CASE:024-4 忘れられたものは
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
4-1. 孵化
透真の観察ノートには、ここ数日で書き足された記録が並んでいた。紙魚の挙動、食性、行動パターン。雷蔵と蜘手は捜査、美優と灯里は学校関係者への聞き取り。静かな特対室で透真だけが机に向かい、件の透明ケースを覗き込んでいた。
ケースの中の紙魚は一匹。しかし、動きは昨日までとは違っていた。紙の上を這う速度が遅く、時折体をくねらせながら丸まって止まる。
「……活動量が低下している」
透真はメモを取りながら、小声で呟いた。温度・湿度・照度、いずれも変化なし。だが、紙魚の挙動は明らかに疲弊に近い。透視で視ると、体内の粒子の濃度がより濃くなっていた。
試しに別の紙──明治期の古報告書の写しを差し入れる。墨で書かれた文字。くずし字の連なり。紙魚はその上に移動すると、ふらつきながらも文字に口を寄せた。──ジリ、と音がした気がした。
墨の線がゆっくりと消えていく。透真はルーペで拡大し、食痕と筆跡の残りを追った。特に齧られた箇所は墨筆特有の粒子の密度が高い部分だった。
「……やはり。古い墨ほど反応が強い」
書体の時代が古いほど、紙魚の食いつきも良い。つまり、現代の印刷文字よりも、手書き文字──特に古い毛筆の文字を好む。透真はノートに結果を書き記す。その瞬間──彼の視界の端、ケース内の紙になかったはずの文字が映る。
『紙魚』。透真のペンが止まる。紙魚がいつの間にか印字したようだ。文字の輪郭が、まるで水面に映った影のように波打っている。墨が滲んで広がり、そこから何かが這い出すような感覚。ルーペを構える間もなく、文字の線が裂けた。
──ぴちっ。わずか三ミリほどの灰色の粒が、紙面から跳ねた。透真は思わず息を呑む。そこにいたのは、先ほどまで観察していた紙魚と瓜二つの姿。極小の個体が、まだ乾いていないその墨跡の上を這っていた。
「……自ら、文字を孵化させるのか」
紙魚は、一定条件下で紙魚という文字を尾から分泌した墨状物質で描く。その文字から、新しい紙魚が生まれる。つまり、紙魚という語そのものが、繁殖の呪文だった。
透真はルーペを通して観察を続けた。親個体は体が軽くなったように、体をくねらせている。透視をすると先ほどまで真っ暗に渦巻いていた粒子の濃度が低下している。机の上のライトに体表の銀粉が反射し、淡く光った。
「満腹か限界か──体内の情報容量が一定に達すると、産卵し増殖するのか──」
透真はペンを置き、深呼吸する。
「博物館や資料館に入り込んだら短期間で増え、壊滅的な損害になるな」
中では孵化したばかりの小さな紙魚が、ゆらゆらと体をくねらせていた。親から巣立った世界で、最初の一口を探しているように。
「……原因は、やはりあの報告書か」
呟きながら、透真は記録をファイルにまとめた。かつて特対室で扱った古い報告書──齧られて穴だらけになっていたあの紙。おそらく、その中に『紙魚』の卵が混じっていた。そしてそれが、何らかの拍子で孵化したのだ。透真はノートの端に小さく書き記した。
『紙魚:言葉と記録を喰う。一定の情報量を抱えると自らの名を記し、そこから新たな個体を孵化させる』
ペン先が止まる。透真は紙魚という文字を塗りつぶした。
4-2. 捕獲
都立S井高校の夜は静まり返っていた。非常灯だけが薄緑の光を落とし、廊下の奥でかすかに窓がカタンと風に鳴る。黒いパーカーにブラックデニム姿の美優は、肩にかけたトランクをそっと置く。中には、特対室製の特別仕様ゴキブリハウス。内部には筆で書かれた変体仮名──今では教科書にも載らない古い筆文字が仕込まれている。
「……これ、やってること完全に不審者だよね」
誰に聞かせるでもなく呟く。しかし白鼠の豆大福は、カバンの口からひょこりと顔を出し、チュッと相槌を打った。
「そうだよね、見張りよろしく」
美優は靴を脱ぎ、上履きに履き替える。──汚い。洗おう洗おうと思って、結局いつも忘れる。職員室、図書室、校長室。あらゆる所へと捕獲器を三十個、ひとつずつ設置して回る。和紙に墨が乾く匂いがかすかに夜気に漂う。静寂のなか、美優の足音だけがこつこつと廊下に響いた。
一週間後。再び夜の校舎に潜入。回収した箱のうち、二十五個は空だったが──残り五個の底には銀粉の跡。三つには成虫の紙魚が、二つにはミニ紙魚が、粘着シートの上で観念したかのように銀白の体をもぞもぞと動かしていた。
「やば……増えかけてた……キモ」
美優は顔をしかめ、懐中電灯の光をそっと遠ざけた。豆大福が興味深げにその箱の中を覗き込み、ヒゲをひくつかせる。
特対室内に仕掛けられたゴキブリハウスからも二匹、紙魚が捕獲された。翌日、飼育ケースが机の上に並ぶ。透真と蜘手が向かい合い、解析を始めていた。
蜘手は指先に霊糸を走らせ、捕獲された紙魚に軽く触れる。細い糸が虫の体内に入り込み記憶の残滓を拾い上げ、読み上げる。透真はそれを入力していく。
──『数学 提出 月曜』『ありがとう』『こわい』。
重要な情報が紛れていないか、選別していく作業だ。やがて一番大きい紙魚個体から、報告書内のものと思われる記憶も出始める。それは、恐らく食害の酷かった報告書のものと思われた。
「やはり──発生源は、かつての報告書そのものです。穴だらけのあれです。おそらく、紙魚の卵文字が報告書の中に紛れ込んでいた。それが特対室という怪異の対処法を収集するある種の異常空間内では、ファイル内に『封』をされていた。南雲のデータ入力作業の為に開かれ外気に触れ、拡散の経路ができたことをトリガーに孵化したのでしょう」
蜘手が頬を掻いた。
「そんで、たまたま美優くんのカバンに潜り込んで、学校までお出かけってわけか」
「……なんか私、悪者みたいじゃないですか」
「怪異の運び屋女子高生か、新しいねぇ」
蜘手が苦笑すると、豆大福が机の端でチュと小さく鳴いた。美優はその様子を見て、背筋をすくめる。
「ねぇ……これ、完全に駆除できるんですか?」
「影響範囲が狭いうちに気付けたのが幸いだった。当面の経過観察は必要だが、トラップの有効性も実証された。引き続きトラップは設置しよう」
透真の声は落ち着いていた。
4-3. 豆大福
「お疲れさまでーす」
美優が特対室に訪れると折悪く無人だった。と言っても特に珍しいことではない。特に透真と蜘手はここ最近、紙魚事件にかかりきりだった為、もともと担当していた案件に遅れが出ているのだろう。美優はエナジードリンクを啜りながら、データ入力の準備を始めた。
ふと、紙魚が管理されているケースに視線が留まる。蓋がずれている。そしてその中に見えるのは、白い餅のような後ろ姿。美優の脳裏に嫌な予感が浮かんだ。彼女が慌ててケースに駆け寄り覗き込むと、ケースの中の白い塊──豆大福がゆっくりと彼女の方へ振り返った。その前足には頭のなくなった紙魚が掴まれていた。
「……豆?」
豆大福は美優を見上げながら、口をモシャモシャと動かし続けている。10匹居たはずの紙魚が見当たらない。
「……まさかとは思うけど、食べた?」
豆大福は何も言わずひげを震わせ、ぺろりと前足を舐めた。ほのかに漂う、紙と墨の匂い。
「ギャアアアアア!」
美優が叫び声を上げると、通路から走る足音が聞こえてきた。ドアが開き現れたのは、透真だった。
「何の騒ぎだ?」
透真は観察するように室内を見渡したあと、何が起きたのかを察した。
「……うまく飼い慣らすことができれば、秘匿性の高い通信手段に使えたかもしれなかったな」
「……はい?」
美優は間の抜けた声を出した。透真は若干残念そうな表情をしながらも、何事もなかったかのように席に着いた。
(何考えてんだ? この人……)
美優は呆れながらも、椅子に背を預けた。
その晩、美優の自室。プリントや教科書が乱雑に散らばった机の上には、上履き袋が置かれていた。
「……あ」
美優は洗おうと思い持ち帰ってきたことを思い出した。しまった、今から洗うんじゃ乾かない。しかしすぐに心の中で、まぁいいかという声がした。はたして上履きのことを忘れていたのは、本当に紙魚のせいだったのか。そのまま、美優はベッドに倒れ込んだ。
4-4. 忘れられたもの
とある屋敷の書斎。明かりは灯もされず、障子の向こうから淡い月の光が流れ込んでいる。机の上では、白鼠──がちょこんと座り、両前足を使って何やら必死に身振りをしていた。
「チュ、チュチュッ、チュチュチュ」
その鳴き声に、部屋の主の影がポンと手を打つ音が響く。
「ふむ……なるほど。たしかに昔、知識収集用に作った式神があったが──野生化していたのか」
声の主は、男性とも女性とも、若者とも老人ともつかぬ声。障子の向こうに立つ影が、くつくつと笑った。
「忙しさにかまけて、忘れていたよ。だがまあ、いいさ。片づけたのだろう?」
白鼠は胸を張るように、短い前足を広げてみせた。影が微かに微笑む。
「うんうん、よくやった。食べたのか」
「チュ」
「そうか、そうか。あれも言葉を喰う虫だったからな。素体が虫ですぐ逃げた。──お前が食べたなら、それもまた巡りだ」
窓の外で風が笹を鳴らす。机の上の古書が一冊、ぱらりと開いた。開かれた頁の端に、紙魚という文字。それがゆっくりと薄れ、やがて完全に消えた。
「時には忘れることも、世界の均衡のうちだ」
その言葉を最後に、影は音もなく掻き消えた。月の光だけが、白鼠の小さな背中を照らしている。白鼠はしばらくその場に座り、やがて一度だけ尻尾を振って、静かに跳び降りた。
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