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CASE:024-3 忘れられたものは

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

3-1 捕食


 その日、美優は噂の調査のため都内大学キャンパスに潜入していたが、結局たいした収穫は得られず徒労感とともに特対室へと戻ってきた。ドアを開けると、照明がいつもより眩しく感じる。人の気配はない。ふと机の脇の学生鞄に目をやると、僅かにジッパーが開いている。

 次の瞬間、白い塊がもぞりと這い出てくる。片手ほどの小さな体。白鼠──豆大福だ。

「ちょっと、勝手に人のカバン漁らないでよ」

 叱る声もどこ吹く風、豆大福は机の上をすばしこく走り回る。その口元に、何かが光った。

「……え?」

 美優は目を凝らした。豆大福の小さな歯の間に、何か細長いものが咥えられている。それは紙の切れ端のようであり、銀の小魚のようでもあった。

「豆、それ何くわえてるの」

 豆大福は首を傾げ、ピタリと動きを止めた。口に咥えたそれは、くねくねと体をよじらせる。平べったく、頭部から二本の長い毛。細長い魚の尾ひれのようなものの脇にさらに二本の長い毛。よく見ると六本の脚が必死に空を掻いている。


「ギャアアア! 虫じゃん!!!」

 美優が思わず悲鳴をあげると豆大福はびくりと体を震わせ、なおもそれを口に咥えたまま後ずさる。

「ペッ! それ捨てて! 豆、ペッして!」

 美優が両手をばたつかせて追いかけるが、豆大福は逆に逃げる。机から棚、棚から書類ラックへ。白い残像の姿を残しながら、豆大福の姿があちらこちらへ跳ねる。書類の山が崩れ、ファイルが雪崩のように落ちた。美優は棚の隙間をふさぐように腕を広げ、「逃がすかっての!」と叫ぶ。

 だが豆大福は軽やかだ。紙の束を蹴って飛び、プリンターの上に着地。白鼠の動きが陽炎のように揺らめき、位置が錯覚でずれる。そこへちょうど扉が開き、透真が顔を出した。

「何の騒ぎだ?」

「透真先輩! 豆が! 虫みたいなのくわえてて──!」

「虫?」

 透真が瞬時に状況を把握する。机の上、逃げ回る白い影。

「待て──」

 美優と透真が左右から挟み撃ちにするが、豆大福はさらに加速した。足音も立てずに跳ね、残像を三つ残す。書類が舞い上がる。翻弄された美優が椅子を蹴っ飛ばす。まるで小型の嵐。

「豆っ! ストップ!」

「──透視」

 透真の瞳に淡い光が宿る。瞬間、視界の残像と実体が明確に分かれ、エネルギーの残渣として豆大福の動きのパターンが軌跡となり浮かび上がった。次の跳躍地点を正確に読み取り予測し、透真は空中でその小さな体を片手で掴んだ。


「──確保」

「すご……」

 美優が呆然と息をのむ。豆大福はじたばたと暴れながら、口を閉ざしたままチュチュチュと抗議する。透真は落ち着いた手つきで、指先でその口をつまんだ。

「おとなしくしろ。……吐き出せ」

 やがて観念したのか、豆大福の口からそれが落ちた。机の上に転がったのは、体長三センチほどの銀白色の虫。魚のように薄い体をひねり、ぴちぴちと跳ねている。触角が震え、尾が波打つ。

「うわあああああ……やっぱ虫!!!」

 美優が倒れた椅子ごと後ずさる。その虫は紙の上を泳ぐように動き、文字の上で立ち止まる。すると、そこだけインクが薄くなった。透真がすぐにルーペを取り出す。

「……紙を、齧っているな。繊維を分解している。シミに似ているが──口器の構造がまったく違う」

「シミって……本の中にいるあれですか?」

「ああ。ただ、これは違う」

 透真は低く呟き、虫をピンセットでつまみ上げる。透視で見ると虫の体内で微細な黒い粒がゆっくりと動いた。

「墨の粒……? いや、違う。もっと……情報的な何か……概念のような」

 透真が眉を寄せると同時に、豆大福がチュチュッと鳴いた。強がりのためか、反省の気配はない。

「豆……あんた、これどこで拾ったの?」

 美優が問いかけても、首を傾げるだけ。小さな前足で美優の鞄を指差すような仕草をした。

「……私のカバンの中?」

「ということは、南雲の鞄の中に巣でも作っているのか?」

 透真が淡々と言う。彼の眼差しが虫の微細な脚の動きを追う。


 その瞬間、虫が跳ねた。紙の表面が水面のように波打ち潜り込み、あっという間に姿を消す。机の下の封筒が微かに動いた。

「っ、逃げ──」

 透真が身を乗り出し、封筒を持ち上げる。中から、パリ……という音。そこには新たな穴が空き、封筒を振ると穴から虫が落ちてきた。

「齧られたな」

「これ、もしかして例の現象と関係あるんですか」

「おそらくな。間違いなく、ただの虫であるはずはない」

 透真が虫を再びピンセットで拾い上げ、プラスチックケースに移す。ケースの壁に当たるたび、銀色の粉が舞った。

 豆大福が口をモゴモゴさせながら、名残惜しそうにそれをじっと見つめている。

「だーめ!」

 美優が手を伸ばし、抱きかかえるようにして止める。

「あんたそれ食べたらお腹壊すって!」

 豆大福は「ぼくの戦利品なのに」とでも言いたげに、尻尾を垂らした。


 荒れ果てた特対室、あちらこちらにファイルは崩れ落ち、書類は床に散らばり、倒れた椅子が一脚。透真は深呼吸をして、乱れた髪を整えた。

「まるで嵐が通り過ぎた後だな」

「豆大福台風、ってとこですね」

 美優が苦笑いを返す。その視線の先で透明ケースの中の虫が、ゆっくりと魚のように体をくねらせていた。



3-2. 観察


 翌朝、蜘手の机の上には小型の透明プラスチックケースが置かれていた。中には裏紙のA4用紙が一枚、折り目もなく敷かれている。そして──その上を、銀白色の小さな生き物がゆっくりと這っていた。

「これが、例の虫か」

 蜘手が腕を組み、興味深そうに覗き込む。透真はマスク越しに小さくうなずいた。

「ええ。肉眼ではただの昆虫のようですが、昆虫とも分類しづらい。形態的には鱗翅目の古系統、つまりシミに近いですね」

 ケースの中で、虫は滑るように紙の上を進む。足の動きがほとんど見えない。水面を泳ぐ魚のように、体をしならせて進んでいく。その軌跡には、微細な銀色の粉が線を描くように残る。

「……まるで泳いでるみたいだな。紙の上を」

 蜘手が低く呟く。透真はピンセットでA4紙の端を持ち上げ、もう一枚紙を差し込んだ。

「この紙には968と書かれています。覚えておいてください。試しに、重ねてみましょう」

 虫はためらいもなく二枚の紙の隙間に潜り込む。そして、まるで水に沈むように姿を消した。

「おい……どこ行った?」

「紙の繊維の中に潜りました」

「繊維の中?」

「ええ、透視すると内部に微弱な運動波が見えます。魚が水中を泳ぐように、紙そのものを媒体として移動しています」

 透真は虫の動きを追いながら、透視の焦点を細めた。虫の体の中には、墨の粒のような黒いものが無数に蠢いている。まるで微小な文字列が形を変えながら流れているようにも見えた。

「体内に、何か情報のような構造があります」

「情報? お前、また難しいこと言い出したな」

 蜘手は半ば冗談のように笑うが、目は真剣だ。ケースの底から、わずかに紙が動く。虫が紙の内部を移動しながら、繊維を食んでいるのだ。音はしない。だが確かに、何かが失われていく気配だけが残る。


「紙を食ってる? まぁ紙魚って書くらいだからな」

「ええ。ですが……これは情報を食べているようにも見えます」

「は?」

 透真は慎重に紙を引き抜き、ケースの外に置いた。中央部には細い線状の穴が走り、そこだけ文字が消えている。

「齧られた箇所の文字だけが消えています。何が書かれていたか、覚えていますか?」

「何って、さっき聞いたろ? ──あれ?」

「俺も覚えていません。つまり、そういうことです」

「……気味の悪い食性だな」

 蜘手が苦々しく眉をしかめた。

「それで、どう呼ぶ?」

「見た目に準じて、紙魚でいいでしょう」

「まんまだな」

 そのやり取りの最中、机の端で小さな白い影がぴょこんと跳ねた。豆大福だ。

 昨日の捕獲劇の主犯──いや、功労者とも言うべき存在。ケースをじっと見つめ、物欲しげに前足を合わせている。ぼくが捕まえたのに、とでも言いたげだ。

 蜘手が苦笑する。観察を続けている透真が顎に手を当て、黙り込む。ケースの中の紙魚が、再び紙の表面に姿を現したのだ。しかしその動きが、どこかおかしい。先ほどより滑らかに、体表がわずかに波打ち、文字のような模様が浮かんでは消えた。


「……今、『あ』と見えませんでしたか?」

「え?」

「体の模様です。漢字のひらがなの『あ』のような曲線が、一瞬」

 蜘手も覗き込み、低く唸った。

 虫は紙の上で再び止まり、体を丸める。そのまま小さな黒い粒を点々と、紙の上に落とした。それはすぐに乾いた墨のような粉となった。

「……炭素? 構造的に、墨に近い粒子です」

「糞か?」

「いえ、どちらかと言うと何かを再構築し印字しようとしているような……」

 するとその黒い粒はやがて、紙の上に『あ』の文字を象った。

「ややこしい虫だな。記憶喰いの上に印刷機能つきかよ」

 ケースの中では、紙魚が再びゆっくりと紙の中へ潜っていく。体の輪郭が淡く揺れ、やがて消えた。空気の振動も、音も、何も残らない。


 しばらく沈黙が続いた。蜘手が腕を組み、ぼそりと呟く。

「……お前の透視、この虫に通じるか?」

「ええ。内部構造は確認できます。ただ、情報層に近い領域が不安定です。観測するたびに像が揺らぐ。まるで未知の記録媒体のように感じます」

「媒体……ねぇ」

 透真はただ静かに頷いた。再びケースを覗き込み、淡く光る瞳で中を透かす。

「……黒い粒子の動きが活発になっています。紙魚の体内で、何かを再構成しているようです」

「またか? 今度は何だ?」

「齧った情報。──つまり文字そのものを」

 観察・検証は続き、静かな時間が流れる。文字を食い、文字を吐く──そんな、あり得ない生命だった。



3-3. 記憶


 検証三日目。透真のデスクの上には、書き損じの報告書や週刊誌の切り抜きが山のように積まれていた。ケースの中の紙魚は銀白色の体を細かくくねらせ、紙面の端からゆっくりと進んでいる。横では蜘手がコーヒーを啜り、無精髭をさすりながら覗き込む。

「真っ白な紙は無傷、か。好みがはっきりしてるな」

「ええ。線画は食べるようですが写真は好まない。一番嗜好が強いのはやはり文字ですね」

 今、紙魚は週刊誌の切り抜きの文字を食べている。文字が消え、やがて穴となっていく。

「蜘手さん、今の記事の内容は?」

「あれだろ? 今騒がれてる、俳優の不倫の」

「ええ。世に同じ記事が多く出回っているようなもの、それを食害されても記憶は失われません。しかし──」

 透真が手書きのメモをケースに挿し入れると、紙魚がそれに移り文字を食べだす。そこに書かれていた文──「対策手順──」という語句の後がまるごと消え、穴となっていく。

「もう、思い出せません」

「おいおい、ってことは」

 蜘手が軽口めかして言ったが、声には緊張が混じっていた。透真が続ける。

「蜘手さん、霊糸での検証をお願いします。これのより詳細なスキャンは恐らく、霊糸の方が向いています」

 蜘手は「あいよ」と指を鳴らす。不可視の霊糸が伸び、紙魚の体内へと接続される。数秒後、蜘手の脳裏にホログラフのような像が浮かび上がった。紙魚の内部に、光る線が複雑に交錯している。それは、齧られた文字の筆順そのものだった。

「これは──怪異の対処法だな。いや、待てよ。思い出した。この間、間違えてた対処法だ。さっきのメモか」

「やはり。齧った文字を体内に保持しています。これが記憶喪失の原因。情報を概念として、丸ごと奪っているんです」

「つまり、知識の抜き取り屋か」

 蜘手が腕を組む。

「そういうことですね。しかも保存方法が生体──純粋に生体というには怪しいですが──というのが厄介です。何らかの外因で死んでしまえば、その情報は永久に失われるかもしれません」


 向かいでデータ入力をしていた美優が身を乗り出した。

「じゃあ、学校でみんなが忘れてるのもこいつのせい?」

「可能性が高い。特に、唯一性のある情報──つまり、他に同じ内容が存在しない個人の書いた文字を好むようだ」

「個人の……?」

「日記、手紙、メモ──そういったその人しか書いていない文字だ」

 美優は、以前見つけた虫食いのメモを思い出した。くしゃくしゃの紙に開いた穴。

「……じゃあ、やっぱりあの時のメモ、食われてたんだ」

 透真が静かに頷く。蜘手は半ば冗談めかして肩をすくめた。

「ちなみに霊糸で探ったら色々出てきたんだけどさ。美優くん、学校で先生からなんか頼まれてたろ?」

「それなんですよ! うーん……なんだったっけ……」

 美優は眉を寄せた。

「確か先生に呼び止められた気がするんだけど……内容が……」

「上履き、じゃなかったか?」

「え?」

「上履きが汚いから洗う、だってさ」

「……え、それ?」

「あとはよくわからねぇが、『ホキのフライ』とか。心当たりある?」

 拍子抜けして美優は苦笑した。

「くだらねぇほど些細な記憶でも、奪われるもんなんだな」

「ええ。重要度ではなく、文字の存在の希少性が鍵なんです」

 透真の声が静かに響く。

「たとえば、千冊ある教科書の一節が齧られても誰も困りませんが、世界に一つしかない古文書や報告書──それが食われたら記録も、記憶も消えます」

「……怖いね」

 美優がつぶやく。

「誰も気づかないまま、世界から事実が減ってくってことじゃん」

「ああ。だから気づけたのは幸運だ」

「透真、これ拡散の危険は?」

「卵のようなものはまだ確認されていませんが……可能性はあります。そもそも、どこから持ち込まれたのか」

「……まぁ、今回はネズミのお手柄だよ。あいつがいなかったら、もっと広がってたかもしれねぇ」

 蜘手の声がやわらぐ。

「それに齧られた記憶が上履きだったってのが、救いだ」


 笑いが小さくこぼれた。だが、その奥で透真の瞳は微かに曇っていた。失われたのがくだらない記憶であったのは偶然にすぎない。もし齧られたのが、重大な事件の記録だったなら──。紙魚はケースの中で静かに丸まり、再び紙の中へ潜っていった。わずかな銀粉だけが、光を受けてきらめいていた。


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