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CASE:025-1 鏡に映るもの

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

1-1. 影


 都立S井高校の旧校舎は取り壊されてもう数年になる。新校舎の白い壁や磨かれた床は現代のありふれた都立高校そのものだが、ぽつねんと前の時代からそのまま持ち込まれた物がある。──踊り場の鏡だ。

 正確には旧校舎三階の階段踊り場に掛けられていた、大型の壁掛け鏡。移設の理由は備品リスト上に廃棄予定なしの印があったためらしいが、当時作業にあたった用務員は妙に渋い表情でこうこぼしていたという。

「俺はあの鏡、移しちゃいけねぇと思ったんだけどな。なんとなくだけどさ」

 曖昧な言い方にもかかわらず、言外に含まれた気味の悪さだけは伝わった。だが、学校という場所はそうした曖昧な噂が育つ土壌がある。いまや七不思議のひとつに数えられるその鏡は、願いを叶える儀式だとか失敗すると取り込まれるだとか生徒たちに語られている。誰も本気では信じていないくせに。


 その鏡の前に、人影がひとつ立っていた。時刻は深夜二時過ぎ。昼間の喧騒の消え去った校舎は、まるで呼吸を止めた遺骸のようだ。人影は階段を上がると、足音を吸い込むように静まり返った廊下を一歩また一歩と進む。スウェットパンツの裾が揺れ、ポケットから揺れているのはスマートフォンに着けたマスコットだろうか。鏡の前に立つと、影──少女はそこでようやく、息を吐き出した。

 鏡は巨大で、縁には微細な傷が刻まれている。旧校舎で長年晒されてきたせいか表面に淡い曇りが沈殿しているように見えた。磨けば取れる、そう思わせながらどこか根から染みついた古傷のように取れない曇り。少女はじっと鏡を見つめる。まるで鏡の方が彼女を凝視しているようにも見える角度だった。

「……これで、変われる、んだよね」

 誰に向けた言葉でもない。自分自身を説得するような、あるいは誰かに聞かれては困るような声。空気の澱んだ階段の踊り場では、夜の校舎独特の無音が少女の息づかいだけを濃く浮かび上がらせていた。


 ポケットから取り出したスマートフォンのライトが、鏡の表面を薄く照らす。反射した光は鈍く歪み、曇った少女の顔を映す。輪郭がゆらぎ左右のバランスがかすかに狂って見えた。

「やっぱ……こういうの、怖いな」

 それでも鏡に向かう理由があったのだろう。小さく肩をすくめ、彼女は髪を掻き上げる仕草をした。指先が震えている。緊張、あるいは期待──そんな生ぬるい単語では片づけられない、もっと混ざり合ったもの。

 階段の下から、何かが動いたような気配がした。瞬間、少女は息を止める。視線だけをゆっくりと足元へ向けたが、何もいない。ただ、校舎の深部から遅れて響いてくるような何かの唸りだけが、微かな震えとなって届いた。やがて彼女は鏡の前に立ち直りスマートフォンを胸元に戻し、指先を鏡の表面へ伸ばした。──その瞬間、鏡の奥に沈んでいた曇りが、まるで息を吸うようにふっと揺らいだ。


 少女は気づかない。

 その揺れは、ただの光の反射ではなかった。

 鏡の奥には確かに何かがいた。

 外界をじっと覗き返すような、深く冷たい視線。

 少女の指先が鏡に触れた。

 温度のない、硬質なはずの表面が、かすかに沈む。

 それは水面に触れたときのような感触にも似ていた。

 少女の顔が、驚愕に引きつる。


 ただ、その瞬間に漏れた息すらも、夜の闇は飲み込んでしまう。

 消えるように──その影は鏡へと吸い込まれた。

 静寂が戻る。

 深まる夜気だけが、踊り場に残った。


 そして鏡は変わらぬ位置で変わらぬ曇りを湛えたまま、まるで何もなかったかのように佇んでいた。



1-2. 噂


 とある生徒の行方不明の知らせは、拍子抜けするほど軽く美優の耳に届いた。

「ねえ聞いた? 坪井由依、いなくなったんだって」

 昼休みの購買前。パン売り場のざわめきの中、その名前だけが水面の波紋のように広がった。南雲(なぐも)美優(みゆ)はチョコパンとフィレオフィッシュサンドを手に取りながら、頭の奥の記憶を探った。──坪井由依。特に接点のない同学年の生徒。名前だけは時折聞こえてくる。それもあまり良くない方向で。

 たまたまか、と飲み込めばそれで終わる。だが特異事案対策室で過ごし研がれつつある美優の中の『直感』が、雑音の奥で低く鳴った。

(……嫌な感じ)

 この嫌な感じが厄介だ。論理では説明できないのに後で振り返ると大抵合っている。だからこそ美優は渋々、当該クラスへ向かった。


 教室に近づくほど、廊下の空気はにぎやかになる。ノートをめくる音、椅子を引く軋み、誰かの笑い声──いつも通りの学校の午後。

「由美、数学の小テストどうだった?」

「えー、50点だった」

「ウソ、満点じゃん! 最近急に頭良くなってない? 裏切りものw」

「えー、そんなことないよw」

 なんでもない笑い声はからりと乾いて、床の光の反射の上で細かく跳ねた。美優はその横を通りながら、ふと自分の点数を思い返す。十五点。苦笑しながらも、頭の裏で別の思考が沈んでいた。誰も気づかないまま、怪異はいつの間にか日常に忍び込んでいるのかもしれない。美優はわずかに眉間を顰めた。


 当該クラスに入ると、空気の温度が少し変わった気がする。適当な生徒に声を掛けると、由依の話題がすぐに集まる。

「用事で話しかけても『つか、髪黒くてダサくね?』とか言われて、にべもない」

「ファミレスで『ハンバーグ一口ちょうだい』って言われて、半分以上食べられた。しかも由依のは絶対分けてくれない」

「他人の彼氏とるの常習。目的とるのだけって感じ」

「『帰りたくねー』とか言って夜、遊び回ってたよ」

 ひとつつひとつの言葉は軽いのに、積み重なるとどす黒い印象を残す。美優はスマートフォンで写真を見せてもらい、「やっぱり」と頷いた。


 派手なメッシュ。濃いアイライン。

 左目元の泣きぼくろ。耳には複数のピアス。

 鞄にじゃらつくストラップ。

 ──いわゆるギャル。遠目に何度か見かけたことがある。しかも素行はお世辞にも良くない。


(あー……これは行方不明のままでいいんじゃ……)

 一瞬よぎる本音。しかしその直後、自分で自分の襟首を掴んで引き戻す。

(いやダメだ、そういうの絶対ダメ。怪異の可能性あるなら一般人は守る。社畜の宿命。公僕の業)

 美優は胸の内で深いため息をついた。教室の窓際から、数人の女子がひそひそ声を立てる。

「……鏡じゃね? あれ使ったんじゃね?」

「儀式、失敗すると取り込まれるってやつ?」

「うちの先輩がさ、旧校舎の鏡ってヤバいって……」

 七不思議の踊り場の鏡。旧校舎から移設されたもの。


 噂はいつだって軽い。だが、軽いからこそ本物が混ざっていても誰も真剣に扱わない。

(……やっぱり、嫌な感じが強くなってきた)

 廊下の窓から射しこんだ光が、床に伸びている。その中に、自分の影だけが異様に濃く落ちているように見えた。美優は無意識のうちに爪を軽く噛み、すぐに手を引っ込めた。誰も気づかないまま、何かがじわりと動いている。その直感が頭の奥で警鐘を鳴らし続けていた。



1-3. 兆し


 電車の中、流れる景色をぼんやりと眺めながら美優は内心で深く息を吐いた。話を聞く限り何か火遊びに手を出したか、どれを取っても自業自得の部類に思えて仕方がない。だが、美優はその思考の端を自分でつまんでねじ切る。

(……ダメ。怪異の可能性があるなら調べる。それが仕事)

 社畜気質の自嘲とともに肩を落とした。特対室に出勤すると、部屋の空気はいつものように空調で乾いている。窓のない四角い部屋。書類の山。(とどろき)雷蔵(らいぞう)が軍手を外し、蜘手(くもで)創次郎(そうじろう)は書類を眺めながらコーヒーの紙コップを指で弾いていた。


「ふぅん、坪井由依……だったか。まあ、ただの家出の線が濃いだろ」

 雷蔵は気乗りしない声で言い、椅子の背もたれに体重を預ける。

「素行が素行だしなぁ。事件か遊びか、怪異かと言われたら……ま、優先順位は下だよな」

 蜘手も同意しているようだったが、視線だけは美優の表情を探ってくる。

「で、美優くん。どう思う?」

「……嫌な感じがするんですよね。直感です」

 蜘手がそこで指を止めた。雷蔵も一瞬だけ視線を上げる。


 直感。怪異に触れた人間だけが持つ、言葉にしにくい小さな振動。特に美優は素質が強い。

「……まあ、いいさ」

 蜘手は紙コップを丸めてゴミ箱に放り込んだ。

「確証が出るまで、この件は俺と美優くんで動く。轟は別の案件の方を頼む。透真(とうま)灯里(あかり)くんも、出ちまってるしな」

「おう、任せろ」

 雷蔵が短く返す。怪異ではない可能性が高い案件に人員を割く余裕は、特対室にはない。だが同時に、美優の直感を無視するほど愚かでもない。

「じゃ、美優くん。まず本人の行動範囲を洗うよ。家族からだな」


 蜘手は所轄の生活安全課を装って由依の自宅を訪れた。美優も離れた位置から同行し、耳に小型無線を押し当てる。

「ええ、あくまで任意で結構なのですが……娘さんの行き先で、何か手がかりになりそうなものがあればと思いまして」

 穏やかな声。それに対し由依の母親と思しき女性の声は、疲れ切っていた。

「……あの子、最近はずっと夜に出ていくんです。帰りも遅くて……でも帰ってこないことは今まで一度もなくて……私にもどこで何してるか、わからなくて」

 蜘手は相槌を打ちながら靴を揃え、部屋へと上がる足音が美優にも無線越しに響いた。

「娘さんの部屋、少し見せていただいても?」

「……どうぞ」


 美優は外で聞くだけだが、部屋の様子は容易に想像できた。散らかったコスメ。カーペットの上に放置された、ペットボトルやスナック菓子の袋。友人とのプリクラ。ベッドの下には押し込まれた着古しのパーカー。行儀の悪い生活の跡がそのまま形になっているような、思春期特有の蓄積。


 だが蜘手はさらにその奥を視る。パチンと指を鳴らすと不可視の霊糸が記憶の痕跡を求め部屋を探る。

「……ふむ。話で聞いた派手さと裏腹にずいぶん鬱憤が溜まってたみたいだな」

「鬱憤が溜まってた」

 美優は思わず呟く。

「親への反抗心と、庇護される側の苛立ちの入り混じり──まあ思春期あるあるだ。ただ、こいつは『変わりたい』って願望が強い。そういう匂いが濃いな」

 少し間があった。何かを引っ張り出す音。

「……ベッドの下、痕跡が強い。これは──アルバムだな」

 ページをめくる音が続く。

「幼い頃の写真。仲良さそうな家族だ。この頃は……良かったんだろうな」

 蜘手の声には、珍しく軽い陰りがあった。美優は胸のどこかが小さく痛むのを感じる。──ふたりとも壊れていく途中にいたのかもしれない。


 翌日、一部の生徒たちの間では既に噂が膨らんでいた。

「鏡の儀式に失敗して取り込まれたらしい」

「夜中に一人で学校来てさ、消えたんだよ」

「七不思議のやつ、ほんとだったんじゃね?」

 軽口と恐怖の境界に跳ねる噂。美優の背筋がひとりでにこわばる。

 ──やっぱり、始まってる。美優の直感は、もうはっきりと警告を鳴らしていた。何かが呼び寄せられたのか。それとも、由依自身が呼び込んだのか。いずれにせよ兆しは充分すぎるほど揃っていた。美優は拳を握りしめ視線を校舎の奥へと向けた。日常の背中に、ひそやかな影が立ち上がっている──。



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