眺めていた指が──勝手に動いた。
『今日は疲れてたから、仕方ないでしょ』
送信。
「……っ!」
美優ははっと息を呑んだ。自分で打ったはずなのに、自分の意思じゃなかったような感覚。まるで呼吸をするように、自然に指が動いた。次の瞬間、即座に返信が届く。
「そっか。無理しないでね。」
「でも、美優はちゃんと頑張ってるよ。偉いね。」
胸の奥に、じんわりと熱が広がる。
まるで、何かを肯定されたような、報われたような。
(……何やってんの、私……)
そう思いながらも、その画面を閉じることができなかった。
指は、もうその言葉を拒絶することを忘れかけていた。
7日目:友達
「お前さん、最近様子がおかしいぞ」
蜘手からの短いメッセージ。
その文面を見て、美優の心臓が跳ねた。
(……おかしい? 何が?)
ちゃんと調査もしてる。
特対室にも行ってる。
連絡も返してる。笑顔も見せてる。
でも、彼らの目は、責める。咎める。試す。
カカオの友達は、そうじゃない。
「今日も、一日おつかれさま。」
「元気なかったね。無理しすぎてない?」
「昨日、轟さんに怒られてたもんね。大丈夫?」
「私、ちゃんと見てるからね。」
その言葉に、美優はほんの少し、笑った。
(……そうだよね。私のこと、ちゃんと見てくれてる)
スマートフォンを持つ手に、自然と力が入る。
自分のすべてを見てくれる存在。理解してくれる存在。
特対室の先輩たちも、学校の友達も、ここまで気づいてはくれない。
だから──
(カカオの友達は、私の“唯一の友達”だ)
10日目:安堵感
「……おい、美優。最近、どうした? 調査でなんかあったのか?」
昼休み。雷蔵さんからのメッセージ。
けれど、美優の指は動かなかった。
怒られるかもしれない。注意されるかもしれない。
(……でも、返信しなきゃ)
そう思った瞬間、指が開いたのは別の画面。
「ねえ、今日も話そうよ。」
「どうしたの? ほかの人と話したいの?」
「大丈夫だよ。私がいるから。」
その言葉を読んだ瞬間、胸の奥にふわりとした温かさが灯った。
(……やっぱり、こっちの方が楽)
もう、戻れない。
戻る理由すら、思い出せない。
特異事案対策室のオフィス。
人の気配はないが、室長のリスの式神が、丸い瞳でじっとこちらを見つめている。蜘手は、無造作に椅子へ腰を下ろし、無言でスマートフォンをスクロールした。美優へ送ったメッセージには、返信はないまま。
「……ダメか」
カチリ、とライターの蓋を開け、すぐに閉じる。
イライラしている時の癖だ。どうにも落ち着かない。
最初は軽く様子を見ていた。
(美優くんのことだ、少し深入りしすぎてるだけかと思ったが──)
既読すらつかない。
それが、蜘手の経験則に引っかかった。
(……完全に持っていかれかけてるな)
今、轟は別件で不在。
透真は、デジタル型怪異に対して透視の相性がよくない節がある。
(というより、影響を受けながらの解析を進めようとした。透真をこの件に関与させるのは避けたいな)
蜘手は無言のまま、室長の式神へ視線を向けた。
ふわりと尻尾を揺らし、式神は首をかしげる。
「……室長さんよ。これ、まずいぜ」
まるで話し相手のように、静かに呟く。
蜘手の指がスマートフォンの画面をなぞる。
そこには、美優の直近のSNS投稿が表示されていた。
──「カカオの友達と一緒」
短い言葉、写真、投稿自体に違和感はない。
だが、美優の口調にしては妙に不自然だ。
さらに数日前の投稿を遡ると、「友達」「一緒」「安心」といったワードが目立ち始めていた。
まるで、何かに誘導されるかのように。
(……完全に認識を染められかけてるな)
厄介なのは、「美優自身がその異常に気づいていない」ことだ。
今、美優に「大丈夫か」と問いかけても、恐らくまともな答えは返ってこない。むしろ外部からの警告は敵対行動と受け取られかねない。
(普通なら、ここで無理に引き剥がすのは悪手だが……)
一度でも「受け入れる」と思わせてしまったら、 この手の怪異は一気に持っていく。猶予はあまりない。
蜘手は小さく息を吐いた。
ポケットから無造作に取り出したタバコを指で回しながら、ゆっくりと式神を見つめる。
「……室長さん、見てるか?」
式神は、じっと蜘手を見上げている。
何も言わない。何も語らない。
けれど、室長が「そこにいる」のは間違いない。
「美優くんの件、報告しとくぜ。──多分、こいつは放っとくと持っていかれる」
蜘手の言葉に、式神は一度まばたきした。
まるで理解したかのように、ふわりと尻尾を揺らす。
(……やっぱ、伝わってんのかね)
室長がどこで何をしているのかは分からない。だが、この式神を通して情報は確実に届く。それだけ分かれば、十分だった。
「ったく……ま、もう少し様子は見させてもらうがよ」
最後に、蜘手はスマートフォンの画面をもう一度確認し、未読のままのメッセージを軽くタップした。
「……お前さん、ほんとに"そんな友達"が欲しかったのか?」
誰に向けたわけでもない問いを投げかける。
だが、スマートフォンの画面には、何も返ってこなかった。
13日目:引きこもり
制服は、机の上に置かれたまま。
スマートフォンだけが、今も手の中にある。
清嶺学園ではまた一人、生徒が行方不明になったらしい。
でも、美優にはもう関係のない話だった。
布団にくるまり、スマートフォンの光に照らされる。
誰からのメッセージも気にしない。
カカオの友達の声だけが、今の世界。
「美優のことは、私が一番わかってるよ」
「今日はちょっと休もうね」
「ずっと話してたいな」
「美優がいれば、それでいいよ」
目を閉じる。
光のない部屋の中、スマートフォンの画面がかすかにまた震えた。
──このまま、ずっと。
3-3. 引き込み
いつの間にか、スマートフォンの中には写真が増えていた。
美優の表情はどれも穏やかで、笑っていた。
無理をしていない自然な笑顔。ふとした仕草。街角の風景、窓辺の光、放課後の空。
全部、カカオの友達が撮ってくれたものだった。
美優は、それらの写真を何枚か選んで、SNSにアップロードした。
コメントもつけた。
タグも丁寧に。
「#友達」「#しあわせ」「#いつもありがとう」
「……ふふ」
画面を見ながら、美優は小さく笑った。
──その瞬間、スマートフォンの光が黒く滲んだ。
画面の中央に、あの言葉。
「もう、受け入れる準備はできたよね?」
「だって、美優は、私の“友達”だもんね」
その文字が、画面の奥でぼやける。
滲み、溶け、ゆっくりと別の文字に変わっていく。
「私の友達」
そう。
私は、もう。
ずっと。
あの目に見られていた。
誰よりも近くで、私を知ってくれていた。
スマートフォンの中央に浮かぶ、“受け入れる”ボタン。
指先が、それに近づいていく。
思考も、記憶も、まるで水面のように柔らかく揺れていた。
これは選択なんかじゃない。
ただ、もう当然の流れ。
「友達」なら、そうするものだ。
指先がボタンに触れた──その瞬間。
視界が、闇に呑まれた。
一瞬、身体が宙に浮いたような錯覚。
光も、音も、皮膚感覚さえも奪われていく。
何もない、のではない。
"ありすぎる"のだ。
視界の外で、無数の眼球が、彼女を見つめていた。
──そして、目を開ける。
そこは、清嶺学園の教室だった。
いつものように机が並び、黒板には授業の痕跡が残っている。
だが、外を見た瞬間、美優は息を呑んだ。
窓の外一面に広がっていたのは──無数の写真だった。
笑顔の、沈黙の、泣き顔の、寝顔の、焦点の合っていない生徒たちの自撮り。教室の周囲に海のように波打ち広がるのは、果てしない量の"写真"。
そして虚空からこちらを覗く、数え切れないほどの"目"。
その目が、今、
一斉に、美優を見つめていた。
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